悋気応返 前編
「てめぇらがギスギスしてると隊の空気が悪くなる!
頭が冷えるまで戻ってくるなっ!」
イライラとした土方の怒声に尻を蹴られたように、総司とセイは屯所を追い出された。
一瞬視線を交差させた二人だったが、互いに次の瞬間にはそっぽを向く。
まるで子供の喧嘩にも等しいが、これでもそれなりに深刻なのだ。
ことの起こりは四日前の巡察中。
一番隊が町中を巡察している最中に総司へと付文を渡した町娘がいた。
「え? あ・・・。 えぇっ?」
咄嗟の事に真っ赤になった総司を追い越してセイが足を進めて行く。
仲間達もそれに続き、置いていかれてはたまらないと娘にまともな返答を
返しもせずに総司も部下を追った。
その煮え切らない態度がセイの怒りに火をつけた事に気づいたのは、
総司本人ではなく一番隊の仲間達だった。
それでもセイの不機嫌を感じ取った総司が溜息を吐く。
「困りましたねぇ・・・。私には、女子にかまける暇なんて無いんですけどねぇ」
手の中に握りこまれた付文をちらちら見ながら、心底困惑している風情だ。
「そうですか」
けれどセイの返答はにべもなく、周囲の隊士達の視線も冷たいように
感じられた組長は口を閉ざした。
今はとにかく巡察に集中するべきだと頭を切り替えて。
「・・・神谷?」
赤に黄にと自然の織り成す色彩で目を楽しませていた紅葉も散り始めた。
近づく冬の気配が支配する裏庭で、綿入れも着ずに暮れようとする空を
ぼんやり見上げていたセイに声がかけられた。
「おい、神谷?」
声が聞こえなかったのか振り返ろうともしない華奢な肩に手をかけた斎藤が
片眉を上げた。
「っ、斎藤先生っ!」
「お前は何をやっている。こんなに冷え切って、風邪でもひくつもりなのか」
その言葉通りに斎藤の手の下にあるセイの肩は、晩秋の冷えた風にさらされて
氷のように冷たい。
「い、いいえっ。ちょっとぼんやりしていただけです、そうですね風邪など
ひいたら隊務に支障が出ますものね。何か羽織ってきます」
駆け出そうとしたセイの腕を斎藤が掴んだ。
「今日はもう仕事は無いんだろう?」
一瞬きょとんとしたセイがコクリと頷く。
「だったら呑みに行かんか。たまには良いだろう?」
「はいっ!」
物陰から一部始終を伺っていた一番隊の仲間達は、ようやく浮かんだ
セイの笑みに安堵の溜息を吐いた。
「だいたい沖田先生が悪いんだよな」
相田の言葉に周囲の隊士達がうんうんと頷いている。
「あの場でさっさと断ってりゃ、神谷だってあんなに不機嫌にならないだろうに」
「そうだよなぁ。以前神谷を殴った事だってあったんだぜ」
「隙があるから付文なんて貰うんだっ! って、そりゃ怖かったよな」
「あれじゃ神谷も怒るって」
うんうんと、またしても男達の首が縦に揺れた。
「ほほぉ・・・」
「そんな事があったんだ」
「そりゃあ確かに神谷が可哀想だよなぁ」
背後からかかった声に隊士達がぎょっと振り向いた。
そこには見慣れた三馬鹿、もとい、原田・永倉・藤堂の三人が立っている。
「せ、先生方・・・いつの間に・・・」
「そんな事よりな。その可哀想な神谷はどこに行ったんだ?」
原田の腕が相田の肩にかけられた。
「さ、斎藤先生と一緒に・・・」
「へぇ・・・斎藤が慰めてるんだ。素早いなぁ。どこに行ったの?」
無邪気さをまとった藤堂の笑みが答えを強要してくる。
「た、たぶん・・・」
相田の口から斎藤行きつけの料理屋の名前が告げられた。
「やっぱり可哀想な神谷には兄分達の慰めが必要だよなぁ」
ぼりぼりと無精ヒゲを掻きながらニヤリと笑う永倉に原田も頷いた。
「おお。もちろんたっぷり慰めてやらねぇとな。
当然飲み代は諸悪の根源である総司持ちだ」
「よっしゃ、行くぞ〜!」
「おうっ!」
ドタバタと出て行く彼らの背を眺めながら相田達は深く深く息を吐く。
結局彼らは誰かの驕りで飲めれば良いだけなのだ。
飲みながらの肴にされるセイと斎藤に心の中で手を合わせた。
「っていう事なんですよ、ヒドイと思いませんか、兄上っ?」
「あ、ああ・・・」
すでにセイは出来上がっている。
余程昼間の総司の態度に憤りを覚えていたのだろう、斎藤が止める間も
