示す先 前編
月が天頂に届く深更。
大通りから一本脇に入った商家から激しい物音と悲鳴が響き渡った。
「きゃぁぁぁぁぁっ!!」
静寂が支配する中で、その騒ぎを聞き逃す者などいない。
巡察中の一番隊は、反射的にそちらへと走り出した。
「行きます!」
隣にいた総司に囁くように告げ、今日の死番に当たっていたセイが
ぽっかりと開いている表戸から中へと走りこむ。
同時に総司も中へ踏み込んだ。
本来であればすっかり片付いているはずの店内が、乱雑に荒されているのが
背後の隊士が向けた灯りの中に浮かび上がった。
瞬間、セイが動いた。
数歩先で壁際に蹲った丁稚らしい少年に向かって男が刀を振り上げていたのだ。
セイが子供を抱えて転がりながらその場を避ける。
男の刀がその後を追うように空間へと振り下ろされる。
それを甲高い音と共に火花を散らして受け止めたのが総司の刃だった。
ギラリと鈍く光る男の瞳は確かに殺気を放っている。
男は一度セイの腕の中に抱えられている子供を忌々しげに睨みつけた後、
引き戻した刀を総司に向かって叩きつける。
「・・・っ、死ねっっっ!」
渾身の力を込めただろう刃は総司の一太刀であっけなく弾かれ、
不安定に身体の均衡を崩した所を袈裟懸けに斬り下ろされた。
「・・・・・・・・・・・・っ・・・」
苦鳴を上げる暇も無く、男の身体が崩れ落ちる。
バタバタと裏手に向かって走り去る足音が聞こえた。
共に押し込みを働いた仲間達が逃げようというのだろう。
けれど既に隊士の半数以上を裏手に待機させていた総司は、慌てて追う気配も無い。
周囲に隠れている敵がいない事を確認して、セイの元へと歩み寄ろうとした
総司の足が、凍りついたように止まる。
セイの眼が大きく見開かれた。
他の隊士達も同様に息を飲む。
子供が漏らした、たった一言を耳にした瞬間に。
「・・・ちち、うえ・・・?」
少年の視線は、総司に斬られ倒れ伏した男の面に据えられていた。
「こんにちは!」
路地の奥、異臭の漂う長屋の隅にセイは顔を出した。
「・・・これは、神谷様」
「あ、そのままで。寝ててください」
入り口の目の前、四畳半程度の一間に横たわっていた女が
起き上がろうとしたのを、セイが慌てて止めた。
布団とも言えない薄い布地を身体にかけた女は、今にも消えそうな程
痩せ細っている。
それでも礼を欠かすまいとするその様子と、凛とした物腰が武家の出だと語っていた。
「今日も薬を持ってきたんですよ。少しでも早く元気になって貰わないと
信太だって・・・」
――― どん!
