示す先 後編
「それで、どうしてこんな場所に?」
セイが改めて問いかけてきた。
「え、いえ・・・ちょっと気分転換に散歩を・・・」
「・・・先生?」
狭い井戸の中で、逸らす事を許さない瞳が総司を見つめている。
言いたくなかった。
目の前で父を斬られた子供が、自分をこんな窮地に追い込んだなどと。
この優しい弟分はそれでなくても胸を痛めているだろうから。
『関わるな』と自分は言ったけれど、きっとどんな形にしても関わりを持って
いるだろうと察していたし、ここ最近非番の度に、屯所を走り出ていくのは
その為だろうと予想もしていた。
土方あたりには「甘い」と一言で切り捨てられるだろう。
けれど、自分はこの弟分のそんな優しさを好ましく思っているのだから、
口では厳しく窘めても結局は傷つかせたくないと思ってしまうのだ。
「本当ですよ。少し散歩をしようと思ったんです。だって最近神谷さんったら
全然一緒に甘味処へ行ってくれないし。つまらないから、一人でふらりと。
そうしたら草むらから猫の鳴き声が聞こえた気がして・・・」
「猫、ですか?」
「ええ。何だか気になったんでそちらへ歩き出したら・・・ずぼっと・・・」
「ずぼっと・・・落ちた、って事ですか・・・」
はぁ・・・とセイが呆れたような溜息を吐いて総司を見上げてくる。
「先生・・・。先生が九条へ向かうのを見たっていう人は
“ひどく慌てて駆けて行った” と言ってたんですよ。
ふらりと散歩に行く人がおかしいじゃないですか」
大きな瞳が僅かな嘘も見逃さないと、自分に向けられている。
総司の喉で次の言葉が固まった時。
――― ぽつり
セイのなめらかな頬に水滴が落ち、それが涙のように顎へと伝った。
「「・・・え?」」
二人は同時に空を見上げる。
厚い雲のせいで気づくのが遅れたが、すでに空は夜の気配を漂わせている。
そしてそれを隠していた雲から、今更のように雨粒が降ってきたのだ。
「「え、えええっ?」」
どちらとも言えない悲鳴が響くと同時に一気に雨脚が強くなった。
逃げる場所もない井戸の底。
咄嗟に総司が羽織を脱いで自分の頭上に掲げ、そのまま身体を少し前に倒して
セイの上に落ちる水滴を防いだ。
「せ、先生っ?」
セイが濡れた前髪を払いながら不安げに見上げてくる。
「ほら、神谷さん。もっと近くに寄ってください」
総司が自分の身でセイを庇おうと近づくと、その分だけセイが身体を離そうとする。
いっそ胸の内に抱え込みたいくらいだが、両手は羽織を掲げているので
自由にならないのだ。
「えっ、だ・・・だって!」
頬を染めたセイがぶんぶんと首を振っている。
その肩や背中に雨粒が沁みて着物の色が変わっていく事が、
総司の中に焦燥を生んでいく。
これから気温は下がっていくはずだ。
自分のように体力のある男ならまだしも、この華奢な人が雨に打たれ
冷える夜半にこんな場所に置かれたなら、身体に障るに決まっている。
助けがいつ来るかなど、わかりはしないのだから。
――― ばさりっ
総司の手が羽織から離された。
「えっ? ええっ? お、沖田先生っ?」
大きな腕の中で上ずった声があがった。
頭から羽織を被った総司が、セイの華奢な身体を両手に抱き締めている。
「せ・・・先生?」
恐る恐るといった声音に小さく笑いを零した。
「こうでもしないと貴女は大人しくしてくれないですからね・・・」
「いや、そ、そんな・・・で、でも・・・あ、あの・・・」
自分でも何を口にしているのか理解できていないのだろう。
セイが意味の無い言葉を口走っている。
「助けが来る前に凍えて死にたくなんてないでしょう? 大人しくしててくださいね」
感情の揺れを感じさせないその言葉に、セイの中の羞恥心も影を潜めた。
確かに雨を完全に凌ぐ術が無い以上、こうして少しでも雨除けをしつつ
互いの体温を保持する事が必要な事なのだろう。
それに・・・どうせ意識しているのは自分だけなのだから。
セイが一度大きく深呼吸をした。
男の腕に抱え込まれていた両腕を小さく身動きして自由にすると、
そろそろと総司の背中に伸ばし、そのままぎゅぅと抱き締めた。
暖を取るなら触れ合う場所は少しでも多い方が望ましい。
そう認識しての行為だと承知していても、着物の背中を握り締める
小さな手の平が愛しいと総司は感じる。
同時に胸の中に不安が芽吹いた。
もしも最初にひとり、この枯れ井戸に落されたのがセイだったなら。
自分は土方に仕事を命じられて、屯所を離れていた事だろう。
その仕事がどの程度かかるものかなどわからない。
最悪の場合自分はセイの不在を知らぬまま、この人は雨に打たれ、
一人この枯れ井戸で命果てていたのかもしれないのだ。
総司の背筋を冷たいものが滑り落ちた。
「神谷さん・・・」
言うつもりも無かった言葉が唇から零れてゆく。
「・・・私を、ここに落としたのは・・・先日の、少年・・・です・・・」
がくりと力が抜けたように膝を折ったセイを抱え込んだままで、
