狭間




   < 2.戻り橋 >



「寝ぼけた事を言ってるんじゃねぇぞ」

冷たく響く土方の言葉に常ならば及び腰になり口を閉ざすはずの男達が
逆に気色ばんだ。

「嘘ではありません!!」

「消えたんです!!」

「・・・監察として、己の目で確かめた事実の報告を疑われるんやったら
 今後は一切仕事が出来ん事になりますな・・・」

相田や山口は別としても、現実を確認する能力と判断力に信を置く
山崎までもが口を揃える様子に土方の眉間に皺が寄る。

「本当に脱走などという訳じゃねぇんだな?」

鋭い声音は己の最も近くに座している男に向けられた。

「馬鹿な事を言わないでくださいよ。あの人が脱走ですって?
 本気で言ってるならたとえ土方さんでも許しませんよ」

その問いに返された答えは総司のものとも思えぬほどに低く冷淡だった。
可愛がっている配下の行方が知れなくなったというだけでない
感情の乱れようが、何やら違和を感じさせる。


「・・・詳しく話せ・・・」

ようやく土方が身を入れて聞く体勢になった。

「詳しくと言われても、浪士を追って自分達の前を駆けていた神谷が
 突然消えたんですよ。それ以外にどう言えば・・・」

相田が困惑した表情で目を伏せた。

「その浪士は、どうした? 逃げたのか?」

「いえ・・・そいつも消えたように見えました」

山崎が小さく首を振った。
自分の眼で見た事とはいえ、信じられない事象なのは確かなのだ。
けれどふと、何かを思い出したように総司を振り返った。

「そう言えば、沖田センセ。炎がどうとか言って・・・」

「・・・ええ・・・」

言葉の途中で総司が答えた。

「私の眼には橋の中程に人の身の丈ぐらいの青白い炎が揺らめいて見えたんです。
 そしてその中に突っ込んで行った浪士が溶け崩れるように消えた」

男が助けを求めるように片手を天に差し伸べる様子さえ眼裏に甦る。

「実は・・・」

恐る恐る山口が口を開く。

「自分は炎を眼にしたわけではありませんが、闇が少しずつ侵食して
 浪士の身体のあちこちが消えていくように見えました」

ぶるりと相田の身体が震えた。
尋常ではない話なのだから、健全な精神を持つ人間の反応としては当然だろう。

「でも、神谷は違ったんです。まるで・・・」

どう説明するのが最も相応しいのかを考える為か一度山口が口を閉ざし、
もどかしげに視線を彷徨わせる。

「そう、まるで路地に駆け込んで行ったみたいというか、戸口に入っていった
 感じというか・・・ぱっと全身が消えたんです」

その言葉に山崎と相田も頷いた。

「お前は?」

土方の問いかけに総司が淡々と答えた。

「神谷さんが炎の中に駆け込んだ瞬間に、炎が消えたんですよ。
 まるで望んだ獲物を得た事で役目を終えたかのように・・・」

感情を消し去った言葉の全てが、有り得ない現象に困惑する
胸の内の混乱具合を表している。

「橋の上だって言ってたな? 何か仕掛けがあったんじゃねぇのか?」

土方にしてもそうそう信じられる話ではなく、繰り返すように問う。

「何の変哲も無い橋ですよ! 自分達が四人揃って散々確かめたんですから!」

「穴の一つも開いてやいませんでした! 副長! 神谷はどこに行ったんです?」

激しく首を振りながら相田と山口が畳み掛ける。
山崎が視線を逸らし、総司は無表情に虚ろな瞳のままだ。
土方にしてもそんな不可思議な現象など過去に経験は無く、
確かな答えを出せようはずもない。

「・・・とにかく、しばらく神谷は密命で隊を離れている事にしとくが・・・」

「しばらく?」

山崎が聞き返す。

「ああ、しばらくだ・・・まぁ、ひと月が限度だな。それでも神谷の行方が
 知れないようなら・・・」

自分に向けられている総司の暗い瞳から逃げようともせずに言葉を続ける。

「脱走として扱う事とする」

「そんなっ!」

「神谷は脱走なんかしてませんっ!」

悲鳴のような相田達の叫びにも土方は眉一つ動かさなかった。
隊規は絶対だ。
病や怪我で隊を離れる事を許す事はあっても、このような理由無き離脱を
認める事などできるはずもない。
隊規の番人の思いなど、総司も山崎も骨身に沁みている。
故に二人の瞳に激しい炎が灯った。
真摯に勤めを果たそうと駆けて行ったセイの後姿は、今も眼に焼きついている。

脱走などという不名誉な烙印を押させてたまるか!

