光彩瞬く 後編
「せんせい・・・」
夜明け近い裏庭の片隅に小さな人影が佇んでいた。
明日は午前の巡察だ。
少しでも睡眠を取らなければいけないと理解している。
頭では。
だが眠れない。
眠れないどころか淡く眠る度に夢を見る。
自分を信頼して前に踏み出した仲間が、次の瞬間には冷たい骸となっている。
最善と思った判断が過ちだったと同時に悟り、次の指示が出せなくなる。
悲鳴と共に仲間がひとり、またひとりと地に横たわり、
その一人が誰よりも愛しい男の顔に摩り替わる。
「沖田先生っ!!!!!!!!」
ねっとりと我が身を絡め捕るのは絶望。
ただひとり、気が狂うほどに切望する男は死の匂いを漂わせながら
虚ろな瞳に自分を映しこむ。
「っっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
飛び起きた自分の身体が激しく震えている。
無理のかかり続ける仲間の眠りを妨げぬように、もてる力の全てで己の肩を抱き
震えを押さえつける。
一晩に幾度同じ夢を見れば良いというのか。
どこにも救いなど無く、あるのはただ絶望ばかり。
屯所に満ちる病に苦しむ者達の呻きが、全て自分へと向けられているようだ。
一度大きく頭を振ってセイが寝床を抜け出した。
いつもであれば隣にある温もりが無い。
父を、兄を失った自分が悲嘆に満ちたあの時を夢に見て飛び起きようとも
震えるこの身からそれを敏感に察し、温かく大きな腕に抱き締めてくれる
男がいない。
それが苦しく切なくて、セイは唇を噛んだ。
「沖田先生・・・」
ぬぐってくれる手が無いから涙は零されない。
けれど吐き出される事の無い澱みは心を蝕み出すものだ。
セイの心は知る者の無いままに、真っ黒な淵に佇んでいた。
近藤達が隊を出てから五日目の早朝、屯所の門前に馬の嘶きが上がった。
―――タンタンッ
響く足音は土方の馴染み深いものだった。
副長室へと真っ直ぐに向かってくるその音に、知らず土方の肩から力が抜ける。
これであの五月蝿い隊士の請願から開放される事だろう。
「土方さんっ!」
予想通り乱暴に障子を開けて現れた弟分の姿に土方が眉根を寄せた。
「うるせぇぞ、総司! 近藤さんはどうした?」
「近藤先生は後から来ますよ。昨日届いた知らせに驚いて、
先に私を戻して下さったんです!」
朝とはいえ夏の最中に馬を飛ばしてきた総司の顔は真っ赤に紅潮している。
「どうしてもっと早く知らせをくれなかったんです? そうしたら私だけでも
すぐに戻って来たのに!」
隊の危急を知らずにいた事が悔しいのか、土方を見つめる瞳は鋭い。
「そっちにはそっちの仕事があったろうが。同様にこっちも残された連中で
仕事をこなしただけだ」
にべも無いその言葉に総司が深い溜息を吐く。
この男の意地の強さは熟知しているが、それに巻き込まれる隊士達は
堪らないだろう。
ふと、気づいて問う。
「神谷さんは? 神谷さんも寝込んでいるんですか?」
自分が帰営したというのに姿を現そうとしなかった事が、セイの異変を
示しているのではないか、と不安になった。
あの華奢な弟分が苦しんでいる姿を思うだけでも胸が痛い。
「・・・あいつは無事だ・・・」
視線を逸らしながらそう言った土方の言葉に総司がその場に腰を下ろした。
「話してください、色々と」
それでも何か事情がありそうだと話を促す弟分の視線に、土方が重い口を開いた。
「・・・・・・はぁ・・・。そんな状況ですか・・・」
自分が不在だった間の事を大方聞き出した総司が大きな溜息を吐いた。
少しずつ隊士達の体も回復を見せ、斎藤は勿論伍長達にも動ける者が出てきた。
それでも回復した者を斎藤が纏めて一隊を構成している程度で、
セイが隊の仕切りをしている事には変わりが無い。
昨日も土方はセイから回復した伍長に隊の指揮を変えてくれと懇願されたのだ。
土方にしてもそれを考えない訳では無かったが、他の誰でもないセイに指揮