総司が濡れた地に腰を下ろした。
そのままセイを膝の上に横抱きにして尚も耳元で言葉を続ける。
「隊に報告するつもりはありません。けれど・・・貴女にも何か
仕掛けてくるかもしれない・・・。気を・・・つけてください・・・」
こんな事は言いたくなどなかった。
けれど優しさ故に無防備な人だから、こうして注意を促さざるをえなかったのだ。
総司の背に回されたままの手の平が、一際力をこめて着物を握り締めてくる。
その人の顔は胸に押し当てられたままで、どんな表情を浮かべているか
確かめる術は無かった。
次の非番の日。
朝から土方に呼ばれた総司の姿は隊士部屋に無く、その隙を突くように
セイは屯所を走り出た。
あの日、枯れ井戸の底で雨に打たれていた二人は、総司の予想通りに
門限を過ぎても何の連絡も無いまま戻らない事を不審に思った土方が
差し向けた一番隊の面々に発見された。
全身が濡れそぼったセイも総司も唇まで真っ青になり、カタカタと震えが
止まらぬ状況で屯所へと戻ったのは明け方近い刻限だった。
先に知らせを受けていた小者が温かな風呂を用意しており、
どうにか一息ついた所で土方からの尋問が待ち構えていたのだ。
けれど総司には余力があったが、セイは既に体力の限界を越えていたらしく、
副長室で倒れた後、総司が土方に何を語ったのかは知らぬままとなっていた。
それでもセイはあの雨の中で総司が告げた言葉を疑う事は無い。
「誰が自分をこんな場所に落としたか、隊には報告しない」
そう言ったのだ。
仕事に関わる事なら別として、それ以外で総司が自分に偽りを言う事など
有り得ないと信じている。
だからこそ、あの少年の事に関しては自分が何とかしたいのだ。
これ以上総司に手出しなどせぬよう、恨みと憎しみに凝り固まった心を
少しでも柔らかく解す術を探したい。
セイの足は信太の住む長屋へと向いていた。
「こんにちは!」
いつも通りの言葉を口にしながらセイが長屋の戸を開け時、
そこには掴みかからんばかりに母親に迫る少年の姿があった。
「な、何をしているんですか!」
慌てて室内に入り込んだセイを、信太が憎悪に染まった瞳で睨みつけた。
「お前が母上に何か言ったんだなっ!」
「え? 何?」
「俺は父上の仇を取るまで、絶対に京から離れる気は無いっ!
お前達がどんな手を使ったとしても、絶対に本懐を遂げるっ!」
昂ぶった感情を制御できない子供の叫びに、セイが眼を見開いた。
――― 京から離れる? 自分は何も知らない・・・
母親に視線を移すと、完全とは言えないまでも体が回復しつつあるのだろう、
寝巻きではなくきちんと身支度を整えている。
その様子に内心で安堵の吐息をつきながら、セイが問いかけた。
「京から離れるって・・・」
「はい・・・故郷へ戻ろうと思っております・・・」
小さな声ながら、その言葉は凛と室内に響いた。
「嫌だっ! 嫌です、母上っ! 父上の仇を取らずに、どこにも行けはしませんっ!」
悲鳴じみた声を上げながら信太が母に取りすがる。
その肩に片手を添えて、母親が小さく首を振った。
それを見た少年が再び火を噴くような視線をセイを向けてくる。
「お前達が何か言ったんだ! そうに決まってる! 出てけっ! 出て行けっ!」
手負いの獣よりも尚ひどい興奮度合いにセイは言葉を紡ぐ事が出来ない。
自分や総司を父親の仇と思い定めるのは理解できるが、この少年の激し方は
常軌を逸しているとしか思えないのだ。
それでも、今は恐らく何を言っても信太の心には届かないだろう。
そう感じたセイが用意してきた言葉達を胸の内に閉じ込めたままで、
そっと長屋を出て戸を閉めた。
閉めた戸に額をつけてセイは身動き出来ずにいる。
あんな子供に憎しみの感情を植え付けたままでいたくない。
けれど敵討ちなどさせてやれるはずもない。
総司は隊務に則って少年の父を斬ったのだ。
それはあの時、信太の命を救うためでもあった。
まして沖田総司という男は、自分が命に代えても守りたい武士なのだから・・・。
どうして良いかわからぬまま、唇を噛み締めて屯所へ戻ろうと振り返ったその眼が
大きく見開かれる。
「沖田・・・せんせい・・・」
視線の先には向かいの家の壁によりかかり、セイを見つめる総司の姿があった。
「本当に貴女は困った人ですね」
真実困った表情の総司がセイを押しのけ家に入っていく。
止めようとするセイの目の前で戸が閉じられた。
一度閉じたはずの戸が開いた音を聞き、セイが戻ってきたのかと
振り返った信太の動きが止まった。
「・・・お、きた・・・」
唇から零れた掠れた声に母親が硬直する。
その隣をすり抜けるように走り、部屋の隅の行李の陰に隠されていた脇差を
少年が抜いた。
「うっ、わぁぁぁぁっ!!」
気合というよりは悲鳴に近い奇声を上げて信太が総司に斬りかかった。
自分へと向けられた刃に顔色一つ変えずに、新選組の一番隊組長は
瞬時に抜いた脇差を、横合いから少年の刃に叩きつけた。
――― パキンッ!
