曇りなき 前編
「神谷さ〜ん、早く〜」
幹部棟の床を拭き清めているセイの後ろでは一番隊の組長が地団駄を踏んでいる。
「早く、早くっ! 今宮神社のあぶり餅っ! 早く食べに行きましょうよっ!」
「わかってますから、もう少し待ってください。それにそんなに暴れたら
せっかく拭いた所に埃が落ちるじゃないですか!」
セイの叱責に総司が地団駄を止め、恨めしそうな視線を向ける。
「何も貴女がそんな事をしなくったって・・・床の掃除なんて
他の人にお願いすれば良いじゃないですか・・・」
「隊士部屋はそれで良いですけどね。局長副長の部屋を掃除するのは
私の勤めですから」
総司の相手をしながらもセイの手は動き続けている。
本来であれば隊内の掃除洗濯は雇いの小者の仕事だ。
けれどできる事なら局長副長室はあまり外部の人間に触れさせたくない。
殊に副長室には隊内外の機密が置かれているので、
なまじな者を入室させる事は憚られる。
近藤も土方も武士の心得の一つとして整理整頓を心がけているため、
掃除といってもたかがしれている。
それ故副長付きの事務方数人と信頼できる古参隊士の空いた時間に
交代で任せる事になったのだ。
その中にセイも含まれていた。
それは総司も理解している。
むしろあの過敏といえるほど神経質な土方が、それだけセイを
信用しているという事に誇らしい気持ちを抱いた程なのだから。
けれど時々それがどうにも自分を苛立たせる要因になるなどとは予想外の事だった。
「だから〜、部屋の掃除は済んだんでしょう?
廊下なんて貴女の持ち場じゃないですよぅ」
その言葉にセイが眼を吊り上げて振り向いた。
「そういう考えを持っているから隊士部屋前の廊下が、いっつもいっつもいっつも
汚れてるんですっ!!」
雑巾を握り締めた阿修羅の形相に、総司が半歩身を引いた。
隊士部屋は土方や松本が衛生面からも口を酸っぱくするほどに整理整頓を
言いつけている為か、以前に比べれば格段に綺麗になっている。
もっとも“男所帯の割りに”という言葉がついてくるが。
けれど廊下は対象外だとでも思っているのか、汚れた手拭いや紙くず、
時には使用後としか思えない下帯までが放置されていて、
いくら小者が掃除しても追いつかないほどの荒れようでもある。
それを事ある毎に片付けて回っているのが、この几帳面な隊士なのだから
その怒り具合も最もだと言えた。
口を噤んだ総司を睨みつけていた眼をふいと逸らし、再びセイが廊下を磨きだす。
「とにかく、局長がお使いになる場所は全て丹念に清めるんです。
日々ご苦労の多い隊務に励んでおいでなのですから、せめて
ここでくらいは気持ち良く過ごしていただきたいじゃないですか」
いつの間にか副長という存在はセイの脳裏から消去されているらしい。
温厚で誠実な尊敬するべき局長の為、と一心に床を磨き上げる。
「・・・・・・なんだか神谷さんってば、近藤先生の事ばっかり・・・。
・・・私の事なんて、もうどうでも良いんですね・・・」
ぽそりと拗ねた口調で総司が呟いた。
ちらりとセイが視線を向けた先では、唇を尖らせてそっぽを向いた男が
足先で床を突いている。
「確かに私達は近藤先生好き好き仲間ですけど、貴女の直接の上司は私だし、
神谷さんの事を誰より判っているのも私だし、一番の仲良しさんのはずなのに・・・」
母が相手をしてくれないと拗ねる子供のような風情にセイが呆れた溜息を落す。
「あのですね・・・行かないとは言ってないじゃないですか。
少し待っててくださいとお願いしてるだけです」
「本当ですかぁ? 本当は行きたくないから、こうやって時間潰しをして、
誰かが何か仕事を持ってきて出かけなくていいようになるのを
待っているんじゃないんですかぁ? 私とお出かけしたくないから・・・」
上目遣いで総司がセイを見た。
被害妄想もここまで来ると何やら情けなさを通り越して哀れにも見えてきた。
「・・・・・・・・・はぁぁぁぁ・・・・・・」
セイが大きな溜息を零したと同時に隣の副長室の障子が開いた。
そこには予想通り、米神に青筋を立てた鬼の姿がある。
「・・・・・・黙って聞いてりゃ、いつまでも下らねぇ事を・・・」
障子を握り締めた土方の手が僅かに震えている。
本人達にすればそんなつもりは毛頭無いのだが、傍から聞いていれば
最前からのふたりの会話は念友同士のイチャイチャでしかない。
部屋で仕事をしながらそれを聞き続けていた土方の我慢が限界を迎えたようだ。
「希望通りに仕事をやるから、とっとと出かけちまえっ!」
セイの手元に二条城の留守居に届けるべき書類を放り出した土方が
続けて数枚の小銭を投げつけてくる。
「用を済ませたらその餓鬼が動けなくなるまで甘味を食わせてやれ!
