狭間




   < 4.幽明境 >



漆黒の闇の中を穴の底へ落下するかと思われた体は落ちることは無かった。
踏み出した足の下には確かな感触を伝える地が続いている。
緩い下りになっているその場所は足元だけは確かだが、周囲は闇に沈んで
確認する事ができない。
けれど狭い空間ではない事は空気の振動から察し取れた。

(そのまま進め)

耳元で声が囁いた。


――― とす とす

総司の草履が立てる微かな音だけが周囲に響く。
他に生き物の気配は一切無い。
夜目の利く総司でさえ周囲を見透かす事が出来ず、ただふわふわと
苔の上を歩いているような心許無い感触を与える地面を歩み続ける。

何一つ眼に映る物の無い中でひたすらに歩き続けていると刻の感覚も
自分の目的さえもあやしくなってくる。
周りを取り囲む闇はねっとりと質量を感じさせ、今すぐにでも耳から鼻から
体内に潜り込もうと様子を窺っているようにさえ思える。

(何だか頭がぼんやりしてきますね・・・)

精神を研ぎ澄まそうとする傍から、張り詰めた心の先端を真綿でやんわり
包まれるような心地がしてくる。
何かがおかしいと感じながら、思う端からその疑問が形を失い消えてしまう。
代わりにまるで母の胎内に戻ったが如き安堵感が総司を取り巻いてゆく。

(ここは意外に心地良い場所かもしれません・・・)

暗闇は人の精神を蝕むものだ。
ましてここは妖しの空間。
じわりじわりと精神を冒そうとする何かに気づかぬまま、
思わず足を止めかけた総司の胸元で再び小さな気配がした。
それは今にも闇に溶け消えてしまいそうな男に確かな光を感じさせる。

同時にもう一つの光に気づいた。
遙か前方にぼうっと煌く輝きがある。
温かなその光は自分の胸元にあるものを通して優しい気配を伝えてくる。

(神谷さん!)

再び総司の足が動き出した。






――― ふわり

光の元にようやく辿り着いた総司の眼前には半ば透けた帳(とばり)が
垂れ下がっていた。
どこからどこまで続いているのか、長く長く巡らされたその布地のような物は
遙かな上空から足元に達し、左右はその始まりも終わりも見極められない。
風も無いというのに、それは頼りなく時折ふわりふわりと闇に棚引く。

透けた向こうには公家の邸と思える建物があった。
こちらに向かって開いた一室の前には広縁が配され、奥の間は板張りだ。
部屋の片隅に白い水干を身に纏った少女が座っているのが見える。
その面を確認し、総司が叫んだ。

「神谷さんっ!」


反射的に腰の刀を抜き放って眼前を遮る帳に斬りつけるも、一見布と思しきそれは
刃を受け入れるように僅かに揺らめいただけで切れ目ができた様子も無かった。
焦れた総司が力任せに押し入ろうと力をかければ岩のように頑強に抵抗を示す。

「何なんですか、これはっ!」

地面すれすれの部分で揺れているそれを捲り上げようと手をかけると
風のようにするりと総司の手を逃れ、次の瞬間には元の状態に戻っている。

目の前にセイがいるというのに近づく事ができない。
苛立ちのあまり叫ぶようにその人の名を呼ぶ。

「神谷さん、神谷さん、神谷さんっ!!」

けれどセイはちらりともこちらを見ようともせずに、
虚ろな眼差しで中空を見上げているだけだ。

「どうしたんですか、神谷さん! 私の声が聞こえないんですか? 神谷さん!」

触れると固い感触に変じるセイと自分を隔てる帳へ、強く拳を打ちつける。

――― だんっ!

「神谷さんっ!!」

血を吐く如き叫びに静かな応えが返った。

「無駄よ」

橋上とは違い今度は声と同時に背後に気配が現れた。
睨みつけるように振り返った総司の視線の先には、襤褸と変じた袈裟を纏った
僧侶が立っていた。

「・・・・・・どういう事ですか?」

「ここはあの世とこの世の狭間。どこにも属さぬ泡沫の空間。
 現世の器である肉体が朽ち果てようとも強い怨念と妄念に縛られ、
 中陰を越えてさえ浄化される事のできなんだ魂が
 永遠に迷い続ける場所なのだ」

深い皺の刻まれた面を俯けながら僧が語り続ける。

「ここでは強い念こそが力を持つ。お主を拒絶するその壁は、男に捨てられ
 嘆きのうちに横死した女子の結界よ。どれほど手ひどく裏切られ、
 命までも奪われようとも恋うた男を忘れられず、いつの日にか
 迎えに来てくれると信じ続ける狂った女子のな」

