狭間
< 5.終章 浄穢不二 >
「神谷さん! 聞いてください、神谷さんっ!」
熱の無い青白き炎の向こうへと総司が絶叫した。
眉根を寄せた横笛がうるさげに視線を向けてくる。
「確かに私は貴女と向き合おうとしなかった。それは事実ですっ!
でもわかった! わかったんです! 貴女をどうして手放し難かったのか。
ちゃんと貴女に話をしたい! だから神谷さんっ!」
「うるさいわっ!」
横笛が軽く手の平で仰ぐ仕草をすると総司を取り巻いていた炎が近づいてきた。
これ以上何も語らせず帳の外へと押し出そうというその動きに、
じりじりと総司の身体が後退していく。
「神谷さんっ!」
大きく首を振りながら総司が叫ぶ。
その声が届いたのか横笛の面がセイへと戻った。
けれど瞳は悲しみを湛えて男から視線を逸らした。
「お帰りください、沖田先生。私はここに残ります・・・」
確かなセイの意志を乗せた言葉に総司は耳を疑う。
どんな事があろうと前向きであり続け、諦めるという事を知らぬとさえ思えた
セイらしからぬ言葉だったからだ。
ここに残るという事は、己の命を捨てる事だとわからないはずもないだろうに。
「何を言ってるんですっ! 帰りましょう、神谷さん。皆が待ってるんです!」
必死の呼びかけにも静かに首を振るだけだ。
横笛の言ったように、そこまで絶望が深いという事なのか。
総司の胸の奥が軋む。
「貴女が私を信じられなかった事も無理はありません。今まで女子としての
貴女を見ようともしなかったのですから。けれど気づいたんです。
私は貴女が女子に戻ろうとも離れる事などできないと!」
「それは過ちですっ!」
総司の言葉にかぶせるようにセイが叫んだ。
「横笛さんが言ったように、私が女子に戻った時に沖田先生が私を切り捨てる事に
絶望したのではありませんっ! そんな事はわかっていた事なのです。
沖田先生がご自分の誠を貫く為に女子を遠ざけられるのだと理解した上で
共に戦う道を選んだのですから!」
激してゆく感情を抑えるようにセイが一度大きく息を吸った。
「許せなかったのは自分です。共に在る時の中で沖田先生が私を特別に扱って
くださる事に喜びを感じ、いつしか女子の自分が顔を出そうとしてきた事が
何よりも許せなかったのです。横笛さんの哀しみが理解出来てしまう女子の
自分などあってはならなかった。先生の信念を歪ませてはならなかった。
私は沖田先生の障りになる自分にこそ絶望したのです。
だから、お願いですから・・・このまま捨て置いてください・・・」
弱々しく呟くような声に総司の眼が細められた。
ああ、そうだ。
この人はこういう人だった。
自分の想いが届かぬからといって絶望するような弱い人ではなく、
愛しい相手の障りになる自分が許せぬと嘆く人だったではないか。
だからこそ愛おしかった。
だからこそ手放せなかった。
できる事なら常に懐に抱え込んでいたいと思うほどに。
「・・・馬鹿ですねぇ、貴女って人は・・・」
動きを止めていた焔に向かって総司が歩き出した。
その向こうにいるセイへと腕を開いて。
「沖田先生?」
威嚇するように縦横に伸び縮みする焔さえ総司の眼には見えていないのか、
その瞳はセイをじっと見つめたままだ。
「貴女がいるから今の私があるんです。揺らぐ己を恐れて貴女を遠ざけた所で
強い心など持てようはずがないじゃないですか。貴女と正面から向き合って、
弱い己を克服してこそ私の望む強さを得られるんです。貴女が私の障りになど
なるはずがないでしょう?」
穏やかに微笑む男の歩みは止まらない。
そのまま焔に踏み込もうとする。
「沖田先生っ!」
(斬るが良い)
セイの声と同時に総司の脳裏に老僧の声が響いた。
その導きに従って腰から風を纏った白銀が走り、眼前の炎を断つ。
『ぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!』
声とも音ともつかないものを残して炎が消え失せた。
信じられないものを見たとばかりにセイの眼が見開かれている。
否。
その面は再び横笛のものに変じていた。
「おのれっ! おとなしく去ぬれば良いものを! 消えるが良いっ!」
般若の形相で命じた横笛の声に従い、残った炎が一気に総司を飲み込もうと
膨れ上がる。
「駄目っ!」
セイの悲鳴が響く。
闇しか存在しないはずの空間がセイを核として真昼のような光に満たされ、
眼を焼くほどの光量に総司が咄嗟に腕を上げた。
押しつけられた腕の隙間から届く光が徐々に弱まってゆくのを感じて
総司が腕を下ろすと眼前にはセイが横たわり、少し離れた場所に
半透明の女子の影が蹲り、揺らいでいる。
「神谷さんっ!」
セイに走り寄り確かな呼吸を確認した総司が大きく息を吐いた。
意識を失っているようだが、どこにも怪我などは見られなかった。
そのまま細い身体を片腕に抱くと、揺らぐ影に向けて刃を突きつける。
浪士達と対峙してさえ感情を乗せる事のない男の瞳が、氷の冷たさを閃かせた。
何よりもその事象が総司の中の怒りを表しているのだろう。
このまま捨て置けばいつ何時同じようにセイに干渉してこないとも限らない。
危険の芽が眼前にある以上、愛しい娘を守る為にこの場でその芽を
摘み取るべきだと判断する。
確証は無いが今の自分であれば横笛を斬り捨てる事ができるはずだ。
無言のまま刃を振りかぶろうとしたその前に、黒い影が立ちふさがった。
「・・・どなた、です?」
冷たい総司の声音に影が苦笑する。
まだ若いその男は藍の狩衣を纏い、腰には太刀を佩いている。
自分達が知る武士の姿と同じようでありながら確かにどこかが違う。
「この狭間の世界では想いの強い者ほど力を持つ。そなたが焔を斬る事が
できたのはその為よ」
男の唇から落ちた声は幾分若さを感じさせたが老僧のものだった。
そうである事を予想していたのか総司に驚く様子は無い。
「そなた達には迷惑をかけた。特にその娘にはな・・・」
ようやく意識がはっきり戻ったのか、総司の腕に支えられて一人で立ったセイが
男の視線の先で大きく首を振った。
「いえっ! だって誰よりも悲しかったのは私では無いですからっ!
