時待ちの風   前編




――― くすくすっ

耳元で柔らかな吐息が響く。
それが照れくさいような幸せなような、様々な感情が交じり合って総司も微笑んだ。

――― 沖田先生

聞きなれた呼び声だというのに、いつの間にこんなに甘い余韻を残すようになったのだろう。
少し不思議で、けれど嬉しい。

『神谷さん・・・』

自分の呼びかけに腕の中の小さな身体が一層擦り寄ってきた。
柔らかくて温かな身体の感触に鼓動が走り出す。

『神谷さん・・・』

首筋に回されている華奢な腕が力を増したような気がして、その人の顔を覗き込んだ。

――― 沖田先生・・・

黒目がちな瞳がいつものような強い光ではなく、潤んだ熱を宿している。
上気した頬に何の抵抗も無く唇を押しつけると、紅く色づいた唇が不満げに尖った。

『こっちが良い?』

走り出した鼓動に合わせて上がっていく熱を身の内に感じる。
くすくすと喉の奥で笑いながら、突き出された柔らかな唇に
己のものを重ねようとした。







「お・き・た・先生っ!!」

――― バサッ!

唐突に視界が変わって総司は眼を瞬いた。
目の前にいるのは華奢な肢体の弟分ではなく見慣れた一番隊の相田だ。

「えっ、えっ? ええっ??」

音を立てて起き上がった総司がキョロキョロと周囲を見回している様子に
相田が呆れたように溜息を吐いた。

「いくらいつも起こしてくれる神谷が妓の所で休暇中だからって、
 いい加減起きてください。もうすぐ朝餉の時間も終わりますよ?」

「えっ、あっ、はぁ・・・」

ようやく自分が今いる場所を把握できたらしく頷く上司に重ねて相田の溜息が降ってくる。

「明日には神谷も戻ってきますから、寝言でまで“神谷神谷”って騒がないでくださいよ」

「ええっ? 私がっ! 寝言でっ?」

「ええ・・・それは、もう・・・」

相田の目にはあきらかな哀れみが漂っている。
日頃からこの上司と威勢の良い愛弟子の仲の良さは周知の事だが、
ほんの三日離れる事さえ寂しくて夢に見るほどなのかと。

「寝言・・・寝言・・・・・・夢っ!!」

――― ぼんっ!!

頭上から湯気の上がるのが見えるほどの勢いで総司の顔面が紅潮した。

「おっ、沖田先生っ?!」

何事かと慌てる相田に何でもないと必死に手を振った総司は埃を立てながら布団をたたみ、
転がるように井戸場へと顔を洗いに走っていった。




「何ですか、あの夢はっ! 神谷さんに私は何をしようと・・・、いや、してましたよね、
 何か、トンデモナイ事を。私はそんな事を望んでいるって事ですか?
 そ、そんなはずは無いですっ! 絶対にっ!
 私はあの人の事を立派な武士だと思っているんですから、
 そんな邪(よこしま)な願望など持っているはずは無いんです!
 持ってはいけないんです! ええっ! 絶対! 絶対にですっ!!
 ああっ、いつから私はこんな堕落した人間になってしまったんでしょう!
 だって、だって、ふわんと柔らかそうで美味しそうに見えたから・・・って、
 何を思い出しているんです! 恥を知りなさい、沖田総司!」

「・・・・・・・・・何をぶつぶつ言ってるんだ、沖田さん」

井戸端に座り込んで汲み上げた桶の水面を見つめたまま、念仏のように
何事かを呟き続けていた総司の身体が跳ね上がった。

「っっっ!! さっ、斎藤さんっ!!」

慌てて振り向いたはずみで足元の桶を蹴飛ばし、袴に盛大に水を被っても
総司の意識はそんな事にも気づかない。

「なっ! 何ですかっ!」

あわあわと片手を振り回す様子に斎藤が怪訝そうに眉根を寄せた。

「具合でも悪いのか?」

「いっ、いえっ! 何でもないです、少し考え事をしていたので驚いてしまって」

「ふぅん・・・」

斎藤の細い目に全てを見透かされそうな気がして、総司の心拍数が益々上昇していく。

「あ、わっ、私、朝餉がまだなんです。いただいてきますねっ」

必死にその場を離れようとする総司に向かって斎藤がボソリと呟いた。

「神谷が」

「えっ? かっ、神谷さんっ?!」

やはり斎藤に何か感じ取られたのかと、振り向かないままで総司の足は
その場に張り付いてしまう。

「ああ。神谷がいないと、アンタは朝飯も食えないらしいな。朝餉はすでに片付けられたぞ」

その言葉に総司の肩が大きな溜息と共にガクリと落ちた。
斎藤の目からは朝餉を食べ損なって消沈したように見えたが、
実は安堵のあまりの溜息だった事は本人にしかわからない。