硬質な音と共に信太の脇差が折れ、弾け飛んだ先端が壁へと食い込む。
それを信じられない目で見つめた少年の首元に、スイと白刃が突きつけられた。
冷たく光る男の視線に射抜かれて、信太の体が無意識に震えだす。
息子をかばう為に前へと出ようとした母親がその場で動きを止めた。
総司の視線がその動きを制したからだ。
「君が先日私に対してした事はとても武士の子のする事ではありません。
あれを仇討ちなどとは、君だとて口に出来ないでしょう。」
仇である男からの侮辱の言葉に、少年の怒りが吹き出した。
「うるさいっ! 人殺しのいう事なんかっ!」
目の前にある刃も視界に映らないのか、信太が総司に掴みかかろうとした。
さすがに総司が刃を引く、けれど。
――― バキッ!
次の瞬間、信太の身体が吹き飛んだ。
「いつまで目を逸らしているつもりですかっ!」
沖田総司という男を知っているものなら、驚きに自分の耳を疑うだろう。
滅多に出す事のない大声で、少年を叱責したのだ。
「人殺しは私達だけですか? あの商家には君と年の変わらない奉公人がいた。
ようやく歩き始めた幼児もいた。その彼らは、どうなりました?」
知っている。
信太は知っていた。
皆、命を奪われたのだ。
自分の父とその仲間の手で。
そしてその悪鬼達を招き入れたのは・・・。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
少年が突然床に頭を打ちつけ出した。
まるで物狂いのように、乱心した者特有の焦点の合わぬ瞳をして。
「信太っ! 信太っ!!」
母親が必死にその身体を揺すり正気を戻そうとするが、少年はその奇行を
止めようとしない。
黙ってその様子を見ていた総司が、傍らの水瓶から柄杓で水を汲み上げた。
部屋に上がり畳に顔を押しつけたままの少年の髪を掴んで起き上がらせ、
その顔に水を叩きつける。
冷たい感触に、信太の瞳に正気の影が揺らめいた。
「私のせいなのです。私が夫を止められなかったばかりに・・・。この子は言う事を
聞かねば私の命を奪うと夫に脅された。この子の罪ではないのです・・・」
畳に額をこすり付けて母親が総司に許しを乞うている。
「は・・・は、うえ・・・」
激しい感情が去った後の虚無感に侵されたまま、信太がぼんやりと母を見つめた。
次第にその瞳に涙が滲んでくる。
ぽろり、と最初の一粒が零れ落ちた時、総司が再び口を開いた。
「私は確かに君の父上を斬りました。けれどそれを後悔する事も恥じる事も無い。
君は私達を責める事で自分の罪から眼を逸らそうとした。それは自分の行為を
許されざるものだと理解していたからでしょう。違いますか?」
――― こくり
憑物が落ちたように素直に信太が頷いた。
「君は優しい子です。自分の心の均衡を保つ為に神谷さんや私を憎みはしても
完全に憎みきってはいなかった。だから屯所に知らせてくれたんでしょう?」
総司を井戸に落としたあの日。
雨が降り出した少し後に、屯所の門衛の足元に文が投げられていたのだという。
“おきた、くじょう、ふるいど”
金釘文字のそれが土方に何らかの危険を悟らせた。
だからこそ、一番隊の面々を捜索に向かわせる気になったのだ。
『ガキじゃあるめぇし、あの文が無かったらお前と神谷のこった。何か事件の尻尾を
掴んだせいで連絡してこねぇんだろうと一日二日は様子を見ていた所だ』
土方は、そう言っていた。
「君は神谷さんも落ちたのを知っていたんじゃありませんか?」
再びの総司の問いに信太が小さく頷いた。
やはり・・・と総司は胸中で苦笑を浮かべる。
この子供が真実憎みきれずにいたのは自分ではなくセイなのだと。
――― ぽん
信太の頭に総司の手の平が乗せられた。
「この先、君がどんな生き方をするのか、私にはわかりません。けれど・・・ね。
罪の意識にもがいていた君を精一杯救おうとした人の姿を、