「待ってください!」

総司が老僧を正面から見つめた。

「まるでその人が殺されたかのような事を言ってますけど、あの話だと
 その女子は男の後を追って尼となり、心静かに遷化したはずでは?」

確かにそう聞いた覚えがある。
横笛は滝口入道の後を追い、大和の国で出家し、その寺で静かに生を終えたと。

「誰しも悲惨な末路よりも美談を信じたいもの。まして血塗られた結末など
 言い伝えたい者などそう多くはあるまい」

その言葉を否定する根拠の無い総司は口を閉ざした。

「男に捨てられた哀れな女子は傷心を抱えて彷徨ううちに、男の父親が放った
 刺客に殺されたのよ。あの、橋のたもとでな」

総司が眉根を寄せた。
未来を期待していた息子を失った父親がそんな行動に出ないとは言い切れない。
けれど哀れな女子の命を奪うまでしなくとも。
そんな心情を感じ取ったのか老僧が苦く笑う。

「一族の期待を背負っていた息子だ。父親だけの意思では無かったのかもしれぬ。
 けれど事実は一つであり娘は殺された。それを知った男の絶望は深かった。
 父親の罪、一族の罪、娘への悔恨。仏に縋ろうとも救いなど見出せようはずもない。
 衆生滅罪の御仏だとて魂を染めつくした闇までは救いようが無い」

「な・・・ぜ・・・」

自分は信じてなどいないけれど、仏とは救いを求めるものにはあまねく
その御手を伸ばすものではないのか。
総司の心内の疑問を読み取ったように老僧が告げた。

「たったひとりと己が定めた女子とも、子として礼節を尽くすべき親とも
 正しく向き合う事もせずに逃げ出した男に救いがあろうか。
 どれほどの時間をかけようと、幾多の苦難が待ち受けようと、
 己の力で守るべきものを守らねばならなかったのだ。
 それを全て投げ出し、最もな言い訳をして御仏の懐に逃げ込もうとした男に、
 心の平穏など永久に訪れようはずもない」

老僧の一言一言が総司の心に斬りつけてきた。
遠い昔の男の話だというのに、まるで自分が批難されているように思える。
薄々気づいていたセイの想いも、まして既に自覚していた自分の想いからも
眼を逸らしたまま、自分は不器用だから女子など傍に置けないと言い続けた。
そのくせセイを手放し難く、武士として隊で働いているのだから彼女は
女子なのではなく同志なのだと自分に言い訳をしてきたのだ。

女子だと思っていたくせに。
しかも誰よりも大切で愛おしい、自分にとって唯一の娘だと。

ぐっと握り締めた拳が軋んだ音を立てる。
そんな総司の姿を無表情に見つめていた老僧が視線を邸に向けた。

「哀れな女子は待っている。自分を解放してくれる男を」

老僧の視線の先を追った総司が眼を見開いた。
水干を纏ったセイの上にもう一人の娘の姿が浮かび上がったのだ。
それはゆらゆらと水面に映った影のように現れ、そして消える。

「お主の求める娘があれの嘆きを受け入れてしまった。けれどあの娘の持つ
 光は強い。完全に意識を取り込む事が出来ず、ああして娘が黄泉路へ
 近づくのを待っているのだ。いずれは己の仲間とするために」

「冗談じゃありませんっ! 神谷さんを死なせるわけにはいかない!
 どうしたら良いんですか? 何か知っているんでしょう? 方法は?」

矢継ぎ早の総司の問いかけに老僧は苦笑を浮かべたようだった。
あまりに直截なその姿は遠い昔の不器用な男を思い起こさせるのか。

「呼べ。あの哀れな女子を。今のあれはお主の求める娘と魂の一部を重ねている。
 お主の声なら届くであろう。さすればここを開け、中へと招き入れもしよう。
 されどその後の事は我にもわからぬ。お主の求める娘がお主の呼び声に応え、
 お主の元へと戻る事を望むか、あるいはあの哀れな女子の嘆きに
 お主諸共に取り込まれるか」

選ぶのはお主ぞ・・・。
静かな老僧の言葉を背に総司が邸を振り返った。

(神谷さん、必ず貴女を取り戻す)