胸の中で叫び上げた言葉は同じだったかもしれない。

「わかりました・・・」

総司が射るような瞳で土方を見据える。

「神谷さんが脱走などしていない事は他の誰でもなく私達が一番理解しています。
 けれど確かにあの人は消えてしまった。部下の管理は上司の務めである以上、
 隊務に支障の無い範囲であの人の行方を調べさせてもらいます」

「監察としても己の眼を信じられないような事をそのままにはできまへんし、
 沖田先生のお手伝いをさせて貰わんと・・・」

山崎が総司の言葉に重ねてニヤリと笑った。
相田達も同感だと頷いている。
男達の反応など予期していたとばかりに土方が口を開いた。

「お前らが神谷の行方を捜す事に関しちゃどうこう言わねぇがな。
 隊に妙な噂が立つのは厄介だ。この件に関しては他言無用とする」

その代わりとして本来であれば夜間の無断外出は処罰の対象となるが、
この四人についてのみ出入り自由の許可を与えた。
それが土方の最大の譲歩である事を知る男達は黙って室を辞していった。





その日から五日が経とうとしている。
午後の巡察を終えた総司が屯所を出た。

夜の巡察以外では毎晩あの橋へと何か変化が無いかと確認に行っている。
表立っての捜索が出来ない以上、調査と聞き込みの能力に抜きん出ている山崎に
あの橋に関しての情報収集は任せるしかなかった。
総司達の期待に違わずセイが消えた翌日の夕刻までには戻り橋の近在で、
橋にまつわる伝承などの情報を仕入れた山崎が屯所に現れた。


さすがに千年王都だ、古い伝承であれば幾らでも有った。
あの橋で死人が甦ったとか、橋の下に古の陰陽師が自分の使役する式神を
封じていたとか。
夕闇に染まる頃、橋の上で見知った顔とすれ違うと数日後にはその相手の
訃報が届く、など新旧取り混ぜれば噂は限り無い。

けれど現在に繋がるような話など見つからなかった、と
山崎は困惑した表情で語った。
鬼火の噂などあの橋に限らずあちらこちらで囁かれている。
夜ともなれば闇が支配するのだから当然だろう。
橋や辻が異界、つまりはあの世と通じているなどという話も、
ここに限らずどこにでもある。
どれもこれも噂や伝承の域を出はしない。
何一つセイの消滅に繋がる話が見えてこない事が総司の苛立ちを増幅させた。

「せやけどな、沖田センセ。あの一条戻り橋言うのんは少ぅし特殊らしい、
 言われとりましたで」

鬼や神の眷属でさえ使役したという力有る伝説の陰陽師が、御所の鬼門に
あたる場所に邸を設け、そこをもって都の鬼門封じとした事は有名である。
その安倍晴明が己の式神を置くために敢えて選んだ場所が一条戻り橋。
つまりはそれだけ異界との距離が近いという事なのではないか・・・。

それが山崎なりの考察だった。



「異界、異界って、そんな非現実的な事があってたまるものですか。
 神谷さんは何かの手妻で隠されているんです。そうに決まってる・・・」

刻々と弱まる残照の欠片が総司の表情に影を落す。
どれほど自分に言い聞かせようとも、現実に炎と共にセイが消えるのを
我が目で見た以上、常識などでは語れない事象が起きているのを知るのも
また己自身。

「神谷さん・・・」

霞を掴もうとしているような心許無さと同時に、今現在セイの身が
どんな状況に置かれているのかを憂いて総司の足取りが重くなった。
不安で不安で不安で堪らないのだ。

その時、背後から聞き慣れた声がかかった。

「沖田さん」

振り向いた先ではいつもと変わらぬ無表情で斎藤が立っている。

「斎藤さん・・・こんな所でどうしたんですか?」

「二条の城で用を済ませた所だ」

そっけない言葉に総司が、ああ、と頷いた。
西本願寺を出て堀川通りを真っ直ぐ北に向かえば戻り橋へと辿り着くが、
その途中に二条城があるのだ。
そして自分は今、その手前の辻に差し掛かっていた。

総司との間に空いていた半歩の距離を詰めた斎藤が、先に立って北へと歩き出した。

「斎藤さん?」

怪訝な表情で伺う総司に振り向こうともせず、斎藤が呟いた。

「戻り橋へと行くんだろう。つきあおう」

「どうして、それを?」

「あんたの様子を見てれば判る。神谷に何事かが起きたという事もな」

口数の少ないこの男が、実は情報を豊富に持っている事を総司は知っている。
土方から他言無用と言われているが、この男が無思慮に口を開く事は無いだろう。
むしろ力になって貰った方が得策だと判断して総司は歩き出した。