されている隊士達がそれを望まないのだから仕方が無い。
下手な指揮下で働く事は自分の命の危険が増すという事だ。
最初こそセイの若さを不安に思っていた者達が、実際セイの策を目の当たりにして、
その実力を身に沁みて感じ取った。
組長の下に配置されるならまだしも、セイほどの信頼を寄せられない伍長の下に
新たに配属されたいと思わぬ事など当然とも言えた。
だからどれほどセイが懇願しようと、誰か組長の体調が戻るまでは
このまま隊の指揮を取るようにと命じていたのだ。
「それで、今、神谷さんは?」
とにかくその身の無事を確かめようと総司が尋ねたと同時に、
バタバタと激しい足音が近づいて来た。
くすりと小さく笑みを零しながら音も立てずに総司が立ち上がり、
副長室の障子を開く。
まばゆい光と共に飛び込んできた小さな影が、大きく眼を見開いて
総司を凝視した。
「お、きた・・・せんせい・・・」
「はい、ただいま、神谷さん」
黒い隊服を纏ったセイの面には疲労の色が見て取れて、
昨夜は巡察に出ていた事が聞かずとも知れた。
ほんの五日しか離れていなかったというのに、どこか窶れたようにも見える。
固まったように動こうとしないセイの様子に総司が小首を傾げた瞬間、
小さな体が胸の中に飛び込んできた。
「うっ・・・」
「う?」
途切れた言葉を問い返す。
「うっわぁぁぁぁぁぁぁぁんっ! えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇんっ!!」
屯所中に子供のような泣き声が響き渡った。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!! わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
「か、神谷さん・・・」
慌てた総司の声に答えもせずに、セイの泣き声だけが激しくなる。
何事かと集まってくる隊士の視線の先では、総司の黒い隊服の胸元が
涙でみるみる色を変じていった。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ! あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
止まらない泣き声に困惑した総司が華奢な背を撫でる。
「どうしました? 子供のように・・・」
「うぇっ! えっ! こわっ、怖かったっ! ええぇぇぇんっ!」
これほどにセイが怯えるような何事かが昨夜の巡察であったのかと考えながら
総司が優しく背を撫で続ける。
「昨夜、何かあったんですか?」
「ち、ちがっ! うぇっ、えっ!! ちがっ、いますっ!」
苦しげな呼吸の合間にセイが激しく首を振る。
その度に散ってゆく涙が陽射しを反射してキラキラと光を放った。
「では、どうして?」
「おっ、沖田先生だったらっ、どうするだろうって! 考えて、考えて、考えてっ!
っくっ! で、でもっ、私はっ! 先生じゃっ、ないからっ!
いつっ、失敗するかって! どっ、どうしようってっ! うぇぇんっ!」
怖かった。
怖かったのだ。
いつ破綻するのか、いつ仲間を失うのか。
ただそればかり恐れていた。
己の未熟さなど己が一番わかっている。
だからこそ、総司ならどう考えるか、総司ならどう動くか、
細心の注意を払って思考し続けた。
指揮する者が動じてはいけない。
欠片ほども不安な様子を見せてはいけない。
危急の時でも動揺の欠片も見せない総司の安定した精神が
どれほど配下に安心感を齎していたか、身に沁みて知っているから。
歯を食い縛り必死に平静を装い続けていたのだ。
けれど怖かった。
本当は怖くて怖くてたまらなかったのだ・・・。
総司の胸元を握り締めるセイの手が震えている。
もはや自分の感情の制御が利かなくなっている。
「なっ、仲間のっ! 命を背負ってっ! いる事がっ! こわっ、怖くてっ!