できれば忘れないで欲しいと思っています」
どれほど冷たい言葉を投げられようと、激しく拒絶されようと、
優しい手を伸ばそうとしていた人の姿が君の光となるように・・・。
総司の静かな声音が室に流れていく。
床に座り込んだままの少年を穏やかな瞳で見つめると、涙ぐむ母親に
軽く会釈して家を出ようとした。
「・・・沖田・・・さん・・・」
掠れた声が総司の足を留めた。
狭い長屋を出るとセイが俯いたままで涙を零していた。
中での会話が聞こえていたのだろう。
小さく肩を震わせる人の手を握り、歩き出す。
屯所への帰り道、総司が口を開いた。
「同情だけで誰かを救えるものではない、と以前も言いましたよね」
人を斬る時はその背後に居る全ての者達の怨嗟を被る覚悟が必要なのだ。
自分はそれがある、貴女にはありますか。と。
刃を振るうたび、相手に関わる人間すべてに心を砕いてはいられないはすだ。
「もうこんな事に関わらないと約束できますか?」
セイはそれでも頷かない。
自分がその渦中に投げ込まれるのは構わない。
けれど年端も行かぬ子供が恨みを抱え込んだままなのを見ていられなかった。
そしてそれ以上に総司が狙われ続けるのは耐え難かった。
こんなに優しい鬼なのに。
それでも結局自分は何も出来ずにいたのだ。
信太が憎み、許せなかったのはあの子自身。
罪の意識に押し潰されそうなあの子を正しく見つめて救ったのは総司。
自分はただあの少年の周囲にオロオロと纏わりついていただけでしかない。
傷ついた相手も、総司に向かう悪意も、見過ごしにはしたくない。
したくないのに・・・自分には力が無い・・・。
悔しさと情けなさにポロポロと零れる真珠の雫を優しく拭いながら、
総司が溜息を吐いた。
「あの子からの伝言です。『神谷さんにありがとうと伝えて欲しい』って。
貴女の優しさがあの子を鬼にせずにいたんでしょうね・・・」
総司が部屋を出る直前に小さな小さな声で告げられた言葉は
セイの耳まで届いていなかったらしい。
信じられないとばかりに涙に濡れた面を上げたセイに微笑みかける。
「あの子は苦しんでいた。自分を許せず、自分を投影した貴女や私を憎む事で
危うい心の均衡を保っていた。そして詰られても謗られても己を失わない
貴女の中に光を見ていたのでしょう。だから闇の中に落ちずに済んだ」
既に父親の死は仕方の無い事と悟っていた、と少年は語った。
けれど自分が関わった事が恐ろしくてどうしようもなかったのだと。
そんな中にセイが現れた。
優しく温かいその人に無意識に甘えていたのだろうと総司には理解できた。
セイには傷ついた者を癒す何かが確かにあるのだから。
「母御の故郷に帰って医師になる修行をするそうですよ。失われた命は戻らない
けれど、その分も命を救える人間になりたいと・・・」
こうしてまた一人、セイに関わった人間が光の中に戻っていくのだ。
眩しいものを見るように総司が眼を細めてセイを見つめた。
「貴女も・・・命を救う側がふさわしいと・・・」
「嫌ですっ!」
大きくしゃくりあげながら総司の話を聞いていたセイが激しく頭を振った。
「私は、隊で生きていきたいんですっ! 先生のお傍でっ!」
きらきらと涙に濡れながら意思の輝きを煌かせる瞳は揺るがない。
――― はぁ・・・
大きな溜息を吐きながら総司が背中を向けた。
「本当に、貴女って人は・・・頑固なんですから・・・」
その口元が満足気に緩んでいた事をセイは知らない。
前を歩く男の髪を春の風が悪戯に弄っている。
真っ直ぐ伸ばされた大きな背中を見つめてセイは誓いを新たにする。
未だあの背には追いつけない。
けれどいつか、いつの日か、あの背に並び共に歩むのだ。
自分達の生きるべき場所で。
きっと唇を噛み締めたセイの気配を感じたのか、男が笑みを浮かべて振り向いた。
「早く帰ってお茶にしましょうね」
総司の指差した先には、見慣れた西本願寺の大屋根が陽光に輝いていた。
前編へ