曇りなき        後編




「何事だ?」

人垣の中からがしりと体格の良い男が歩み出てきた。


「さ、佐々木殿」

見廻組与頭である佐々木只三郎は会津武士の血を引く旗本で、
現在の見廻組を一手に仕切っている立場でもある。
思わぬ上司の登場で一瞬理性が戻ったのか、永田が威儀を正し男に向き直った。

「この無礼な壬生狼に、礼儀というものを教えてやろうとしたところです」

「無礼とは?」

ちらりとセイに視線を向けた佐々木が表情を変えないままで問う。

「将軍家に代々仕えてきた我々が、その中で学んできた事を教示してやろうと
 いうものを、この思い上がった小童めが不要だとぬかしたものですから」

「それ程の尊い教え、酒席にて伺うべき事にあらず、と申し上げただけです。
 ましてこの身は武士なれば、酌婦の如き働きを命じられる覚えはありませぬ故」

涼しげなセイの答えに男が怒りで顔を染める。
江戸であれば旗本という看板の前に従わぬ者などいなかったのだ。
それに慣れきっていた男にとって、身分を省みず己に逆らう小僧など
許せるはずもなかった。
どれほど自分が理不尽な事を言っているかを考えもせずに。

「な、生意気を言うなっ! 小僧っ!」

力任せに振り下ろされた刃をセイが軽い身ごなしで避けた。
先刻の永田の話から事の次第を聞き取っていた野次馬達がセイに味方して
応援の声を上げる。
江戸でも京でも権力を笠に着た無理無体など嫌悪の対象である事に変わりない。
無数の批難の視線が自分へと向けられ、それがまた男の頭に血を上らせる。
そして苛立ちは当然の如く対峙しているセイへと向けられる事となる。

「このっ、食い詰め者の下賤の輩がっ!」

ぴくりとセイの頬が引き攣った。

「永田っ!」

内心でどう思っていようとも、口にするべきではない事だと佐々木が制する。
けれど興奮した愚者の耳には届かなかった。

「武士のなんたるかも知らぬ血に餓えた野良犬どもが、何を勘違いして
 我らと対等のつもりになったものだか。分を知れっ!」

「・・・野良犬共・・・とは、私だけではなく新選組全てを指して侮辱される
 という事ですか?」

静かなセイの声に確かな怒りが混じる。

「当然だっ! 何が局長だ、副長だ。身分というエサ欲しさに共食いをしている
 狂犬共ではないかっ!」

明らかな侮蔑の色を交えた言葉が投げられ、再びセイに刃が叩きつけられる。

――― シュンッ!

セイの腰から白銀の輝きが解き放たれた。



――― ガッ!

今度は向けられた刃をかわす事無く受け止めたセイが、
それを弾くと共に白刃を振るう。
力任せに踏み込んでくれば刃に滑らせ相手の力を受け流す。
合間に混じる突き技にしても日頃稽古をしている隊士に比べて鈍重な攻撃だ。
その程度のものなど避けることは容易い。
数合打ち合っただけで相手の力量を判断し、最低限の動きで閃かせた
刃の動きを止めた。
それは永田の首の皮一枚を裂いた場所で静止している。


「双方、刀を引けっ!」

鋭い佐々木の制止の言葉にセイが静かに刃を引いた。
永田は腰を抜かしたのか地べたにペタリと崩れ落ちる。


(さて、この場をどう治めたものか・・・)

腕組みをしてジッと考え込む佐々木の後ろから厳しい声が投げられた。

「神谷清三郎!」

はっとこちらを向いたセイの瞳が大きく瞠られ、唇が何か言いたげに僅かに動いた。
けれど総司はセイが口を開く前に言葉を続ける。

「私闘は法度と知ってますね?」

「はい」

こんな事が起きないようにと幾度も総司に注意されていたのだ。
どのような状況下であろうと隊務以外で刃を振るった以上、
それを私事と断じられても言い訳をするつもりは無い。

