悋気応返 後編
「おはようございますっ!」
井戸端に集まっている隊士達に挨拶をしていたセイの視界に
一番隊の組長である男の姿が映りこんだ。
顔を洗っていた男が振り返ると同時に周囲の空気がピシリと張り詰めた。
「・・・おはようございます、沖田先生」
セイの頬が強張り、言葉は板の上に乗せられたように抑揚を失った。
「おはようございます、神谷さん。三番隊の部屋は寝心地が良かったようですね」
「っ!」
見開かれたセイの眼に薄い笑いを浮かべる男の姿が映る。
「二日酔いで隊務をおろそかにしないでくださいね。ああ、それと・・・」
総司の視線が一層冷たさを増した。
周囲に居た隊士達がひとり、またひとりとその場を去ってゆく。
「三番隊への配属を希望するなら、私ではなく斎藤さんにお願いしてください。
土方さんも斎藤さんの言葉であれば了承するでしょうから」
「昨夜はっ!」
強い瞳で総司を見据えたセイが声を上げて言葉を遮った。
「ご迷惑をおかけしました! けれど神谷は一番隊の隊士です。
今後はこのような事の無いように勤めます!」
「・・・そうですか。ではせいぜい頑張ってください」
最早興味も無いとばかりに向けられた背はセイを拒絶していた。
元はといえば総司が受け取った恋文が発端だったのだと思い出したセイは
乱暴に井戸の水を汲み上げ顔を洗う。
滲んだ涙を流すように何度も何度も。
晩秋の水は心まで凍てつかせるように冷たかった。
そしてそのまま三日が過ぎた。
良かれ悪しかれ総司とセイは隊内に多大な影響力を持っている。
総司の不機嫌はそのまま稽古での厳しさに繋がり、それは隊士の肉体に影響する。
セイの不機嫌は隊の空気に直接反映される。
食事の時、稽古の時、小さなひとつひとつの場面においてセイの明るい笑顔が、
細やかな気遣いが、隊士達を潤し癒しているのだ。
その笑みがほとんど見られなくなったセイの姿に、周囲も腫れ物に触るような
扱いをするしかない。
そんな隊内の異様な空気に耐えかねた土方が爆発したのだ。
「てめぇらは頭が冷えるまで戻ってくるなっ!」
土方の怒声に背を蹴りつけられる如く屯所を追い出された二人が
西本願寺の前で溜息を吐いた。
あの様子ではセイと仲直りをするまでは、戻った所で土方の鋭い視線に
晒される事だろう。
ここは取り合えず、ふたりにとって馴染んだ壬生ででもゆっくり話をするべきかと
総司がそちらに足を向けようとした。
それをちらりと確認したセイが総司に背を向けて東に歩き出す。
「ちょ、ちょっと神谷さん! どこに行くつもりですか?」
「先生には関係ありません」
慌てた総司の言葉に答えるセイの声音は感情を感じさせない。
「土方さんに言われたでしょう?」
仲直りしろって・・・という言葉は飲み込んだが、セイはそれを察して返す。
「別に喧嘩をしているわけではありませんし、隊務にも支障は無いはずです。
隊規に反する事ではないのですから副長に指図される覚えはありません」
そのまま東山の方へと歩み続けるセイの後ろに総司も続く。
確かに口論をしている訳でもなく、はっきりとした喧嘩という事でもない。
隊務は滞りなくこなしているし、当然隊規になど触れる事も無い。
相変わらずセイは総司の分まで洗濯をして、身の回りを整えてくれている。
午後の一時、お気に入りの裏庭に面した濡れ縁で菓子を食べていれば
セイに頼まれたという隊士か小者が茶を運んでくれる。
仕事の話で何事かを問いかければ几帳面に返答が戻る。
行動だけを省みれば至極普通の上司と部下の姿なのだ。
――― だけど・・・
総司の視線が足元に落ちた。
相変わらず隊士部屋では総司の隣に布団を敷いて眠るセイだが、
「おやすみなさいませ」と挨拶をすると背を向けて寝てしまう。
食事の時も総司と時間をずらして取っているのか、以前のように
隣で賑やかに食べる事が無くなった。
たまに同じ時間に居合わせても、総司から離れた場所で他の隊士達と食べている。
もしくは斎藤の隣で。
斎藤と・・・。
ふと気づいた事を前を歩くセイに問いかけた。
「斎藤さん・・・今日は黒谷に行っているんですよね」
「ええ、そう伺ってます」
その応えに総司の眉間に皺が寄る。
今セイの足が向かっている方向は、黒谷へ向かうものでもあるのだ。
「・・・・・・黒谷に、行くつもりですか?」
低い総司の声も知らぬとばかりにセイが足を速める。