「何があった」

暫く黙って歩を進めていたが、ぽつりと斎藤が尋ねてきた。

「消えたんですよ・・・」

「消えた?」

不審そうではあるが冷静な反応に総司が全てを語った。
目の前で見た自分でさえ信じられない事なのだから、斎藤が土方のように
頭から否定してきても仕方がないと諦めを滲ませながら。


「・・・・・・蒼い炎・・・」

総司の予想に反して斎藤は下らぬと一蹴する様子も無く、眉間に皺を寄せて
何事か考え込んでいる。
その様子にはっとしたように総司が詰め寄った。

「何か知っているんですかっ?」

「いや・・・知っている、と言う程では無い。だがあの日の夕刻、あんた達が
 巡察に出る前に他出から戻った神谷と少し話をしたんだ。
 どこへ行っていたのかと何気なく聞いたんだが、壬生に行ってきたらしい」

「壬生?」

「ああ。少し顔色が悪い気がしたんでな。何かあったのかと尋ねたんだが」


『何だかぞわぞわっと嫌な気配がするんです。誰かにじっと見られているような、
 背後に何かの気配がぴたりと貼りついているような・・・。
 振り返っても誰もいないんですけどね。何だか気持ちが悪いので、
 山南先生と壬生寺のお地蔵様にお参りしてきたんです』

斎藤の脳裏に不安そうに視線を伏せたセイの姿が思い出された。
あれが何かの前兆だったのだろうか。

総司もセイの様子を思い返していた。
だがセイが消えてしまう前の数日は隊務が立て込んでいて、ほとんど話を
していなかった事に気づく。
押し込み紛いに商家を脅しては金品を奪っていく悪質な浪士を捕縛するために
幹部と監察が総出で動いていたのだ。
セイの異変に気づく余裕など無かったし、そもそもまともに
顔を合わせる暇さえ無かった。

ふ、と総司の記憶にセイの笑顔が掠めた。

いや・・・違う。
確かに多忙ではあったが、セイが消える前日に一緒に隊務についていた。
捜索している浪士が嵯峨野の荒れ寺に潜伏しているという情報が舞い込んで、
一番隊の一部を連れて向かったのだ。
勿論その中にはセイも入っていた。

仕事である以上私語は極力控えていたが、小さな石碑に躓いたセイを支えた
自分に向かって照れたような笑みを見せた事を思い出す。
あの日は特に不自然な様子は無かったはずだ。
いつからそんな違和感を感じていたというのだろうか。

「神谷さんは、いつから・・・」

「ついたぞ」

問いかけようとした総司の言葉を遮って斎藤が足を止めた。
いつの間にか橋のたもとへと辿り着いていたらしい。
歩いているうちにすっかり日も暮れて周囲はあの日と同様、真の闇に沈んでいる。

きゅっと唇を引き結んだ総司が橋の中程まで進んでいく。
今日も何ひとつ変わったところは無い。
小さな橋は静かにその場に存在するだけだ。

「ここ・・・」

後についているはずの斎藤に聞こえる程度の小さな声で総司が呟く。

「ここで・・・消えたんです・・・」

橋板に片膝を着くとその場所に静かに手を触れた。
何度確かめようと細工一つ見つからず焦げ痕さえ無い、ただ普通の橋なのだ。
いっそカラクリがあれば捜索の手がかりも見つかるものを。
橋板を撫でていた手が強く握り締められた。


「・・・っ・・・・・・」

――― ドンッ

突然背後から響いた重い音に、弾かれたように総司が振り返った。
すぐ後ろにいるとばかり思っていた男が橋の手前の土の上に
膝を着いて座り込んでいる。

「ど、どうしたんですか?」

慌てて駆け寄り伸ばされた手を斎藤が払い避け、一度大きく頭を振って
立ち上がった。

「何でもない。少し眩暈がしただけだ」

「大丈夫ですか? 先に屯所に戻った方が・・・」

気遣わしげな総司の視線から表情を隠すように橋に背を向けた男は、
膝元についた汚れを軽く払うと真っ直ぐ西へと視線を投げた。

「沖田さん。少し付き合ってくれないか」

言葉と同時に斎藤が歩き出す。

「え? 斎藤さん?」

問い返す声も聞かずに離れていく背中を慌てて総司が追った。

「どこに行くんです?」

「少し思い出した事がある」

その言葉に総司が気色ばむ。
必死に探している糸口に辿り着けるかもしれないのだから、口調が強くなるのも
最もな事と言えた。

「神谷さんが消えた事に関してですかっ?」

「行ってみればわかる」

「斎藤さんっ!」

それ以降、いくら総司が問いかけても斎藤は一度として口を開かず、
ただ黙々と足を進めた。



すでに日は暮れてチラチラと星が瞬く。
西山の稜線を浮き上がらせる微かな残照の余韻が、
希望の欠片の如く総司の瞳に映っていた。