本当に悲しかったのは・・・」
飲み込まれたセイの言葉は誰にも伝わっている。
男が総司に視線を合わせた。
「暫し、刻をくれぬか」
その瞳の中に哀願とも言える想いを見止めて総司が小さく頷いた。
自分の考えが間違っていなければ、永い永い刻の果てにようやく
哀しみに捕われた魂が開放の時を迎えるのだろうから。
男は総司達に背を向けると半ば透けて揺らぐ女子の前に片膝を着いた。
「待たせて、すまなかった・・・」
横笛が怪訝な表情で男を見上げる。
「篠・・・」
「時頼様?」
大きく見開かれた横笛の瞳が闇を駆逐して輝き始める。
それに伴って透けていた身体が確かな存在となった。
「ああ、私だ。篠。そなたの真名を知っている、まことの時頼だ」
「時頼様っ! 真実、時頼様なのでございますね! わたくしは信じておりました。
必ず迎えに来てくださる事を・・・。ふたたび・・・お会いできる・・・と・・・」
「遅くなった・・・、篠・・・」
男の腕に抱き締められた横笛が声を殺して泣き続ける。
その背を優しく撫でながら時頼が呟くように語りだした。
横笛が自分の父の差し向けた者によって命を奪われた事を知った時に、
初めて己が出家した事が誤りだったと気づいたのだと。
けれどすでに愛しい女子はこの世に無く、父を仇として討つ事も出来ない。
せめて残る生を贖罪の為に費やそうと厳しい仏道修行の果て民人に尽くし、
いつしか高野聖の尊称で呼ばれるようになろうとも一度として
心の安らぐ時など訪れず、悔悟の念を抱えたままで世を去った。
本来であればそのまま冥界へと行き着くものだが、中陰の中で横笛の魂が
いまだ現世と黄泉の狭間で彷徨っている事に気がついたのだ。
それからは横笛を救う為に己も自然の理に逆らい、共に狭間で迷い続けていたという。
だがどれほど横笛に語りかけようと固く凍ったその魂には時頼の声は届かず、
永い刻を愛しき女子の悲嘆の様を見つめるだけで過ごしてきた。
けれどようやく出会った稀有なる光に満ちた魂が横笛の念にヒビを入れた。
愛しき男を守りたいという強き願いは横笛の干渉を振り払い、
その衝撃で時頼が近づく隙間を生じさせたのだ。
淡々と語られる話は長いものではなく、物語を語るかのように静やかであったが
その合間に垣間見える悲嘆と苦渋は現実の痛みを感じさせる程に
総司達へも伝わってきた。
その感情に共振したのかセイの瞳からも横笛同様に涙が零れ続ける。
「貴女まで泣かなくても。本当に泣き虫なんですから・・・」
困った顔で自分の涙を拭おうとする総司の手を握ったセイが、
大きな手の平に頬を押しつけた。
自分がこのままこの場に留まったとしたなら、この愛しい男も時頼のように
永劫とも思える闇の中で苦しみ続けたのだろうか・・・。
それを思うと浅はかな己の考えが呪わしくさえ思えてくる。
「ごめんなさい、沖田先生・・・。ごめんなさい・・・」
ぽろぽろと止まる様子も無く零れ落ちる雫を空いている手で優しく拭った総司が、
小さな身体を抱き締めてその耳元で囁いた。
「謝るのは私の方です。ずっと貴女の優しさに、貴女の想いに甘えていたんです」
セイの腰に回されていた腕が力を強めた。
今まで押さえ込んできた想いを伝えるように。
「もう、誤魔化さない。私は男として貴女が好きなんです。だから・・・」
言葉の途中で顔を上げた総司の眼が開かれ、今まで以上の強さで
体を締め付けられたセイも異変を察して振り返った。
ふたりの視線の先では邸がゆらゆらと消えかけており、時頼と横笛も同様に
存在感を薄れさせている。
「どっ、どうしたんですかっ!」
「この場は狭間の中にこの者の念で作られたものだと言ったであろう。
故にこの女子が闇に満ちた念を手放せば消え去る定めよ」
驚愕に満ちた総司の問いかけに穏やかに答えた時頼が言葉を続けた。
「されどこのままでは我らは狭間の闇に消えるのみ。だからの、そなたに頼みがある。
それで我らを送ってはくれぬか」
すい、と指で示された先は総司の腰。