言葉の途中でセイの身体を弾くように脇腹に何かがぶつかってきた。
振り向く前に激しい怒りに満ちた言葉が投げつけられる。
「何を勝手に入り込んでるんだよっ! お前なんかの顔は見たくないって
何度言ったらわかるんだ、この人殺しっ!!」
セイの顔が苦しげに歪んだ。
あの日。
駆けつけて来た役人に腕の中にいた子供を預け、事情を説明してその場を後にした。
巡察を続けるためにその場を離れる段になっても、幾度も背後を気にして
振り返るセイに、総司が厳しく言いつけた。
「一切関わる事は許しませんよ」
情に流されやすい部下の性質を、上司である男は熟知していた。
あの子供と浪人者らしい男の間に何があるのか、そんな事に首を突っ込もうものなら、
どんな厄介な事態を招く事か。
それは総司だけでなく、周囲の仲間達にも容易に想像できる事だったのだ。
だから役人に全ての後始末を任せ、巡察中だからという事で早々にその場から
セイを引き離したのだ。
けれどそんな周囲の気遣いもこの隊士には通用しない。
次の非番の日に奉行所を訪ね、顔見知りの役人を捕まえると詳細を聞き出した。
斬られた男は京へと仕官の口を求め、妻子を伴ってやってきた事。
剣の腕に自信のあった男は争乱の京であれば自分にも道が開けると
思っていたらしいが、逆にそんな危うい情勢だからこそ
身元のしっかりしない者など雇い入れる場所も無い。
元々はそれなりの家格の者だったらしく、新選組のように有象無象の中に入る事は
矜持が許さなかったらしい。
そうこうしているうちに暮らしはどんどん苦しくなり、気づいた時には
悪い仲間に加わって強請りたかりの日常にまで堕ちてしまった。
挙句身体の弱い妻を売ろうとしたが寝ついている事がほとんどの女子など、
商売物にならぬと断られると唯一の息子を大家を脅して後見人とさせ、
口入屋を通して商家へと奉公に出した。
実際は奉公という名で売り払ったも同然だったという。
「そして、その息子に手引きをさせて、あの商家へと押し込みに入ったようです」
こそりと役人がセイの耳元で囁いた。
ただその息子が何も知らないと言い張った事と、あの商家の家人が
全て殺されてしまった事で何一つとして証拠が残っていなかった。
そして総司達が踏み込んだ時、当の少年さえも殺されかけていたという事実が
その子供を追求する手を緩める事となり、最終的には被害者の一人として
お構いなしとされる結果となった。
「でも・・・間違いなく、手引きをしたのはあの子供です」
役人の複雑そうな声音がセイの耳朶に張り付いていた。
『関わる事は許しませんよ』
総司の言葉を忘れたわけではない。
けれどどうにも気になったセイが、役人に聞いたその子供の家を訪ねた時
小さな長屋の一室にはやつれきった女子が一人横たわっていた。
セイが新選組の者だと名乗った時にも、自分の夫が誰に斬られたかを
知っていただろうに、ひっそりと笑っただけだった。
その薄い笑みが全てを物語っていた。
夫の暴挙を知りつつ嗜める事も出来ず、思い通りにならない身体を抱えて
全てを諦めきった女の思いを。
これではいけないとセイは思ったのだ。
この女子一人ではない。
あの夜、腕の中で呆然としていた子供の姿を思い返す。
あの子のためにも、この女子はこのまま果ててはいけないのだと。
だからどこかから戻ってきた少年に詰られ物をぶつけられながらも、
その母御の病の具合を確かめた。
確かに元々蒲柳の質なのは確かだが、不調の大きな原因は慣れない土地での
厳しいその日勤めの仕事と、貧しい食生活から来る過労と心身衰弱と思われた。
大きな病で無い限り、回復する余地はある。
胸を撫で下ろしたセイは、その日から非番の度に滋養に効く薬と少しの食べ物を
見舞いとして届けるようになったのだ。
それから二月。
痩せ細っていた女子の頬にも血の気が戻り始めていた。
「人殺しっ!」
言葉というものは時に刃以上の鋭さで心に傷を齎す。
セイの顔が苦しげに歪んだ。
「信太っ!」
母親の言葉にも少年の口は閉ざされる事は無い。
「いくら母上が許しても、俺は許さないからなっ! 父上を殺したのはこいつらだっ!
平気な顔をして、よくも来られるもんだなっ!」
「信太! いい加減になさい! 神谷様は・・・」
「いえ、いいんです・・・」
母親の必死な制止の声に、セイが無理に浮かべた笑みで答える。
「信太の気持ちはわかりますから・・・」
自分も父と兄を殺された。
たとえ斬った側に正当な理由があろうとも、目の前でその光景を見てしまえば
恨みや憎しみを覚えないはずもないだろう。
それが理解できるから、セイはこの親子を放っておけないのだ。
「・・・何がわかるっていうんだよ・・・」
信太が暗い瞳でセイを見つめる。
「お前もあの男も俺は絶対に許さない。お前達も大事なものを亡くしてしまえば
いいんだっ! そうだ。お前達が同じ思いをするのは当然なんだ!