「先生には関係無いと申し上げてます」
「駄目ですよ!」
強く言い切った総司がセイの細い手首を掴んだ。
そのまま歩んできた道を戻ってゆく。
引き摺られるような形になったセイが声を上げた。
「なっ、何をするんですかっ! 離してくださいっ!」
「駄目だと言ってますっ!」
その後はどれほどセイが暴れても総司は一言も発さず、ただひたすらに
西へ向かって歩み続けた。
「・・・ここ・・・朱雀野?」
自分が全力で暴れた所で本気になった男の力には適わないと悟ったセイが
諦めて総司の後について歩んだ先にあったのは朱雀野の森だった。
「ええ、そうです」
ようやくセイの手首を離した総司が腰の刀を抜き、パシリパシリと
二本の枝を落とした。
「胸の内に澱んでしまったものを吐き出すには、この方法が一番のはずです」
長めに切った一本の枝をセイに放り投げ、脇差よりも短い一本を自分が構える。
「同じ獲物では貴女に不利でしょう?」
サクリとセイに向かって歩を進めた男がニヤリと笑った。
「遠慮は無用です。本気で・・・きなさいっ!」
その言葉が合図となり、深い森の中に木の枝を打ち合わせる音が響いた。
いくら不利な獲物だったとしても総司とセイの実力は違いすぎる。
散々にセイを翻弄しながら総司には他の事を考える余裕があった。
確かに土方に命じられたからでもあるが、自分はこの人と別行動を
取る事が出来なかった。
屯所の前で背を向けられた時。
何だか視界が翳ったような気がしたのだ。
あの時だけでは無い。
夜、布団の中で背を向けられた時。
セイでは無い誰かが茶を運んで来た時。
自分では無い誰かの隣で楽しげに食事を取るセイを見た時。
少しずつ世界は色を失い、ひどく味気ない空間に置き去りにされた気がした事を
今更ながら理解する。
斎藤に、相田に、藤堂に・・・以前と変わる事の無い温かな笑顔を向けるセイ。
自分が久しく見る事の無くなった笑顔。
嫌、違う・・・。
笑顔は見ていた。
自分では無い誰かに向けられたものであれば。
けれど自分が見たかったのは、そんなものでは無かったのだ。
「う、うわっ!」
――― どすん
体に染みついたものでセイの攻撃をいなしていた総司だったが、あまりに深く
思考に没頭し過ぎたせいか、足元の小石を踏んで体の均衡を崩した。
そのまま地に背中を打ちつける。
「ったぁぁぁ!」
「だ、大丈夫ですかっ?」
地に転がった総司にセイが慌てて駆け寄った。
気遣わしげに覗きこんでくるその人の腕を、総司が掴み引き寄せる。
――― とすっ!
軽い音と共にセイの体が総司の上に倒れこんだ。
「な、何をっ!」
一瞬目を瞬いたセイだったが、すぐに我に返ると総司から離れようとした。
それを許すまいと大きな手がセイの腰に当てられて力が込められる。
「は、離してくださいっ!」
真っ赤になった顔を隠すようにプイと背けられた事が総司の胸に痛みを齎した。
この手を離したなら、またこの人は余所に行ってしまうのだろう。
そして自分では無い誰かに微笑みかける。
――― それは、嫌だ!
思考より先に心が叫んだ。
「ごめんなさい・・・」
ふいに囁かれた言葉にセイが総司へと視線を戻した。
そこには自分をじっと見つめる瞳がある。
あまりに真剣なその瞳に耐えられず、セイが再び顔を背けようとした。
「神谷さん・・・」
強い響きが目を逸らさないで、と乞うていた。
「こじれた糸を、解きたいんです。だから・・・最初に戻って・・・
ごめんなさい・・・」
以前セイの責任などでない事に激しい叱責を与えたことを。
今回女子から恋文を受け取ったことを。
短い言葉の中で真摯に謝罪していた。
その言葉にセイの瞳の中から自分に対する壁が消え去った事を確認して、
そっと総司の手の平がセイの頬に当てられた。
次は貴女の番ですよ・・・と言われた気がして、セイがこくりと頷く。
「お酒は控えろと言われていたのに、あんなに飲んですみませんでした。
それと・・・ずっと怒っていて・・・ごめんなさい」
セイの素直な言葉に一瞬頬を緩めかけた総司だったが、
再び眉間に皺が寄った。
「違います・・・」
「え?」
心からの謝罪を告げたつもりだったセイは、総司が何を不満に感じたのかが
理解できず首を傾げた。
その様子に苛立ったのか、総司が自分の体の上からセイを転がり落す。
(えっ、えっ? こ、これって、う、腕枕っ??)