そこには武士の魂ともいうべき刀がある。
「なぜっ!」
総司の胸にしがみついたまま叫ぶセイを見やった横笛が口を開く。
「このまま消え去れば我らは狭間の闇に散る事になるのです。
そうなれば転生もままならぬ事。けれど五行の理に属する
金(ごん)の刃によって滅する事で再び中陰の道を歩み直す事も許され、
御仏の元で罪を清められし後に転生も叶うのです」
「篠・・・。今の者達に陰陽の理など理解できぬよ」
時頼が苦笑を浮かべながら横笛に語りかけた。
確かに総司もセイも横笛の話は理解できない部分が多かった。
けれど大切な部分を察し取れない程に愚鈍ではない。
「・・・つまりは、私の刃であなた方を斬れば・・・成仏できるという事ですね」
静かな総司の問いに時頼が頷いた。
「最後まで面倒をかけるな」
「いえ・・・」
短く返しながら総司がセイから手を離し、腰の刃を抜き放った。
そのままの動作で構えたのは平青眼。
総司が最も得意とする突き技を繰り出す構えだ。
己の持つ最高の技で永い刻の果てに旅立つ二人を送ろうというのかと、
セイの頬を再び涙が濡らしていく。
「娘よ、嘆くな」
慈愛に満ちた声音がセイに降り注いだ。
「嘆きは我らをこの場に留める。それはそなたの望む事ではあるまい?」
刻々と姿を薄れさせながら告げられた言葉にセイがこくりと頷いた。
「ならば嘆くな。いずれはどこかの地で出会う事もあろう。
ああ、礼代わりに言っておくべきかもしれぬな。
そなたの魂は稀少なる風を内包しておる」
時頼が総司を見、続いてセイへと視線を移す。
「そなたは光じゃ。風はすべからく人の内に巣食う澱を吹き散らす。
されど何も無い所から風が興る事は無い。温もりであり熱ともなる
光によって風は力を得るものよ。それを忘れぬ事だ、光に満ちし娘よ。
そして光に群がる闇を駆逐し、その輝きを守るは風の使命ぞ」
目元を綻ばせた時頼が、己の身体の前で横笛を抱き締め総司と相対した。
「・・・では」
刃の先に居るふたりが、その声に確かに頷いたのを確認し。
「やっ!!」
短い気合と共に白刃が繰り出された。
「はぁ・・・。何だかもう・・・」
頭上には満天の星。
地べたに座ったままでそれを見上げていた総司が深い溜息を吐いた。
「本当に・・・ご迷惑ばかりかけて・・・」
腕の中ではセイが真っ赤な眼をして小さくなっている。
総司の刃で時頼と横笛が消滅したと同時に周囲が激しく揺らぎだした。
視界の全てがどろどろと溶け崩れる中で総司とセイは固く抱き合ったままで、
強く瞼を閉じた。
それからどれほどの時が経ったのか。
頬を掠めるひやりとした風に眼を開けたふたりは、どういう訳か
戻り橋の袂に座り込んでいた。
腕の中で辺りを見回すセイの胸元から、ポロリと落ちたものを総司が受け止め
眼を瞬いた。
「これ・・・」
同じ物を自分も取り出す。
あの不思議な空間で常に自分を支えてくれたのは、これを通して繋がっていた
セイの想いだったのかもしれない。
二つ揃った壬生寺の地蔵守りは役目を果たしたとばかりに、
ぽうっと淡く輝きを放った。
現とも思えぬ出来事に思いを馳せていた総司の腕の中で、
セイが居心地悪げにもぞりと動いた。
「本当に・・・申し訳ありません・・・」
橋の下から響いてくる虫の音に消されそうなその声も、総司にとっては
天上の楽に等しい。
たったひとり、失う事など出来ないと定めた女性なのだから。
その人を無事に取り戻せた。
自分の腕の中に。
それは今の自分にとって、何よりの僥倖なのだ。
「いいですよ・・・。貴女が無事に、私の傍に居てくれる。
それだけで良いんです。それ以上は望まない・・・」
熱の篭ったその言葉に、驚いたようにセイが顔を上げると
柔らかく唇が降ってきた。
半月に照らされたひとつの影はそのまま暫く動く事は無かった。
哀しみで織られていた一つの恋物語は終焉を迎えた。
けれど新たな物語が始まる。
叶う事なればこのふたりが二度と狭間に踏み込む事の無きように・・・。
聞く者無き祈りが静やかに響いた。