俺は・・・間違ってなんかないっ!」
一瞬子供の眼の中で何かが揺らいだような気がして、セイが近づこうとした。
「出てけっ! お前の顔なんて見たくないって言ってるだろっ!!」
セイの視線に怯えたように激しい言葉と共に、手近にあった柄杓を振り上げると
癇癪を起こしたように振り回しだした。
「う、うわっ!」
思わずセイが家から路地へと身を移す。
と、同時にぴしゃりと戸が閉められた。
「二度と来るなっ!!」
中からの叫び声に痛みを覚え、視線を足元に落としたセイは
とぼとぼと屯所へ戻っていった。
「困りましたねぇ・・・」
言葉の割には切迫感を感じさせない声が落とされた。
落ちたのは言葉だけではなく、頭上から時折土くれがパラパラと降ってくる。
そして、言葉を漏らした男もまた落ちていた。
「誰か〜? いませんか〜〜〜?」
精一杯の声を張り上げても狭い空間にわんわんと響くだけで、鳥の鳴き声以外
呼びかけに応えるものは無い。
「ふぅ・・・まさかこんな事になるなんてねぇ・・・」
注意力が足りないんですかね、私には・・・。
ぽつりと呟きながら、とさりと腰を下ろした。
井戸の底に。
セイが非番の度に出かけている事に気づいて、今日こそは行く先を質そうと
思っていたのに、いつの間にかまたも姿が消えていた。
門衛に少し前に出て行った事を聞いて慌てて追いかけようとしたのだ。
その時、小さな男の子に伝言を頼まれたという若い娘に呼び止められた。
「神谷はんが大変や、て言うてましたえ。九条の端で怪我しはったて」
心配げに伝えられた言葉に、瞬間的に里乃と共に暮らしている正一の顔が浮かんだ。
何らかの事情で二人が一緒にいてセイが怪我をし、自分に助けを求めたのかと。
慌てて駆けつけた九条の端に広がる丈高い草の向こうに頭上で結われた
子供の髪が見え隠れしていた。
そこでセイが動けなくなっているのかと、総司は真っ直ぐに走り出した。
少し先に草で隠れた枯れ井戸が、ぽっかりと口を開けていたのを知るのは
踏みしめるべき大地が無い事に気づいた時だった。
「本当に参ったなぁ・・・」
幸い枯れ井戸の底には枯れ葉が幾層にも積み重なっていたおかげで、けっこうな
高さから落ちたにも関わらず総司の身体に怪我は無い。
けれど井戸の縁は総司の身長の三倍はあるだろう。
とても自力で登れるものではなかった。
ガクンと身体が空に放り出された瞬間、件の子供が振り返った。
その顔が確かに先日斬った男の子供だと総司は確認していた。
「はぁ・・・あの子じゃ、誰か助けを呼んでくれるはずもないですしねぇ」
助けどころか、自分をこの場所に落すために呼び出したのは確かだろう。
そうであれば尚の事、助けは来ないと思われる。
――― とん
井戸の土壁に背を預けて頭上を望むが、小さな円形に切り取られた空には
いつの間にかどんより重たげな雲が見えるばかりだ。
間もなく陽も暮れる頃だろう。
春先の夜は冷える。
そこに雨が降ってこようものなら、体力のある自分だとてかなり危うい状況に
陥るのは間違いない。
「・・・・・・誰か通りかかる、なんて幸運は期待できないんでしょうねぇ」
このまま井戸の底で死ぬのは御免だな・・・と、小さく溜息を吐いた。
その時。
『・・・・・せ〜い?』
「え?」
聞き慣れた声が耳を掠めた。
「神谷さん?」
半信半疑で総司が立ち上がる。
もっとよく聞こうと伸び上がるように上を見上げた。
『・・・きたせんせ〜い? いるんですか〜?』
「神谷さんっ! か・み・や・さんっ!! ここですっ!!」
間違えるはずも無いその呼びかけに、精一杯の声を張り上げて自分の存在を
知らせようとした。