処分を覚悟なさい、というその言葉にセイが頷き、刃を鞘に収めた。
その様子をニヤニヤと笑いながら見ていた永田に向かって佐々木が淡々と語りかける。

「随分な余裕だな。さすがは若い者に真の武士の作法を教示しようと
 いうだけの事はある、というべきか」

佐々木が何を言わんとしているのかが理解できず、永田が言葉の続きを待つ。

「新選組の隊規では私闘は切腹だ。沖田が処分を覚悟しろ、と言ったのは
 そういう意味だ。奴らの中で例外は無い。神谷は腹を斬るだろうな」

一度言葉を切った佐々木が声に冷たさを忍ばせた。

「そしてな。町中で私闘を行い相手が切腹という事はお前も同様の処分になると
 いう事だ。京都守護職の会津公は家柄だけで手心を加えられる方ではない。
 共にご公儀の為に働こうという我々が、一方だけを処罰させたままで
 いられようはずもなかろう。まして先に刀を抜いたのはお前なのだからな」

佐々木の動かない表情を見つめていた永田の中で、その言葉の意味が
徐々に理解されてゆく。
つまりはあの小生意気な小僧が切腹したなら自分も切腹だという事なのだ。
その瞬間、永田の思考がめまぐるしく動き出した。
愚者ほど己を守る為には能力以上の思考力を発揮するものかもしれない。

総司が佐々木に会釈し、静けさを保ったままのセイを引き連れて
屯所へ戻ろうと足を踏み出した。


「これは稽古だったのだ! 私闘などではないっ! 断じて私闘などではないぞっ!」

見苦しく裏返った永田の叫びがその場に響き渡った。



すでに男達に背を向けていた総司が肩越しに佐々木を振り返る。

「・・・そうなんですか?」

セイでは無く佐々木に確認したのは後に見廻組から苦情を言わせないためでもある。

「本人が言ってるのだから、そうなのだろう」

一度蔑みに満ちた視線で永田を見やった佐々木が唇を歪ませ、
その言葉に総司が微笑んだ。

「神谷さん、稽古の後の治療は貴女の役目ですよね?」

ポンと総司に背中を叩かれたセイが未だ地に座り込んでいる永田の元へと走り寄り、
その首筋の傷を改めだした。


「上に立つ人は大変ですねぇ」

ふたりから距離をとってその姿を見守りながら、総司から投げられた
実感の篭った言葉に佐々木が苦笑を浮かべた。

「ですが・・・今後一切、うちの神谷に近づかないと約していただけますか?」

佐々木の責任においての言質を取る事は重要だ。
見廻組と新選組の間で平隊士同士に何かと諍いが絶えない以上、
今後も同様の事態が起きないとは限らないのだから。

「・・・ああ」

静かに頷いた佐々木が永田は江戸に戻すと言葉を継いだ。
セイとの立会いを見ただけでもその剣の腕が激動の京で使い物になるとは思えず、
その上くだらぬ諍いを起こすような者は害でしかない。
まして己が身可愛さに武士の矜持も投げ捨てるような者、これこそ士道不覚悟で
断罪したいほどだ。

それに比べて・・・。

佐々木の視線が永田の傷に薬を塗りこんでいるセイに向けられた。


「今井の言う通りだな」

「今井さん?」

見廻組肝煎の今井信郎は佐々木の片腕だ。
突然出てきたその名に総司が首を傾げる。

「以前、新選組の隊士を我々の組へ回して欲しいという話が出ただろう?」

総司がこくりと頷く。
幕府直轄の実働部隊として結成された見廻組ではあったが、旗本御家人の
次男三男に限るという条件のためか、思ったように人数が集まらず
新選組を吸収しようという話が出た事があったのだ。
それは京都守護職である松平容保の拒絶にあって立ち消えた話だったが、
佐々木はその時の事を思い出したらしい。

「それ以降も時に今井が新選組の隊士で使える者の話をするようになった。
 組長連中は言うまでもないが、よく聞かされるのが“神谷”という
 若い隊士の名前でな」

(小柄なくせにそこそこ腕が立つし度胸も良い。思考力判断力もあの若さにしては
 際立っている。仕込めばまだまだ伸びるはずだ。鬼沖田の愛弟子らしいが
 元は御家人の息子だというし、こちらに引き抜けないものかなぁ)