夕餉までそのツラ、見せるんじゃねぇぞっ! 胸糞悪いっ!!」
言いたい事を言い捨てると耳に響く音を立てて障子を閉じた。
「そんなに乱暴にしたら障子戸が傷みますよ・・・」
土方の剣幕に押されたままでセイが呟いたと同時に目の前に現れた腕が
床に落ちていた書類を拾い上げる。
「ほら、お城にお届け物です。早く行きましょう。そしてさっさと片付けて
今宮のあぶり餅を食べに行きましょうv」
書類を持っていない方の手でセイの腕を握るとふわりと立たせる。
先ほどまでの拗ねた子供がすっかりご機嫌になっていて、セイも笑うしかない。
「はい。では支度をして出かけましょうか」
「早くしてくださいね〜」
ひらひらと後ろ手に手を振りながら総司が玄関に向かおうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください! 先生も着替えないといけませんよ!
お城にそんな普段着で行ってどうするんですか!」
「え〜、面倒臭い〜。神谷さんが届けてくださいよ〜。
私、城門の前で待ってますから〜」
「面倒って何を言ってるんです! 大切な書類を届けるんですから、幹部の
先生が行かないでどうするんです! 私は平隊士なんですよ!」
「もぅ・・・仕方ないなぁ。着替え、手伝ってくださいね」
「はいはい、わかりました。早く行きましょう」
溜息交じりのセイの声が遠ざかっていくのを聞きながら、
副長室の兄分が頭を抱えていた事など二人は知る由も無かった。
セイを二条城の城門前に待たせて書類を届けた総司が面倒な仕事を早々に
済ませて軽い足取りで出てくると、何やらセイが男と言い争っている。
日頃直情で気持ちを素直に表す隊士が、眉間に皺を寄せて感情を抑えようと
しているところを見ると、どうやらかなり厄介な相手のようだ。
身なりからしてどこかの藩士かそれなりの身分の武士と見える。
「神谷さん? どうかしましたか?」
穏やかな声音でそれとなく二人の会話に割り込んだ総司に、
セイがほっとした表情を見せた。
「そちらは?」
「貴殿こそ、名を名乗られるがよろしかろう」
尊大な態度はセイが最も嫌悪する類の人間だと示している。
内心で先ほどのセイの表情の意味を悟って総司が苦笑いした。
「失礼しました。私は新選組一番隊組長、沖田と申します」
総司の名乗りを聞いた男の顔からすうっと血の気が引いていった。
「それで、うちの神谷が何か?」
「いや・・・。某は見廻組の永田と申す。先日江戸から参ったばかりなので
京には不案内でな。少々道を尋ねていただけだ。しからば御免・・・」
慌てたように去っていくその背にセイが思いっきり舌を突き出した。
「こら、神谷さん」
諌める総司の言葉にセイが振り返り、その腕を取るとズンズンと歩き出す。
「な・に・が、道を尋ねていたですかっ! 人の事を舐めるように見て
“新選組の隊士では城中での作法も知らぬだろうから教えてやろう”
って、お茶屋へ連れていこうとしたんですよっ!」
鳥肌でも立ったのか、しきりに両腕を擦りながら首を振っている。
「伊東先生といい、どうしてああいう人達って、なんでも自分の思い通りに
なると思うんでしょうかねっ!」
「おや、その類の人だったんですか?」
総司の軽い言葉にセイが大きく頷いた。
「学びたくなかった事ですが、そういう類の人の空気は感じ取れるように
なりましたからねっ! ああっ、もうっ、気持ち悪いっ!!」
怒りが収まらない様子でぶつぶつと繰り返すセイを宥めながら、
数日前に土方が言っていた事を思い出す。
『見廻組に江戸から補充人員が来たようだ』
『へぇ、どれくらいですか?』
『三十人ってところだったな。旗本のぼんくら息子ばかりだ。
見栄ばかりがいっぱしでも腕の方は期待できねぇだろうよ』
『ぼんくらって・・・断定ですか・・・』
『気概のあるヤツだったらとっくに入隊してるだろうさ。今更参加するってのは
遊山気分のヤツか、江戸で厄介払いされたようなヤツに決まってる』
『佐々木さんも苦労しますねぇ』
『仕方ねぇだろう。見廻組を仕切ってる立場なんだから、そういった連中を
鍛えるも切り捨てるも佐々木さんの仕事だ』
『さすがは新選組の鬼の言ですね。経験が滲み出ている』
『茶化すんじゃねぇよ。そんな事より、その馬鹿連中が妙な対抗意識を
燃やしてこねぇとも限らねぇ。悶着を起こさねぇように配下の連中に
しっかり釘を刺しておけよ』
『承知』
早速火種が燻り出したか、と小さな溜息を吐きながらセイの月代をポンと叩いた。
「まぁ、気持ちは判らないでも無いですが、頼みますから刃傷沙汰なんて
騒ぎは起こさないでくださいよ?」
「わかってます!」
私闘は切腹だ。
セイにした所で、こんなくだらない事で隊規違反を犯すつもりはない。
「わかってるなら良いんですけどね。貴女ってば頭に血が上るとどうにも・・・」
はぁ、と溜息を零した総司を見上げてセイが頬を膨らませた。
「そんなに信用できないんでしたら、今日はこのまま屯所に戻りますか?