「横笛!」




それまでピクリとも動こうとしなかった娘が緩慢な動きで総司を振り返った。

「かみ・・・っ!」

上げかけた声を飲み込んだ総司を、じっと見つめている女子はセイでは無かった。
見覚えの無い、けれど美しくも儚げな女子がそこにいた。

あれが横笛なのか。

総司が横笛から目を逸らさずにいると、じわじわと女子の面に喜びの色が浮かび
虚ろだった眼差しに生気が宿り始めた。
柔らかな動作で腰を上げ、膝立ちになった姿勢で両手を広げる。

「時頼様っ!」

総司の目の前を遮っていた白い帳が音も無く二つに裂けた。


内心の驚きを隠して総司が一歩を踏み出す。
あの幕の内側は横笛の結界だと老僧は言っていた。
セイが向こうの手の内にある以上、やたらな行動はできないと自分を戒める。
今は横笛の姿をしているが、あの身体は先程までセイだったのだ。
恐らく自分の事を待ち続けた時頼だと認識した為に横笛の意識が強くなり、
一時セイの肉体を支配しているのだろう。
あまりにも非現実的な事ではあるが、この場に到るまでが充分に有りえない事の
連続だったのだからと、老僧の言葉を信じて思考を纏めていく。
最も大事な事はセイを取り戻す事なのだから、その為の方策だけを考えれば良い。
総司の足が邸の縁の前で止まった。

「時頼様?」

すぐに駆け寄り抱き締めてくれるとばかり思っていたのか、横笛が腕を広げたまま
小首を傾げた。
その姿はどこか幼く見えて、改めて総司がその面をまじまじと見なおす。
歳の頃はセイとそう変わらないのかもしれない。
舞を良くしたという逸話の通り、ひとつひとつの動きが洗練されているからか、
遠目には大人びて見えたのだろう。

「時頼様・・・」

その呼び声に誘われるように総司が室に上がり、横笛の前に座す。
するり、と絡みつくように細い腕が背に回された。

「・・・お待ち申しておりました。永い永い刻を・・・。いつか必ずわたくしを
 迎えに来てくださると・・・」

うっとりと囁かれる言葉は総司の耳朶に滑り込み、脳内が痺れて
焦点がぼんやりと朧になってゆく。
甘い香りがどこからか漂い、ここに到るまでにも感じた
意識が虚ろになる感覚が再び総司を襲う。

(このままではいけない)

ぐっと腹に力を入れて横笛に話しかけた。

「私は、時頼殿ではありません」

胸の中の横笛はそんな声は聞こえないとばかりに身動ぎもしない。
それでも総司は必死に言葉を繰り返す。

「横笛さん。私は・・・時頼殿では、ありません」

「時頼様・・・」

総司の言葉を聞く気が無いのか横笛は同じ言葉を繰り返す。
その囁きが落ちる度に総司の思考の靄が濃くなってゆく。

「時頼様・・・」

何かが意識を浸食してゆく気配に総司が唇を噛む。
けれど時を重ねた妄念はたやすく男の意志を凌駕する。

総司の胸から顔を上げた横笛が頬に手を添え唇を寄せてくる。
紗のかかった視界の中で近づいてくる女子の顔は時に横笛であり、
時にセイとなる。
混濁する意識の中で総司の瞼が伏せられた。

ふわり、と柔らかく重なった唇から今までに体験した事の無い甘さを感じて
総司の体が震えた。
それは身体の芯が溶けるような錯覚をもたらしたのだ。

ゆるく幾度も触れてくる唇の感触が物足りなくなった頃、横笛が耳元で囁いた。

「抱いてくださいませ、時頼様。あの頃のように・・・」

再び唇が重ねられ、横笛の指が総司の耳朶をくすぐり項を辿る。
そっと包み込まれた総司の手が柔らかな胸へと導かれそこへと押し当てられた。

「・・・くっ! 横笛さんっ!」

握られた手を振り払った総司が横笛の肩を掴んで顔を覗き込む。
微かに残っていた正気を総動員して必死に己を取り戻したのだ。
たとえ横笛が憑依していようとも、この身体はセイのものなのだから、
何があろうと無事に取り戻すと誓った事を忘れる事などできはしない。

まして己で無い者に支配された状態で、花を散らさせる事などできようものか。


「いい加減にしてください! 私は時頼殿ではないのです!」

華奢な体を揺さぶりながら総司が叫ぶ。
その勢いにさすがの横笛も目を見開いた。

「時頼様?」

「違いますっ! 私は沖田総司です! 貴女の時頼殿は、すでにいない!」


それが鍵であったかのように、総司の言葉と同時に横笛の表情が変わってゆく。
なよやかに象られていた柳眉が厳しく攣り上がり、瞳には炯炯と光が灯る。
噛み締められた口元からは今にも血の雫が滴りそうだ。

