天壌無窮       後編




松本の寓居には盛られた薬を心配して永倉が連れてきたらしい土方が
既に到着していた。
玄関まで出てきて総司達を迎えた土方の姿に「無事で良かったです」と
総司が笑った。
けれどそれ以上の言葉を紡ごうとはせず、そのまま松本の待ち受ける部屋に
セイを抱えて消えていった。


顔色は青白く呼吸も細く感じられたセイが気になり、土方は屯所へ戻れずにいた。
総司に抱えられて診察室とされている部屋に入った時に意識が無かったのは
確かだったのだ。
診察を終えて部屋から出てきた松本に、命に別状は無いが夜半に発熱する
可能性が高い事から今夜はここで預かると告げられた。
やはりあの華奢な身体に真冬の川水は酷く堪えているのだろう。

室内からはコトリとも音がしない。
どうにも様子が気になり幾度も部屋の前まで行っては玄関へ戻るという事を
繰り返していた土方が、意を決したように静かに部屋に滑り込んだ。

目の前には幾枚もの掛け布に包まった状態で壁に背を預け、
懐にセイを抱える総司の姿がある。
土方の方に顔を向けた総司の小さな動きでセイの肩から掛け布がずれかける。
チラリと見えたそのむき出しの肩から二人が衣を纏っていないことを知り、
土方は目を剥いた。

そんな兄分の表情に総司が苦笑を浮かべながら、元結が解かれて流したままの
濡れ髪をうっとおしげに掻き上げる。
終ぞこの弟分に見た事の無い男の色香を感じ取り、尚更土方は言葉が出て来ない。


「仕方が無いでしょう。長い事あの冷たい水の中にいたんですよ。
 この人の体は冷え切っているんです」

土方にしても冷えた体を温めるには人肌が最も効果的だという事は知っている。
けれど・・・。
こちらも元結は解かれ総司の肩口に頬を寄せるように抱かれているセイの姿は、
月代さえなければ愛しい男に寄り添う女子の艶を感じさせ、その白い面から
土方は視線を逸らす事が出来ない。

「さっき酒も少しだけ飲ませたんですけどね。川から引き上げた時に
 水を無理矢理吐かせたから、喉が痛んでしまっているみたいで。
 むせてしまって苦しそうだったんで諦めたんですよ」

脇に置いてあった乾いた布を手に取ると、セイの顔を土方の視線から隠すように
その濡れた髪に被せる。

「体が温まれば意識も戻るだろうと松本法眼も言ってましたから、
 そうしたら私も屯所に戻りますよ」

意識の無いこいつに、どうやって酒を飲ませたんだと思わず問いたくなるのを
押し込めて、ようやく総司に視線を戻した土方が首を振る。

「いや。今日はお前もこのままここに泊めてもらえ。この真冬にお前だって
 水に浸かっていたんだ。風邪なんぞひかれちゃかなわねぇ」

「う〜ん、大丈夫ですけどねぇ。まぁ、この人が気づいた時にこんな状態で
 私に抱かれている事を怒らないでくれたなら、そのまま泊まっていきますよ」

真っ当な成人男子なら深読みの一つや二つもしたくなる言葉をサラリと紡いで
屈託無く笑う男に土方は溜息を吐いた。







「全く貴女は困った人ですねぇ。周りにいる男の誰も彼もを惹きつけるんですから」

土方の出て行った障子を見つめながら総司が呟いた。

「土方さんだって例外じゃないですよ。何度も貴女の顔を覗き込もうと
 してたんですから・・・。勿論見せてなんてあげませんでしたけどね。
 こんな無防備な顔、他の男に見せられるはずがないでしょう」