隊にいれば問題なんて起きませんからねっ!」
「ええっ? 駄目ですよっ! あぶり餅が待ってるんですっ!」
「だって先生は私が信用出来ないんでしょう?」
ぷいと顔を背けて屯所の方へと足を向けようとするセイの腕を総司が慌てて掴んだ。
「信用してます、してますってば! だからほら、行きましょう。
それに私が一緒なんですから何もありっこないんですよ!」
そう、自分が共にいさえすれば、この危なっかしい人を守る事もできるのだ。
胸の内で呟きながら総司は歩き出した。
何にしても当分はセイから目を離さぬようにしようと考えながら。
けれどほんの数日先に事件は起きた。
お馬で里乃の家に行っていたセイが三日居続けの後、屯所への帰路を辿っていた。
夕刻に差し掛かった頃合、大路を歩いていても人気は少なく道に長く映る影に
足を速めようとした、その時。
ふいに腕を掴まれて路地に引き込まれた。
咄嗟に腰の刀を抜きかけたセイだったが相手の顔を見て柄から手を離した。
「確か、永田殿。何か私に御用がおありでしょうか?」
掴まれた腕をチラリと見ながらセイが尋ねた。
「先日は邪魔が入ったからな」
ニヤニヤと笑いながら華奢な二の腕を掴んだ手を離す気配は無い。
じとりじとりと頭から足元までを舐めるように動いてゆくその視線は
爬虫類の粘着質を感じさせ、セイの背筋に怖気が走る。
それでも激する感情を抑えこんだ。
「先日も申し上げましたが、どのような事であれ酒席でのお相手は
ご遠慮いたします」
冷ややかとも言えるセイの口調に永田の視線が厳しくなる。
「それ、そのように礼儀を弁えぬ者ゆえ指導してやると言っておるのだ」
体に最も支障の出る時期は過ぎたといえ、未だセイのお馬は終っていない。
ただでさえお馬の時期は気が立ちやすいのだ。
苛立ちを押さえきれず、掴まれた腕を大きく振って男の手をもぎ離した。
「不要だと申し上げていますっ!」
そのまま路地から大路へと飛び出して永田から距離を取った。
その仕草と口調が男の矜持を傷つけたらしい。
「うぬっ、壬生狼如きが旗本に連なる者の命に逆らうかっ!」
怒声と共に腰から抜き放った刃をセイに向かって振り下ろす。
道行く者達の悲鳴が響いた。
セイが里乃の所へ行っている三日間を物足りない思いで過ごしていた男が
足早に屯所を出た。
本当は昼過ぎにセイを迎えに行くつもりだったのだが、昨夜は夜番の
巡察だったのでうっかり昼寝をしてしまい、気づいた時には山の端に
日が差しかかろうかという刻限になっていた。
特に迎えに行くとも告げてはいなかったが、普段でも三日居続けの後の数日は
体調が思わしくないセイを知るだけに一人で出歩かせたくなど無いと思うのだ。
それは数日前の事が頭の隅に残っていたからでもある。
新選組と見廻組は手柄に関して何かと張り合いはするが、幹部同士の中は
概ね良好と言える。
近藤土方や佐々木今井など、時折会合の席を設けては情報交換をする事もある。
けれど下の方の者達は小さな諍いを幾度も起こしていた。
池田屋を始めとする功を幾つも挙げている新選組の存在は、家柄に寄りかかり
実力以上の評価を当然としてきた見廻組の者達には目障りで仕方が無いのだろう。
新選組の隊士達にしたところで実力はそれほどでもないというのに、
旗本御家人の子弟だというだけで自分達を見下す態度が腹に据えかねる。
互いにそんな反目の下地がある所へ新たに参加したとなれば、組織の中での
自分の立ち位置を少しでも良いものにしようと、対抗する相手にちょっかいを
出したくなるのも道理だろう。
まして妙な性癖を持っているのだとしたら、一見か弱そうに見えるセイが
標的となるのも頷ける。
生憎見た目と違って弱くも大人しくも無い隊士なのだが。
(そうそう問題も起きないでしょうけれど・・・)
自分に言い聞かせるような呟きが、すでに不安な心内を物語る。
だから今日もこうして里乃の家へと向かっている。
「きゃぁぁぁぁっ!」
「うわぁぁぁぁっ!」
「斬り合いだっっっ!」
突然前方で叫び声が上がった。
嫌な予感に総司の足が速まり、そのまま走り出す。
騒ぎの元を遠巻きにした人の輪の外で足を留めると、その視線の先には
当たって欲しくなかった予想通りの光景が展開されていた。
相手は刀を抜いているが、セイはまだ抜いていない。
今ならまだどうにか場を治める事が出来るだろうと総司が足を踏み出しかけた時、
野太い声が響いた。
後編へ