無骨な男が相当に気に入ってる事の伺える声音で幾度も語っていた。

「駄目ですよ」

余計な言葉は必要ない。

「ああ、わかっている」

手当てを終えたのだろう。
満面の笑顔で総司に向かって駆け寄ってくるセイを見つめて佐々木が頷いた。

「お待たせしました」

口を閉ざした男達に向かいセイがペコリと頭を下げた。

「一応薬は塗っておきましたが、もう出血も止まっていますし
 二.三日で跡も消えるはずです」

「そうか、すまなかったな」

佐々木の言葉にセイが首を振った。
横から伸びた総司の手がセイの乱れた前髪を梳く。
その手の優しさに佐々木は神谷に関わる一つの噂を思い出した。

――― 沖田と神谷は衆道の仲らしい。

くだらぬ噂だと聞き捨てていたが、それなりに信憑性のあるものかもしれないと
口端に笑みを浮かべる。

(今井に神谷は諦めろと言ってやらんとな)

並んで屯所へと帰っていく二人の後姿を見やりながら佐々木が小さく笑った。









「はぁぁぁぁ・・・」

隣から聞こえてきた大きな溜息にセイが顔を向けた。

「全くもぅ・・・。本当に切腹になったらどうしようかと思いましたよ」

がっくり疲れた総司の声音にセイが笑う。

「どうもしません」

その言葉に今度は総司が怪訝な顔をした。

「どうもしないんです。隊の為なら腹ぐらい切ってみせますよ。
 その覚悟はいつでも持っていますから」

総司を真っ直ぐ見上げてニコリと微笑む。

その迷いの無い眼差しに総司は泣きたくなる。
優しい女子として誰よりも幸せになれるはずの人が、武士として
その身を追い詰めながら生きている。
いつでも死ぬ事を意識しながら生きていると言うのだ。

そんなこの人を守りたいと心から願うのに、それが上手くゆかない。
守りたいけれど守れない。
自分の手の中からいつでも飛び出そうとするこの人を守る事など出来はしない。

自責の念が苦しい程に胸を締めつけ、無意識に視線が足元に落ちた。


「ふぎゃっ!」

隣から奇妙な声が上がる。
振り返った場所には並んで歩んでいたはずの人の姿が無い。
そろりと視線を下へ向けると、潔いとしか言いようがない体勢で
セイが顔から地面に倒れこんでいた。

「だっ、大丈夫ですか?」

「いったぁぁぁぁぁぁぁっ!」

慌てて引き起こすと盛大に擦りむいた鼻と額を押さえながら
涙目で自分を見上げてくる。

「何をやってるんです、貴女は・・・」

「いたぁい・・・」

大きな溜息を吐き出しながらしゃがみこんだ総司の前で、ぺたりと地面に
座ったままのセイの顔色は少し青みを帯びている。
お馬のせいの貧血だろうか。
だから足元をふらつかせたのだろうか。
それに思い至った総司が背中を向けた。

「ほら・・・」

「は?」

セイがきょとんと首を傾げる。

「今日だけは甘えさせてあげます。背に乗りなさい」

その言葉にセイがブンブンと首を振った。

「い、いえ。だ、大丈夫ですからっ!」

「大丈夫なはずありますか。まだ足元がふらついているんでしょう?
 それに早く手当てしないと、鼻の頭に傷が残りますよ?」

いいんですか? と、肩越しに視線を流して総司が問う。

「う・・・・。うう・・・スミマセン、シツレイシマス」

擦りむいた場所より顔を赤くしたセイが、そろそろと総司の背中に乗った。
その重みと温もりが男の胸を暖める。


「うわ、高ぁいv」

いつもより視線が高い事を喜んで背中でセイが歓声を上げた。

「こら、暴れない!」

「はぁい」

素直に返事をしながら、けれど楽しげな様子が背から伝わってくる。
それを感じて強張っていた総司の心が柔らかに解れた。



『神谷を見廻組に・・・』

佐々木が口にしなかった言葉はわかっていた。
容姿、生命力、秘められた能力、時折輝くその片鱗に惹かれ
この人を欲しがる人は多いのだろう。

けれど未だこの人は未熟なままで。
誰もが望むこの人をゆるりと育てる時間を自分は与えられている。
武士だ女子だと線を引く時までは、きっと少しだけ時間が許されているのだろう。
その時間を共に過ごし、いつか来る“その時”に悔いを残さぬようにしよう。
“その時”に、胸を張って自分が育てたこの人を送り出せるように・・・。


小さな笑みを頬に乗せて総司の足が速まった。

「さぁ、急ぎますよ。しっかり掴まっててくださいね」

「はいっ!」

即座に返される声が男の耳に心地良く響く。



時は未だゆるやかにふたりの上を流れていた。





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