『沖田先生っ! えっ? 本当にっ? どこっ、どこですっ?』
ガサガサと頭上で草を掻き分ける音が聞こえる。
総司が安堵の溜息を吐き出した。
これで少なくとも、井戸で生を終える事は無くなりそうだ。
そう気を抜いた一瞬がまずかったのだ。
『沖田先生!! どこに隠れているんですっ?』
不機嫌そうなセイの言葉に、総司がハッと眼を見開いて声を上げた。
「神谷さんっ! 足元っ! 足元に注意・・・」
「きゃぁぁぁぁぁっ!!」
言葉が届く前に総司の目の前にセイが降ってきた。
咄嗟に腕を突き出した総司が軽い身体を受け止める。
「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」
次の瞬間、顔を見合わせた二人が同時に頭を抱えた。
「まったく・・・貴女まで落ちて、どうするんですか・・・」
「・・・すみません・・・」
呆れた響きのその言葉にセイがシュンと俯いた。
「これで何とか脱出できるかと期待したのに・・・」
「・・・はい・・・」
「はぁ・・・井戸の底で命尽きるなんて、情けないですよねぇ」
「・・・はい・・・」
「近藤先生、心配するだろうなぁ・・・」
「・・・はい・・・」
「まだ食べてない甘味も色々あるのに・・・」
「・・・は・・・?」
「もう一度鍵善のくずきりを動けなくなるまで食べたいなぁ・・・」
「・・・・・・・・・」
「北野の焼き餅もまだ食べ足りないし・・・」
「・・・・・・・・・(怒)」
「ああっ! 屯所に置きっぱなしのお菓子袋。原田さんに食べられてしまう!」
ぶるぶると小刻みに震えていたセイの手が、延々と愚痴を零していた男の頭に
振り下ろされた。
――― がつんっ!
「いったぁぁぁいっ! 何をするんですか、神谷さんっ!」
蹲った総司が涙目でセイを見上げた。
「黙って聞いていれば、うだうだうだうだと何をくだらない事を言ってるんです!
元はと言えば沖田先生がこんな所に落ちたりするから悪いんじゃないですかっ!」
「ひどいですね。私にとってはくだらない事ではなくて、大事な事なんです!」
「甘味より命の心配をしてください! こんな所に落ちるなんて情けない!」
「貴女だって間抜けにも落ちたじゃないですかっ! 他人の事を言ってる場合ですか!」
「私が間抜けなら、先に落ちた先生は大間抜けでしょう? 先生がこんな場所に
いなければ、私だって巻き込まれずに済んだんですから!」
「大間抜けって! 神谷さん、ひどいっ!!」
「事実を言ってるだけです! だいたいが、どうしてこんな場所に落ちてたんです?」
「ああ、それは・・・」
散々怒鳴りあった事で互いに苛立ちを解消出来たのか、頭が回りだしたようだった。
セイの最もな問いに答えようとした総司が、何かに気づいたように首を傾げる。
「・・・いや、それよりも、ねぇ神谷さん。どうして私がここにいるってわかったんですか?」
屯所を出てから伝言を聞いた自分だ。
他の誰にも行き先は語っていない。
「副長が何か用があるとかで先生を探してたんですよ。そうしたら先生が
こちらに向かう姿を見かけた隊士がいたので探しに・・・」
「なるほど・・・」
土方が非番の自分を探すほどの用事だというなら、それなりに大事な仕事なのだろう。
そうである以上、自分がいつまでも戻らなければ、いずれは他の誰かが
探しに来る事は間違いない。
少なくとも井戸の底で命潰えるという最悪の事態は免れそうだ。
そう判断した総司が闇に沈み始めたセイの白い面を見やりながら、
小さく安堵の溜息を吐いた。
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