天壌無窮       前編




「お前の傍に置いたとて、神谷はこれ以上成長しねぇ」

「土方さんだったら成長させられると言うんですか?」

「あぁ、少なくともお前よりはマシだろうよ」

「どうでしょうかね」


事ある毎に過保護としか表現しようがない程に、セイを両手の中に抱え込もうとする
総司の溺愛ぶりに、とうとう土方が堪忍袋の緒を切ったのが師走に入り
あちらこちらが暮れに向けて忙しなくなりつつあった十日程前の事。
それ以来、総司の手元から可愛い笑顔は取り上げられた。





「あ? 朝っぱらからこんなとこで何やってるんだ? 総司」

巡察から戻った永倉が屯所の門前で凍える両手を擦り合わせながら、
所在無げに立っている総司を見止め声をかけた。
隊士達へ先に戻るよう手振りで示すと、総司に歩み寄る。

「土方さんが昨夜妓の所に泊まったんですけどね。
 神谷さんも護衛を兼ねて連れて行ったそうなんですよ」

あの人、そういうのは苦手なのに・・・不満そうに唇を尖らせる。

「あぁ、副長付きの小姓だからな。そういう事も仕事のうちだろうよ。
 で、お前は神谷が心配でこんなとこで帰りを待ってるって訳か?」

相変わらず過保護だな、という言葉は言わずとも総司に伝わったらしい。

「今、過保護だって思ったでしょう? だってあの人はまだ子供なんですから
 心配になるのは当然なんですよ!」

むきになって言い募る様子は、よほどこの男の方が子供に見える。
永倉が白い息と共に笑いを漏らしかけた時。

「沖田先生っ! 永倉先生っ! 大変やっ!」

慌しい足音と共に切羽詰った表情の男が走りこんできた。




屯所に駆け込んできた山崎から話を聞いた総司は、隣にいた永倉に
隊を率いて追ってくるよう頼むとそのまま飛び出した。

土方ひとりでも十分強いが、その土方が妓に薬を盛られている可能性が高いという。
その上で屯所への帰路に待ち伏せする計画らしい。
山崎の調べだ、ほぼ疑う余地は無いだろう。
弱った土方も心配だが、そこにはセイも一緒にいるのだ。
副長の小姓兼護衛として。

なまじな相手になど遅れを取らぬよう鍛えてはあるが、相手の人数も力量も
未知だというのでは心配するなと言うほうが無理だろう。
全力で走りながら総司は舌打ちする。

あの子の事だ、まず土方を守る事を第一に考える。
己が身など二の次三の次だ。
だからこそ土方の身にそう不安は感じなかった。
あの子が守る、きっと守る。
けれどその分セイが危険に晒される事は間違いない。

どうか、どうか私が行くまで耐えていなさい。
多少の怪我など構わない。
どんな形でも、この世にしがみついていなさい。

路地を駆け抜け辻を横切る。
耳を凍らせる寒風に意識の欠片も向ける事無く、
総司は心の中でセイに呼びかけ続けた。





橋のたもとでようやく土方の姿を視界に入れた総司が、乱れた息もそのままに
尚も走る速度を増した瞬間。
橋の中程で欄干に寄りかかるようにしていた土方の身がふらついた。
その足元には土方とセイが倒したのだろうか、動く気配の無い四つの塊。
最後に残っていたと思しき浪士と刃を合わせていたセイが、
逸早く土方の様子に気づき手を伸ばす。
川に向かって身を倒しかけていた土方の腕を力任せに引っ張ると、
その反動でセイの身が欄干を越えて空に投げ出された。

薬のせいで不快に霞む土方の視界に残ったのは、ゆっくりと遠ざかり
川面に吸い込まれていくセイの白い面。
それだけは鮮明に識別できた唇の動きは、確かにあの男の名を象っていた。


自分のものとも思えないほどに重い腕をどうにか動かし、土方はセイの消えた
川面に手を伸ばす。
理屈では今更間に合うはずもないと判っているのに。

「土方さんっ!!」

背後から聞こえた叫びにぎこちなく首を回した。
そこには土方に向かって刃を振り下ろそうとしていた男を、駆け寄りざま
一刀で斬り捨てた見慣れた男の姿があった。

総司は刃についた血を静かに懐紙で拭い鞘に収めると土方の前に歩み寄り、
その頬を張った。

――― ぱしりっ!

確かな痛みに土方の正気の一部が反応しだす。

「しっかりしてください。怪我はありませんね?」

常に無く厳しい弟分の物言いに「ああ」と短く返すのを聞くと、
総司は倒れた男達に歩み寄った。
ひとりひとりの首筋に手を当てて呼吸の有無を確認する。
その間も一瞬たりと橋のたもと、自分の走りきた道の先から視線を外さない。

「何をしてる」

「ひとりぐらい息があれば、背後を聞き出せますからね」

ずるりと欄干に寄りかかって腰を下ろした土方の問いに
淡々と答える総司の声には抑揚が無い。

「そうじゃねぇだろう。神谷が落ちたってのに」

「知ってます」

「だったら何で助けに行かねぇ」

静かすぎる総司と対照的に土方の焦りが増していく。

「すぐに永倉さんが来ます。そうしたら・・・」

「間に合わなくなるぞ」

真冬の川だ。
体力の無いセイの身など、すぐに動くこともままならなくなる。
日頃は過剰なほどセイに過保護なこの男が、こうも静かにこの場にいる事が
土方には理解できない。