「・・・そうか。そなたも違うと言うか。・・・ならば去(い)ね。
 速(と)く去ぬるがよい。時頼様ならぬ男など不要じゃ」

すいと総司から距離を取った横笛が冷たい声音で言い放った。

「帰ります。けれどそれは神谷さんも一緒です。その人を返してください」

「ほっ、ほほほほっ!」

静かな総司の言葉に高い笑いが返された。
口元に手を当て、喉を反らした横笛が心底可笑しそうに笑っている。

「返せ、とな? この娘の身はこの娘のものじゃ。そなたの物ではあるまいに」

「それはそうですが、神谷さんだって貴女の好きにされたくなどないはずです!」

「どうかのぅ。この娘が望んだからこそこの場にいるとは思わぬか?」

「何を馬鹿な事を!」

気色ばんだ総司の言葉に横笛の口元が弧を描いた。

「今のわたくしはこの娘の魂と重なっておるのじゃ。この娘の深い悲しみと
 絶望はそのまま流れ込んできておるわ」

「悲しみと絶望、ですって?」

「そうじゃ。女子など不要じゃと己を切り捨てる男の事を恋わずにおられぬ
 己の情念に。男と偽ってまでも傍にいたいと願わずにおられぬ妄執に。
 そうまでしてさえ己を振り返ろうともせぬ男の姿に、悲しみを覚えぬ女子が
 おると思うか」

白刃を喉元に突きつけられたようで総司が言葉を飲み込む。

「わたくしとて同じであった。愛しい男はわたくしを捨てて仏慈悲を求めて
 しまわれた。ひと目なりとそのお姿を見、その言葉でわたくしへの真意を
 語っていただきたいとようやく探し当てた庵から冷たく追い返された。
 そして悲嘆の中、あの方の父上によって黄泉路へと送られたのよ」

横笛の白い頬をはらはらと雫が滑っていった。
けれど一度強く閉じた瞼を開いた時にはその瞳に再び異様な輝きが宿っている。

「この娘とて同じ事。わたくしの末路を知り、いずれは己も同じに男に
 捨てられる事を思ったのじゃ。そうよの。いかに願うたところでこの者は
 女子以外になれはせぬ。女子など不要だと言い続け、己の弱さから
 眼を逸らし続ける男であれば、利用するだけ利用した挙句に
 いずれは重荷としてこの娘を捨てようほどに」

くすくすと笑う横笛を凝視したまま総司は固まり続けていた。
全ては事実であるからだ。

己の誠を貫く為に不犯の誓いを立てていた。
敬愛する近藤のような心の強さを持たない自分ゆえ、女子を傍に置いたなら
必ず心が揺らぐと思っていたからだ。
けれど実際は女子と知りつつセイを身近に置き続けた。
同志だからと言い訳しながら、愛しい女子と共にある安らぎを
甘受し続けていたのだ。
そして横笛の言うが如く、自分にとって都合の良い同志という存在から
女子としてのセイが逸脱しようとしたならば、きっと自分は彼女を手放したはずだ。
己の身勝手で利用するだけ利用した挙句に・・・。


総司の動揺を感じ取ったのだろう。
横笛が満足気に微笑んだ。

「己の末路を察したこの娘は絶望した。ゆえにわたくしと共に在る事を
 選んだのじゃ。共にこの地にて泡沫の夢に揺蕩う事をな」

す、と横笛の腕が上がり総司が入ってきた帳の亀裂を指し示した。

「理解し、納得したなら速く去ぬるがよい。本来であればそなたの命など
 奪ってやりたい所じゃが、この愚かな娘がそれを望まぬ」

もはや話は済んだとばかりに顔を逸らした横笛と総司の間に
青白い焔が幾つも現れた。
セイが消えた時に橋上にあった炎と同じものだろう。
つまりはもう己に近づく事は許さぬという横笛の意志を示している。
無理に近づき炎に飛び込めば、橋上で炎に飲まれて溶け崩れた男と同じ末路が
自分を待っているのだと総司は悟った。

けれど。
そうだとしても。
このままセイを、愛しい人を置き去りにする事などできるものか!


総司の胸に納められた塊が呼応するように微かな熱を放った。