「まぁ、そんなに落ち込まずとも賄い方へ行けば何か残っているだろう」

「は、はい・・・何か貰ってきます・・・」

重りをつけられたような足取りで去ってゆく背中に斎藤が首を傾げた。

「本当に神谷がいないと使い物にならないらしいな、あの男は」

その呟きはある意味間違いだが、ある意味正解でもあった。







それから数日後、すでにセイは休暇を終えて里乃の下から隊へと戻っていた。


「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

ごろりごろりと畳の上を転がりながら呻き声を上げ続ける弟分の姿に
鬼の堪忍袋がプツリと切れた。

「総司っ! うるせえって何度言えばわかりやがるっ!」

――― ごんっ!

「いたっ!」

傍らにあった文箱を無造作に投げつけられて総司が恨めしげに土方を見上げた。

「土方さん・・・ひどい・・・」

「酷かねえっ! いったい何だってんだ。ここ数日俺の所か近藤さんの部屋に入り浸りやがって」

「何って・・・」

文箱をぶつけられた頭を自分で撫でながら総司が口ごもった。
その様子をジロリと見やった土方が唇をひん曲げた。

「また何かやらかして神谷を怒らせたのか?」

「なっ! 何で神谷さんが出てくるんですかっ!」

「何でって・・・」

あまりの総司の勢いに土方が一瞬言葉を切った。

「おめぇ、今日非番だろうが」

総司がコクリと頷く。

「普段だったら嬉々としてあの小うるさい野郎を引き連れて、甘味巡りに出て行くじゃねぇか。
 それをこんな所で腐ってるんだ。神谷の機嫌でも損ねて相手をしてもらえねぇってこったろ?」

「違いますよっ! 神谷さんに怒られてなんていません! ただ・・・」

「ただ、なんだ?」

「いえっ、何でもありません。ただ今日はここに居たいだけです!」

「迷惑だ」

「ええ〜〜〜? 土方さ〜ん!」

一言の下に斬り捨てられた総司が情けない声を出した。
けれど本音を語ろうとしない弟分の相手をいつまでもしているほど
土方にしても暇なわけではない。
相談事があるのかもしれないと思ったからこそ、ここ数日は黙って部屋に
いる事を許していたが、ただ逃げ込んできているのなら話は別だった。

「仕事の邪魔だ。出て行け!」

冷たい言葉と共に猫の子のように襟首を持って部屋から投げ出した。

「土方さぁ〜〜〜ん」



廊下に放り出された総司は途方に暮れたように膝を抱えた。

「だって・・・顔を見られないんですよぉ・・・」

あの夢を見てからこっち、セイの顔を正面から見る事ができないのだ。
朝はセイに起こされる前に起床して、さっさと洗面を済ませ食事を取る。
セイは賄い方の手伝いや雑用を終えてから食事を取るために、総司の食事時間とは
微妙に時間差が生まれている。
稽古や巡察では嫌でも顔を合わせるが常に総司は先頭を歩いているため
セイは背後に位置する事になる。
だから直接顔を見る事はほとんど無いけれど・・・。

「どうしちゃったんでしょうねぇ。あの人が剣を振るうのが嫌なんですよね。
 斬り合いで怪我なんてさせたくないとか・・・まるであの人が
 入隊したばかりの頃みたいに心配症になってしまって」

無意識に庇おうとしてしまう自分に気づいている。
このままでは隊務にも支障が出かねない。
そんな事は重々承知しているというのに、気持ちがどうにも勝手に動いてしまうのだ。

けれどこんな事を土方に相談できるはずもなく、少しでも心が落ち着くまではセイと直接
顔を合わせる機会を減らしてみようと、ここ数日は近藤や土方の部屋に避難していたのだ。

「はぁ、しょうがないですね」

今日は近藤も屯所におらず土方の部屋も追い出されたとなれば行く場所など無い。

「一人では寂しいけれど、甘味でも食べにいきますか・・・」

重い腰を上げた総司が袴の埃を払って玄関へと歩き出した。







「はぁ・・・」

幹部棟と隊士棟を繋ぐ渡り廊下が見える階段に座り込んだセイが、大きな溜息を落とした。

「神谷?」

「あ、兄上」

背後からかけられた声に振り返ると、斎藤が気遣わしげに自分を見ていた。

「どうかしたか?」

「い、いえっ! 久々の非番なので少し気が抜けているというか・・・」

無理に浮かべた笑みが痛々しく感じられて、放っておけずに斎藤が隣に座った。

「・・・言ってみろ」

ここ数日の総司とセイの様子を見ていれば、セイの鬱屈の原因など聞かずとも
わかる事だったが、原因の一端なりと聞き出せなければ適切な指針を示す事もできない。
斎藤にしても憎い恋敵の手助けをするようで癪ではあれど、可愛い弟分が
萎れているのを見ていられないのだから仕方がないと心の中で溜息を吐いた。