「それでも、です。神谷さんの命よりも、副長である土方さんの安全が
 優先されるんです。あの人もそれは承知の事ですから」

言いながら、おそらく息があったのだろう。
ひとりの浪士に簡単な止血をしている。

「俺は大丈夫だ。もう薬も抜けた」

「駄目ですよ。それでも一人にする事なんて出来ません。ここに倒れているのが
 敵の全員だと決まったわけじゃないんです」

「あいつは落ちていく時、お前を呼んだんだぞ!」

土方の脳裏にセイの白い面と総司を呼ぶ唇の形が甦る。

「・・・・・・そうですか・・・」

感情を殺しきり、表情さえ消したままの弟分を怒鳴りつけようと口を開きかけた
土方の耳に、遠くから呼びかける声が聞こえてくる。
総司が視線を据えたままの道の先から姿を現した永倉が何かを叫んでいる。
その後ろには何人かの隊士の姿もあった。
それを視認した途端、それまで一度としてその道から視線を外さなかった総司が
初めてぐるりと周囲を見回した。

土方がその意図を理解する。
この男はたとえ潜んでいた敵が飛び出して自分を襲ってこようと、
永倉達の方が早くこの場に到着する事を確認したのだと。
そしてその想像を違えず、土方に自分の大刀を押し付けた総司が羽織を脱ぎ捨て、
次の瞬間欄干をひらりと乗り越え川面に身を躍らせた。



大きな飛沫と水音をかき消すように男の声が背後から響く。

「総司っ!」

永倉の声に振り向いた土方の顔は元々男にしては白い肌が、青みさえ帯びて
尚一層白く見える。

「なんで総司が川に? 神谷は?」

矢継ぎ早の問いに搾り出すような答えが返った。

「俺を庇って神谷が落ちた。お前らが来るのを確認して、総司が後を追った」

簡潔な土方の答えに永倉が指示を出すまでもなく、数人の隊士がパラパラと
下流に向かって走り出した。
永倉の二番隊と斎藤の三番隊は、総司が組長である一番隊と組んで
仕事をする事が多い。
当然総司はもちろん、神谷とも幾度となく仕事をしている。
そんな二人が川に落ちたとなれば考える前に助けようと体が動く。

「ここは隊士に後始末を任せて、あんたは屯所へ帰った方がいい。
 まだ薬も抜けてねぇだろう」

自分を気遣う永倉の言葉にも生返事を返して、土方はじっと二人の消えた
凍てつく水面を見つめていた。




――― 神谷さん!

抜き手をきって泳ぎながら総司は心で何度も呼びかける。

古(いにしえ)の法皇が叡山の僧兵、賽の目と並べて「思いのままにならぬ」と
嘆いたというこの川は穏やかに見える川面と違い、その実は流れが荒い。
セイが落ちてから自分が後を追うまでは、確かに時間がかかっていた。
それでも泳ぎの達者な自分が全力で泳いでいるのだ、そろそろ姿が見えても
良い頃だろうに。
未だにあの細い身に追いつくことが出来ない。

意識があるなら良い。
けれど意識の無いままでそこここの川底から突き出している岩に
身体をぶつけていたなら、もはや手遅れとなりかねない。
早く早く追いつかなければ。

――― 神谷さんっ!!

絶叫に近い叫びを心で轟かせ、凍えそうな身体を叱咤して
いま一度大きく水を掻いた時。
視界の端に川底から顔を出す杭に引っかかった、見慣れた衣の模様が映りこんだ。






パチパチと枯れ枝が火に舐められ爆ぜる音がする。

総司がようやく見つけたセイには既に意識が無く、くたりと力の抜けた体を抱えて
どうにか岸に泳ぎ着いた。
冷え切った自分の身には構わず大分飲んだと思われる水をセイに吐かせている時に、
慌しい足音と共に見慣れた仲間達が追いついてきた。

近くの民家で借りてきたのだろう、何枚もの乾いた衣が総司とセイの身にかけられる。
自分の大きな身体でセイの姿を隠しながらその濡れた衣を脱がせ、
乾いた衣で包みこんで冷え切った身体を擦りたてる。
少しでも早く体温を取り戻す事がこの場合最も必要な事なのだから。
急いで起こした火に当たって幾らも待たぬうちに馬蹄の音が響いてきた。

屯所から連れてきた馬から身軽に飛び降りた相田が、唇まで青く
意識の戻る気配の無いセイの姿に眉を寄せた。

「沖田先生もお疲れでしょうけれど、馬に乗れますか?」

自分を気遣う部下の言葉に内心の焦燥を押し隠して総司は薄く笑みを浮かべる。

「ええ、平気です。でも馬は助かりますよ。正直この状態ではこの人を抱えて
 歩いて戻るのはかなり厳しいと思っていたので」

これほど疲労しきっていようとも、セイを他の誰かに託すつもりは無かったのかと
話を聞いていた隊士達も苦笑するしかない。

「とにかく神谷さんを松本法眼の所へ連れて行きます。誰か屯所に報告を
 お願いしますね。この人の意識が戻ったら私も一度屯所に帰りますから」

そう言うと総司はセイを抱えて馬上の人となり、そのまま走り去った。




                                        後編


        背景写真 : 小山奈鳩様