言葉と同時にセイに被せて、すっぽりその面を隠していた布を取り去る。
濡れた髪が頬に纏わりつき、それが白い肌に艶かしい色香を添えていた。

「ね、神谷さん。そろそろ起きませんか?」

抱えているセイの顔に寄せた総司の唇が弧を象った。

「耳、真っ赤ですよ?」

「ひゃぁっ!」

パクリと総司に耳たぶを食まれてセイが奇妙な声を上げた。

「なっ、なっ、なにっ、何をっ?」

「寝たふりなんてしてるからですよ」

赤くなった耳を押さえようとしているセイの手を掴み、くすくすと笑いを漏らした。
大きな手で包んだそれを自分の口元まで持ち上げると、軽く唇を押しつけてくる。

「あぁ、ようやく指先も温まってきましたね。ずっと氷のようだったんですよ。
 おや? どうしたんですか? 固まってますよ?」


セイにしてみれば混乱の極みで総司の言葉など耳に入っていない。

何かとても温かな感覚が自分をまどろませていた。
そのうちに聞き慣れた優しい声が耳に届いて、それが総司の声だと気付き
同時に土方の声も聞き取った。

その瞬間に自分の状態を理解したのだ。

下帯さえも身につけない状態で総司に抱き締められている。
背中には総司の手が添えられ、熱を起こすためにか時々思い出したように
素肌の上を撫でられていた。
体温を伝えるためだろう、自分と総司の胸は密着していて
硬い総司の胸板の感触が直接伝わってくる。

セイは羞恥からの悲鳴を上げる機会を逃していた。
覚醒した瞬間に自分が真冬の川に落ちた事を思い出していたのだ。
その事実と今の状態を重ね合わせれば、総司が自分を温めるために
このような形となっている事ぐらい、セイにもわかる。

まして今は土方もいる。
今総司に身を離されてしまったら、さらしを着けていない自分の身体を
土方の目に晒す事にもなりかねない。
とにかく土方が場を離れるまでこの状態でいる事が得策だと、腹を決めたのだ。
けれど総司の肩口に凭れた頬と耳が紅潮していくのまでは止めようが無かった。

ようやく土方が部屋を出て行ったと思ったら、セイが次を考える前に
耳たぶを食まれ、指先に口付けられ、もはや固まるのも当然ではないか。




「あ、あのっ。も、もう、大丈夫ですからっ!」

一本一本セイの指を唇に押し付け、時折温めるために吐息を吹きかけてくる
総司を見上げながら、セイが必死に言葉を紡ぐ。

「だっ、だからっ。き、着物着ますからっ。すっ、少し目を瞑っていてくださいっ!」

けれどぴたりと密着した総司の胸から少しでも身を離そうと身じろぐセイの背から、
総司の腕が離れる気配は無い。

「駄目ですよ。幾分温まったとは言え、まだ貴女の身体は冷えているんです。
 それにね・・・」

一瞬総司の瞳の中に悪戯めいた光が瞬き、相変わらず口元から離す事の無い
セイの手の平をペロリと舐めた。

「きゃっ!」

思わず上がったセイの悲鳴に満足気に微笑みながら。

「貴女の着物も私の着物も明日にならないと乾かないそうですから、
 着替えは無いんですよね」

「そ、そんな。だったら屯所から誰かに持ってきて貰えば・・・」

涙目のままのセイは男の胸の内を知らない。


「いいじゃないですか。どうせ今夜はこちらに泊まっていくんです。
 誰かの手を煩わせる必要なんて無いでしょう?」

「で、でも・・・」

まだ何かを紡ごうとするセイの唇から時折覗く桃色の舌先が、
狩られるのを待つ小動物のように見える。
ちらちらと男の欲が食いつくのを待っている甘美な餌。

くつり、と喉の奥で笑いを殺した獣が。

いたいけな獲物に狙いを定めた。


最初から至近で会話していた総司の顔がより近付いてきて、何の前触れも無く
唇に柔らかな感触を覚えた。
何が起きたのかわからなかったセイが、総司に口付けられている事を
理解した瞬間、大きく目を見開いた。
視界一杯に映されている総司の眼が笑みの形に細められる。