無い程の勢いで銚子二本を飲み干してしまったのだ。
その後も水と勘違いしているかの様子で酒を飲み続けている。
「別にね、いいんですよ。普段は甘味馬鹿の野暮天黒ヒラメだとしても
いざ戦場になれば誰より格好良い武士に変化するんですから。
そりゃ恋情を持つ娘さんだっているってもんです・・・」
酔い覚ましにと頼んだ水が入っていた湯呑茶碗を手元に引き寄せたセイが
トクトクと音を立てて酒を注ぐ。
「お、おい、神谷!」
慌てて取上げようとした斎藤の手を避けて、それを一気に飲み干してしまった。
すっかり眼は据わり、身体が左右に揺れている。
「ええ、いいんです。原田先生たちのように沖田先生が自分から女子を
口説いたりするはずもないなんて事はわかってるんですから。
別に沖田先生の責任じゃありませんって、ねぇ?」
何やら一人で語っては一人で納得している大トラの様子を眺めながら
斎藤も酒を口に運んだ。
裏庭でひどく落ち込んでいる背中を見た時からこうなる事は覚悟の上だったが、
想像以上の乱れように原因となった黒ヒラメを恨めしく思った。
「聞いてますっ? 兄上っ!」
「あ、ああ」
ずりずりと居ざるように近づいてきたセイが斎藤の膝に手を掛けて揺する。
「でもっ、でもねっ! あ〜んなに嬉しそうな顔をするなんて
酷いじゃないですか、ねぇっ!!」
酔いの回ったセイの瞳は潤み、白い肌は桜色に上気している。
これは己の理性に対する挑戦かと一瞬眩暈がした時、廊下に繋がる障子が
音を立てて開いた。
「そうだよなっ! 総司の野郎は、ひでえ野郎だ」
「そうそう、神谷の事は散々叱ったっていうのにね」
「俺達が慰めてやるよ。今日はとことん愚痴を聞いてやるから安心しろ」
乱入してきた原田達がセイを囲んで肩といわず頭といわず撫で回す。
お前が怒るのも最もだ、悪いのは総司だ、総司が全面的に悪い! と言いながら
料理屋の小女を呼んで次々に酒や料理を注文し出すその様子を見て
斎藤は苦虫を噛み潰したような顔をする。
この男達の目的など聞かずとも知れているのだから。
大トラだけでなく悪餓鬼三人までも抱え込んだ自分が、理性との戦いではなく
忍耐を試される事となった事に深い深い溜息をついた斎藤は、乱暴に酒を呷った。
猫の爪のような細い月が空に掛かっている。
体の芯を吹き抜ける冷たい秋風の中、屯所の門前に佇む男の姿があった。
「遅いなぁ・・・。斎藤さん・・・と、神谷さん・・・」
自分が恋文の相手に断りを入れるため屯所を留守にしていた間に
セイは斎藤と出かけたと聞いた。
多分な批難を滲ませた一番隊の隊士達の視線からもセイの機嫌がひどく悪い事が
知れて、大人しく部屋にいる気にもなれずにここで待っているのだ。
先程一足先に戻って来た永倉達も、セイが大層怒っていたと言っていた。
怒って怒ってどうしようもないセイを斎藤が宥めながら後から戻ってくるという。
けれど永倉達が戻ってきてから既に半刻は経っている。
何かあったのではないかと不安になった総司の足が動きかけた時、
畑の中に続く道の先から斎藤が姿を現した。
「斎藤さんっ!」
駆け寄っていった総司を斎藤が無表情に眺めた。
「遅かったですね。神谷さんは・・・」
言葉を飲み込んだ総司の視線の先に斎藤の肩先からダラリと垂れた腕があった。
「・・・寝ちゃったんですか。もぅ、しょうがないですね、この人は・・・」
苦笑を浮かべながら斎藤の背から小さな体を引き取ろうとした時、
ダラリと力を失っていた細い腕が自分を背負う男の首に絡みついた。
「神谷さん?」
「神谷?」
てっきりセイは眠っていると思っていた男達が同時に声をかけた。
「やっ!」
「神谷、どうした?」
既に散々クダを巻くセイの相手をしていた分、斎藤はその扱いを心得ている。
軽くセイの体を揺すり上げながら穏やかに問いかけた。
「きょうは、あにうえといっしょがいいです・・・」
半分開いた眼の中には酔いの色が濃い。
けれどその声音に酔いだけではない甘えの響きを感じ取った総司が、
不快気にセイの体に手を伸ばした。
「甘えるのも大概にしなさい! 斎藤さんだって迷惑ですし、貴女は一番隊の
隊士なんですよ! 斎藤さんと一緒に寝るなんて!」
――― ばしんっ!