「私、何か沖田先生を怒らせるような事をしてしまったんでしょうか・・・」

セイがぽつりと呟いた。

「わからないんです。怒っているのか、呆れているのか。
 ただ私を避けていらっしゃる事だけは確かなので・・・」

話を聞こうと思っても、さり気なくセイから距離を取って局長副長室へと行ってしまう。
平隊士のセイは用が無い限り幹部の部屋へ出入りする事はできない。
巡察前や後はそのような私事を話す余裕など無い。

「私が何かしたというなら、きちんとお詫びをしたいと思うんですけど・・・」

気分を害しているという雰囲気では無いのだ。
会話が必要な時にはごく普通に話しをする。
けれど、違う。違うと感じられる。
今までには無かった距離が、壁が、確かに総司から感じ取れる事が寂しい。

セイの眦にじわりと涙が浮かんだ。

「神谷・・・」

雫が転がり落ちる前に拭おうと、斎藤の指がセイの目元に近づいた。


「神谷さんっ!!」


幹部棟との渡り廊下から総司の声が響いた。







「お、沖田先生っ! ちょっと待ってください!」

スタスタと早足で歩く総司に追いつけず、半ば走るようにしていたセイが
とうとう声を上げた。
細い腕は屯所を出た時から総司に握られたままだ。

「先生っ!!」

全体重をかけてセイが足を踏ん張った勢いで総司の足も止まった。

「いったい何事なんですか! 兄上も驚いていたじゃないですか!」

その剣幕にさすがに総司も握り締めていた腕を放した。




土方に部屋を追い出され、仕方なく甘味所へでも行こうと渡り廊下へ差し掛かった総司の眼に
斎藤に何事かを訴えるセイの姿が飛び込んできた。
切なげに唇を噛み締めたその人の頬へと、隣に座っている男の指が
伸びるのを見た瞬間に叫んでいたのだ。

「神谷さんっ!」

足音高く二人の元へ歩み寄るとセイの腕を掴んで立たせた。

「今日、私たちは非番です! 甘味所へ行きましょう!」

叫ぶように言い放つと後ろも見ずにセイの腕を握り締めて歩き出したのだ。
あっけに取られた斎藤の顔も、総司の突然の行動に慌てるセイも見ないふりで
そのまま屯所を飛び出して歩き続けた。
胸の中のモヤモヤだけが刻々と大きくなるのを感じながら。



「沖田先生っ!」

再びセイに呼びかけられて渋々背後を振り返れば、セイの目が吊り上がっている。

「ちゃんと説明してください!」

セイにしても最近様子のおかしかった総司に誘われた事は素直に嬉しい。
けれどこんな強引さは納得できないのだ。
その困惑が面に現れていた。

――― ふう・・・

小さく吐息を吐き出して総司が前髪をかきあげた。

「すみません。上手く説明できそうもありません。でもせっかくここまで来たんですから、
 お団子ぐらいつきあって貰えませんか?」

悲しそうとも困っているとも取れる苦笑を浮かべた総司の声音は、
普段の飄々とした風情は微塵も無く、どことなく頼りなげでさえあって
セイもそれ以上強い言葉を言えなくなった。
黙ってしまったセイの姿に何かを感じたのか総司が視線を伏せる。

「無理に・・・とは言いません。強引に連れてきてしまってすみま」

「いいですよっ! 行きましょう、お団子屋! もちろん沖田先生のおごりですよねっ!」

総司の言葉を遮ったセイが数歩を詰めて男の隣に並ぶと、
そのまま歩き出しながら陽気に言葉を続ける。

「斎藤先生へのお土産も買ってくださいね。きっと心配されてますから!」

「は、はいっ!」

セイの動きに反応が遅れた総司が慌てて返事をすると、にっこりと笑みが返された。
その頬の白さと唇の赤さに再び総司の中で理解しかねるモノが暴れだした。
触れたい・・・と思ってしまう感情が抑えきれず、固く手の平を握り締める。

「沖田先生?」

恐らく誰よりも自分の感情の揺れに敏感なこの人に察し取られてはならないと
総司は無理矢理笑みを浮かべた。




                                             後編


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