うわぁぁぁっん!」
ああ・・・と、総司が頷いた。
確かに指揮する者としての能力はあるかもしれない。
けれどまだこの人は幼いのだ。
一隊を率いるという事は、その仲間の命全てを背負う事でもある。
自分の指揮の失策で仲間の命を失う事も有り得るのだから、
その重圧は計り知れないだろう。
この感受性豊かな人は、僅か五日の事とはいえ必死にその重圧と闘っていたのだ。
セイの指揮下にいた隊士達が切なげに視線を伏せた。
思い返せばいつの間にか、この若い隊士に全ての重荷を背負わせていた事に
気づいたのだろう。
確かに指揮は的確だった。
剣の腕にしても天才と言われる一番隊組長が持てる技量の全てを使って
鍛えているのだ。
その優しげな姿からは想像できない程に、周囲の目を瞠らせるものがあった。
けれど柔らかな心がどれほど疲弊しているのかに思い至らず、
全ての責任を任せきっていたのだから。
未だ続く激しい泣き声に総司が強くその身を抱く。
「お疲れ様でした。よく、頑張りましたね」
耳元で聞こえた囁くような声音にセイの泣き声がピタリと止み、
同時にガクリと身体から力が失われた。
「おっと・・・」
急にくたりと崩れたその軽い身体をしっかりと抱きかかえた総司が
苦笑を浮かべて土方を振り返る。
「・・・寝ちゃいました・・・」
突然訪れた静寂に腰を浮かしかけた土方が深い溜息を吐き出した。
土方にしてもセイの負担は承知していたが、それがここまでとは
思ってもいなかった。
それは感情を抑えて冷静に隊を率いているその姿に、総司の影を
見ていたからかも知れない。
必死に総司を模倣しようとして崩れそうな己の精神を保っていたのだろう。
確かな才を持つ者を下手すれば潰しかねなかった事に、今更ながら思い至った。
「神谷さんの仕事は私が代わります。今日だけはこの人に休養をあげてください」
きっと重圧の中でろくに眠れずにいたのだろう。
目元に浮かんだ濃い影に指を滑らせながら総司が呟いた。
「客間を貸してやる」
ぞんざいな言葉に総司が目を瞬いた。
客間は隊の中で最も静謐な場所だ。
つまりはセイを充分に休ませろという指示でもある。
聡い隊士が客間に布団を用意しようと走ってゆく。
先程のセイの泣き声を聞けば、この小さな隊士の疲労も理解できたのだろう。
喉の奥で笑みを押さえながら総司がセイの身体を抱き上げた。
客間に向かって歩を進めながら、ふと呟く。
「また・・・軽くなってしまいましたね・・・」
大坂に出かける前にふざけて抱き上げた時に比べれば、間違いなく軽くなった
その身が切なさを募らせる。
けれど今回の事で、この人の潜在能力が隊中に知れ渡った。
優しげな容姿に隠された龍児の性質と、幹部にも匹敵するその戦の才が。
あの鬼はその才を放っておきはしないだろう。
今回ほど急激な負担をかける事はしなくても、段階を踏みながら
この人が育つように仕向けるはずだ。
際立つその才の持ち主が女子だなどと知らぬままに。
客間に辿り着き、自分の腕の中で無心に眠る人をそっと布団に横たえる。
きっとこの人はあの鬼の期待に応える事だろう。
今回は突然に追い詰められた状況だったから余裕を無くしてしまったのだろうが、
普段であれば意気揚々と与えられた困難に立ち向かう人なのだから。
「鬼に目をつけられてしまった以上、貴女に逃げ道はありませんね」
優しくその頬に指を添えながら総司が言葉を落す。
「頑張りなさい。私はあまり力になれないけれど、見守っていますから、ね」
その囁きにセイの頬が柔らかく綻んだように見えて、男の目元に笑みが滲んだ。
束の間の休息の後には再び過酷な仕事が待ち受ける。
けれど僅かな間安らげるその時が、続く激務に立ち向かう力となるのだ。
そしてその安らぎは、心許した者の傍でのみ与えられる。
ようやく得たその刻の中で、セイは静かにまどろんでいた。
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背景 : 小山奈鳩様