狭間
< 1.序章 >
「沖田先生! 浪士が逃げますっ!」
声と同時にセイの気配が離れてゆく。
「神谷さんっ! 一人で行動するなと、いつも・・・っ!」
止める声は届かない。
目の前の宿屋に潜む浪士は二人のはずだ。
一人が逃れたのであれば、残るは一人。
自分が離れても配下で事足りると瞬時に計算した。
「ここは任せます。なるべく捕縛してください。無理なら・・・」
「承知!」
信頼できる伍長から短く返答が戻った。
空には猫の爪のような三日月がかかっている暗夜だ。
飛び出していったセイに少しでも早く追いつけと、その響きが総司の背を押す。
「相田さん、山口さん、神谷さんを追います。同行を!」
「「はいっ!!」」
その答えを聞く前に、総司は走り出していた。
二条と三条の境にあたる宿屋に浪士達は潜伏していた。
深夜の巡察の途中に監察の山崎からその情報を耳打ちされた一番隊が
その宿屋に踏み込もうと周囲を取り囲んだその時、
屋根伝いに部屋から抜け出る影が月の光に浮かび上がった。
隊で最も眼が良く俊敏なセイが真っ先に後を追うことになったのは
当然のなりゆきともいえる。
けれど相手の力量も見えないというのに、セイ一人で向かう事は
無謀としか言えない。
「まったく、あの人は・・・」
胸に凝る苛立ちを押さえつけ、セイが向かったと思われる一条方向へと走る。
総司の背後に遅れる事無く付き従っていた相田が声を上げた。
「沖田先生! 神谷がっ!」
言われるまでもなく総司の眼にもセイの姿は映っている。
少し先を走る影を追って真っ直ぐに疾走するその見慣れた背中が。
けれど総司の視線はセイではなく、その前方に据えられていた。
走る影のさらに先。
小さな橋の中ほどに揺らめく青白い炎。
いや・・・炎ではないだろう。
人よりも丈高い炎が橋の上で燃えていたならば、橋は既に燃え落ちている。
では、あれは何だというのか。
「あの炎は何ですかね・・・」
走りながら息を切らす事無く総司が呟く。
「炎? そんなもん、どこにあります?」
いつの間にか一行に加わっていた山崎が怪訝そうに問い返してきた。
チラリと眼をやると相田と山口も、言葉の意味が理解できないという表情だ。
つまり自分以外には見えないという事か。
再び総司が前方へと視線を向けた。
セイの前を走る影が炎に突っ込んでいく。
その男にも炎は視認できていなかったのだろう。
けれど総司の眼にははっきりと見えていた。
男の姿が瞬時に炎の中で溶け崩れてゆく様が。
驚愕に見開かれた総司の眼に、同じ炎にセイが駆け寄る姿が映る。
途端、全身に鳥肌が立つ感覚が総司を襲った。
「神谷さんっ! いけないっ!」
悲鳴に近いその呼びかけにもセイは止まらず、まっすぐ炎に駆け入った。
「っっっっっ!!」
音にならない総司の叫び声が深き闇に響く。
「神谷はんっ!」
「「神谷っ!!」」
背後にいた男達が驚きに満ちた声を上げた。
人が二人も手を広げれば左右の欄干に届く程度の小さな橋だった。
橋を渡りきるには大人の足で十数歩。
猫の爪のような細い三日月の光でも確認できる。
橋の床には穴の一つも開いてはいない。
何の変哲も無い小さな橋の真ん中でセイの姿が忽然と消え失せたのだ。
四人もの男達の眼前で。
その橋を、一条戻り橋という。