セイの頭を腕に乗せたままで向かい合うように体を向けた男が
不機嫌に口を開いた。
「あの夜、貴女は斎藤さんとこうやって寝ていたんですよ」
鼻先が触れるほどに顔を近づけて吐息だけで続ける。
「貴女に一番近い私とも、こんな風に寝た事なんて無いのに・・・。
私が不満に感じても当然じゃないですか?」
密着した体の隙間からふたりの汗の匂いが混じりあって漂う。
濃い草の香りと絡み合ったそれにセイが眩暈を感じた。
「そ、そんな事覚えてないですっ! 大体私は酔っていたし・・・」
「酔っている時だからこそ、本音が出るともいいますよね」
「な、何を馬鹿なっ! とにかくっ、離してくださいっ!」
このままでは息も出来なくなりそうな気がして再びセイが暴れ出した。
小さな体に回された両腕がその力を増す。
「い、痛っ!」
華奢なその身に過剰な力を掛けられて、セイが悲鳴を上げた。
「・・・私はもっと痛かったんです・・・」
ぽつりと落とされた総司の言葉に腕の中の動きが止まった。
痛かった。
痛かったのだ。
酔って戻って来たセイに差し出した手を払われた時も。
そのまま斎藤にしがみついたこの人が、その腕の中で安堵の表情を浮かべた時も。
翌日から目に見えて自分との距離を取り始めた時も。
怒りに転化して目を逸らそうとしたけれど、本当は全て全て痛かった。
きつく寄せられた眉根がその言葉は嘘ではないとセイに伝える。
入隊した時から常に自分の傘の下に置くように気遣ってくれていた男が
ひどく傷ついている事にようやく思い至った。
それが例え最も近くにいたはずの弟子が離れた寂しさからの感情だとしても、
こんな顔をさせたく無いと惚れた女子としては思ってしまうのだ。
「・・・どうすれば、良いですか?」
そっとセイが問いかけた。
どうすればその痛みでついた傷が癒せるのかと。
「お願いを聞いてくれますか?」
囁くような声音がセイの耳元に落とされた。
「・・・はい」
「今宵、こうやって寝てください」
・・・。
・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・。
「えっ、えぇぇぇぇぇぇっ?」
鳥の声と風が木立を揺らす音しか聞こえない朱雀野の森に、セイの絶叫が響いた。
「なっ、なっ、なにっ、何をっ!」
確かに総司の願いを聞くとは言った。
言ったには言ったが、明日も朝から隊務があるのだ。
屯所の隊士部屋以外で寝る事など許されない。
そして隊士部屋には仲間達も一緒にいるというのに。
「出来っこないじゃないですかっ! 皆いるんですよっ?」
「皆がいるからですよ。斎藤さんと貴女がこうやって寝てた事だって
三番隊の皆さんは見ていたんですよ? 私だって・・・」
「だから、あれは酔っ払いだから・・・」
必死に翻意を促そうとするセイの言葉を聞いて総司が唇を尖らせる。
斎藤が許された事だというのに自分が拒絶されるのは我慢ならないのだ。
「じゃあ、今日も酔っちゃいますか? そしたら皆「またか」って思うだけですよ?
・・・でもそうしたら、また斎藤さんの所に行くんですかね・・・」
「うっ・・・」
その言葉にセイは反論できずに俯いた。
酔った時の自分にとって斎藤は信頼できる武士である前に、
どうやら兄である祐馬へと変じるらしいと気づいていたからだ。
酔って最も無防備になった時、絶対的な安心感を齎す兄の元に行かないと
言い切る自信は無い。
「やっぱり・・・」
思い乱れるセイの様子をジッと見つめていた総司が溜息を吐いた。
「貴女にとっては斎藤さんの方が安心できるんでしょうね・・・」
吐息混じりに切なげに告げられてセイががばりと顔を上げた。
「そんな事は無いですったら!」
「だったら・・・」
私のお願いを聞いてくださいよ・・・総司の瞳が願いを映した。
「・・・・・・わかりました。・・・今夜は沖田先生と一緒に寝ます・・・」
「本当ですかっ!」
途端にキラキラと瞳を輝かせた男を見ながらセイが遠い目になる。
結局は何があろうと自分はこの男に勝てっこないのだと実感して。
その夜。
二人の関係修復に力を貸した土方の元に、抱き合うように眠る二人の寝姿を
斎藤が注進したのはささやかな嫌がらせだったのだろう。
良くも悪くも周囲に影響を及ぼすこの二人は、今日も元気に騒ぎの種となっている。
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