伸ばした総司の腕がセイに強く払われた。
「いやっ! あにうえがいいのっ! あにうえとねるのっ! あにうえぇ・・・」
ぎゅうぎゅうと斎藤の首を抱き締めてセイが泣き出した。
――― ふぅ・・・・・・
溜息と同時に斎藤が歩き出す。
「・・・清三郎、少し腕を緩めろ。それでは苦しい」
その言葉にセイが腕を緩め、大きな背に顔を埋めた。
「斎藤さん?」
セイに払われた手を胸元に抱え込むようにした総司が慌てて後に続く。
「これにこんなに飲ませたのは俺だ。今夜は責任を持って預かろう」
「しかし・・・」
納得いかないという表情の総司にチラリと視線を向けた男が
口端だけに笑みを刻む。
「別に無断外泊という訳でもないしな。同じ屯所の中だ。
アンタだって副長室で寝る事だってあるだろう」
確かに土方にじゃれついたまま、副長室で寝こけてしまった事は
一度や二度ではない。
けれどこんな状態のセイを他の男に任せる事に抵抗を感じるのだ。
「・・・ですが」
「あにうえぇ・・・」
どうにか搾り出した総司の声音を幼げな声がかき消した。
背中からずり落ちかけた小さな体を揺すり上げた斎藤が苦笑を浮かべた。
「今夜は祐馬の代わりをしてやるさ・・・」
自分の中で暴れまわる正体のわからぬ感情の波に翻弄された総司は、
その声に混じった苦さを感じ取る事は無かった。
「うっ、えぇぇぇぇぇっ?」
三番隊の部屋から奇妙な悲鳴が上がったのは翌朝の事だった。
「なっ、なっ、なっなんでっ?」
きょろきょろと周囲を見回すセイを腕に抱えている無表情な男は
未だ眠気が覚めていないのか、ただでさえ細い眼が糸のようだ。
「・・・さ、斎藤先生?」
恐る恐る問いかけるセイに視線を向けた男がのそりと体を起こした。
それに釣られるように起き上がったセイの視線の先には
ニヤニヤと笑みを浮かべた三番隊隊士達の顔がある。
「なんだ、神谷は覚えてないのか?」
「“あにうえとねるの〜!”って、そりゃもう可愛かったんだぜ」
「神谷が斎藤先生を慕ってるのは知ってたけど、あそこまでとはなぁ」
「斎藤先生が着替えようとしても離れないんだからな」
「「「「「いっそ組変えしてもらえよ!!」」」」」
言葉のひとつひとつにセイの顔色が赤に青にと変わってゆき、
それを見ていた斎藤が溜息を吐いた。
「からかうのはその辺りにしておけ。昨夜の俺には神谷の兄が
乗り移っていたんだ。そうだろう、清三郎?」
言葉の前半は部下達に、後半はセイに向けた斎藤の言葉にセイが深く頭を下げた。
「申し訳ございませんでしたっ!」
酔っ払ったときの自分の事など当然わかりはしない。
けれど一番隊の部屋でなく、この三番隊の居室で寝ていた事自体が
どれほど斎藤に迷惑をかけたのかを物語っていた。
小さく身を縮めて頭を下げるセイの肩が優しく叩かれた。
「別に迷惑などかけられてはいないさ。気にするな」
その面に浮かぶ笑みに兄祐馬の影を見つけてセイの瞳が潤みかけた。
「ほら。さっさと顔を洗って一番隊に戻れ。今日は午前の巡察のはずだろう」
「はいっ、兄上っ!」
斎藤の言葉に背を押されるようにセイは井戸へと駆け出した。
後編へ