咄嗟に総司に掴まれているのとは反対の手で、肩を押し戻そうとするのだが
男の身体はびくともせず、逆にセイの背に置かれていた強い腕が力を増し、
僅かの身動きも許されない。

必死の思いで声をあげようと唇を動かした瞬間、それを待っていたかのように
するりと熱い感触がセイの口内に忍び込んできた。
今度こそ完全にセイの動きも思考も停止した。


滑り込んだ温かな場所を総司は存分に堪能する。
女子との口付けなどした事もなかったが、こんなに甘いものだなどとは
知りもしなかった。
甘味などでは比べ物にならぬ、味覚だけではない自分の全ての感覚で感じ取る
満たされる甘さなのだ。

もっともっとと内を辿っているうちに、奥に小さく隠れていた獲物に触れる。
先程ちらちらと見え隠れしていた桃色の舌先が脳裏に浮かび、
一気に舌を絡めると強く吸い上げ己の中に引き込んだ。

逃げる獲物と追う獣。
無言の攻防もセイの苦しげな様子に、名残惜しそうにその舌先を甘噛みしながら
総司が唇を離した事で終わりを迎えた。

ほとんど呼吸もできずにいたセイが幾度も大きく息をしながら、
涙に潤んだ目で総司を睨む。



「・・・ど、どうして・・・」

乱れた息に掠れた声で必死に問いかけるセイの言葉に総司が薄く笑う。

「欲しかったから」

「ほ、欲し、欲しいって」

「もう我慢しない事にしたんですよ」

悪びれもせず何でもない事のように告げるこの男は、本当に自分の知っている
沖田総司なのかとセイは目を瞬く。

「が、我慢って・・・」

「私はね、神谷さん。貴女を誰かに譲る事なんて出来ないって思い知ったんですよ。
 だから我慢しないんです」

誰かに譲る、我慢しない、総司の言葉の意味がセイの頭の中で繋がらない。

「先生の言ってる意味がわかりません! 私は武士です。武士同士でこんな事」

「貴女は女子じゃないですか」

総司の手の平がさわりとセイの背筋を撫で下ろす。
上げかけた悲鳴を必死に飲み込んで、セイは言葉を返す。

「私は武士ですっ!」

「そうですね。確かに貴女は武士でもある。でも武士同士だってある事でしょう?
 私は別に衆道でも構いませんよ?」


セイは絶句した。
おかしい、間違いなく今日のこの男は何かがおかしい。
口調も纏う空気も常と変わる事は無いが、思考が言動が明らかに違う。

セイが言葉を無くしているうちにも、総司はセイの肩先に唇を寄せ
強く吸い付き桜の花弁を刻み込む。
ふふっ、と笑いながら「私の痕ですね」と嬉しそうだ。


「・・・何が、あったんですか?」

セイが感情を抑えた声で尋ねた。
自分の行為に反応を返さず静かに問うてきたセイの様子に、
総司の纏う気の色が変わった。

「どうして貴女はこういう時の勘が良いんでしょうね」

独り言のように言葉を落とすと苦々しげな笑みを浮かべて
セイと視線を合わせた。

「貴女、私を捨てたでしょう?」

「は?」

「土方さんを守るために貴女は川に身を投げた。武士として、隊士としては
 正しい行動です。けれどあの瞬間に、貴女は私を捨てた」

確かに総司の言う意味は判らないでもない。
あの時セイは土方を守る事以外の一切を切り捨てたのだから。

「そしてね、その後私も貴女を見捨てたんです」

それまで強い視線でセイを見つめていた総司が苦しげに視線を逸らした。

「貴女が川に落ちた。すぐに飛び込めば確実に貴女に追いつき救い上げる事が
 出来ると知っていながら、土方さんの安全を優先した。私も貴女を捨てた」

「でもっ、それはっ」

反論しかけたセイの唇に軽く自分のそれを合わせ、総司は言葉を遮る。

「ええ。武士として新選組隊士として正しい行動です。再び同じ事が起きたと
 しても私も貴女も同じ行動を繰り返すでしょう。でもね・・・」

再びセイと視線を合わせ、その頬に手を滑らせる。

「嫌だと思ってしまったんです。貴女が私では無い誰かのために
 命を失うなど許せない・・・と」

「沖田せんせい・・・」

「それでも私も貴女も譲れないものがある。武士としての矜持の為に、
 己の信じる誠の為にこの体も命も捧げるのでしょう。
 けれど、最後の一瞬までここに」

総司の身がセイから少し離れ、その隙間に差し込まれた手が
セイの淡い胸のふくらみの間にそっと触れる。

「貴女の胸の奥にいたいんです。ただひとりの男として。だからね、たとえ貴女が
 嫌だと言っても、もう我慢しない事に決めたんですよ」

頬を少し染めながら、それでも精一杯自分の心情を告げる男の姿に
セイの瞳が潤んでくる。

「それとも・・・もう、ここには誰かが住んでいるんですか?
 斎藤さん? 土方さん?」

セイが必死に首を振る。

「お、沖田先生以外にいるはずが無いじゃないですかっ! 私のっ、神谷の命も
 身体も全て沖田先生と共にあるんですからっ!」

セイが言い切った瞬間に再び総司の唇が深く深く重なった。
息を継ぐ事もできぬ長い口づけの後で総司が呟く。

「では、このまま貴女の全てを私のものにしても?」

頬を真っ赤に染めたまま、小さくコクリと頷くセイをぎゅうと強く抱き締める。

「ありがとう・・・」

言葉にならない感情を伝えるように、総司の手の平がセイの髪を肩を背を
幾度も辿ってゆく。

「おきた・・・せんせい・・・」

吐息交じりのセイの囁きに総司が大きく息を吐き出した。

「ありがとう。本当に・・・。ですが・・・」

セイの瞳を覗き込んで、いつもの総司に戻った男は穏やかな笑みを表情に乗せた。

「今日はやめておきましょう。貴女の身体は弱っているし、いつ松本法眼が
 様子を見に来るとも限らない。お互いに落ち着かないでしょう?」

悪戯っぽい笑みにセイは無言で頷くしかできない。

「このまま寝てください。今しばらく冷えた貴女のその身を温める役目を
 果たしますから。ね?」

「で、でも・・・」

こんな状況で眠れるはずが無いではないか、と反論しようとしたセイだったが、
確かに総司の言葉は正しい。
弱っている身体に人肌の温もりは心地良く、男の手が子をあやす様にとんとんと
規則的に背を叩いている内に眠りの淵に引き込まれていた。




総司は穏やかな寝息を零すセイを見つめる。


この娘は以前、私を風だと言った。
ならばこのまま風に抱かれているが良い。
風はこの花を手放さぬ。

刃の下、この身と命を散らせども、この花だけは手放さぬ。



クスリと口の端が上がる。
土方はこの娘を自分から引き離そうとセイを身近に置くうちに、
いつの間にかセイに惹かれる己に気づいたのだろう。
だから妓の元に行った。
この子を供にする事で、セイの知る場所で妓を抱いて、
自分がセイに興味など無いと己自身に言い聞かせるために。

けれど逆にセイ(触れる事の許されない愛しい相手)が傍にいる事が
土方の狂った事の無い自己防御の機能を狂わせた。
妓に一服盛られて気づかないなど、あの兄分に限ってはあるはずがないのだから。


「他の事だったら幾らでも譲りますけどね」

眠るセイの頬に自分の頬を摺り寄せ総司が嘲笑う。

「この子だけはたとえ土方さんでもあげませんよ」

くくっと喉の奥で笑いながら総司も瞼を閉じる。


さて、今日の土方の失態をどう責めて、愛しい娘をこの手に取り戻そうか。




標的を定めた獣の牙は、鋭さを増す。
闇は目覚めた獣を隠し、光は獣を解き放つ。
標的に残されし安息の刻は・・・あとわずか。




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        背景写真 : 小山奈鳩様