かぐやひめ  一




 黒谷からの帰り道に、は寄り道をしていた。
 土方の使う筆を買い求めにやって来たのである。



 土方は筆を買う店も品物も決めていてその筆以外を使おうとはしなかった。
 書き味が気に入っているらしい。
 そして筆の尻についている、ぶらさげておくための紐にもこだわりがあった。
 必ず赤い紐のものを選ぶのである。
 面紐も赤を好み、刀の柄巻きも赤。鞘も朱鞘。
 赤といえば女性の色という固定概念があったには、初めの頃は違和感があったものの、
しばらくすると燃えるようなあの色は土方らしいとも思えるようになってきた。

 何本かまとめ買いをしてはあったものの、新品が残りあと二本になったのをは今朝方確認した。
 土方は筆まめで書状をしたためることが多いため、筆を潰すのも早い。
 は、帰りがけに買ってきますからと土方に告げて黒谷へと出仕した。



 「堪忍どす、売り切れてしもうて」
 「あ・・・そうですか」
 筆や墨、紙や習字道具などの文房具を扱う店の先で、店主は頭を下げた。
 土方愛用の筆は売り切れてしまったのである。
 赤い紐のものも、他の色の紐のものもすべて。
 「あそこのお客さんで最後だったんですわ、一足遅うおしたな」
 店主が指差す先をは見た。
 その客はちょうど買い物を終えたばかりのようで、店の女将に包みを手渡されているところだった。
 「この筆な、とても人気ありますのんや」
 「ええ、とても気に入りましたわ」
 女将に言われてその男は笑顔を見せたものの、どことなく元気がなさそうに背を丸めていた。
 そして視線に気がついたのか、ふーっと溜息をつきながらこちらを振り向いた。

 「!」
 男はを視界に入れた途端に目を見張り、筆の包みを取り落として勢いよく駆け寄ってきた。
 「あんた、ぴったりや!たのんます、助けてください!」
 跪いての手を握り、男は涙目でを見上げた。
 「え?」
 突然の事には動きが止まる。
 「後生です、どうか助けてください!」
 何のことやらまったくわからない。男はただただに頭を下げた。
 店主と、包みを拾ってこちらにやってきた女将と三人で顔を見合わせ、は訝しげに眉を寄せた。



 「土方さん、ただいま戻りました」
 は屯所へ戻ってきて、土方の部屋の外から声をかけた。
 「おう」
 土方は返事をした。
 障子が開き、が顔を見せる。
 「あの・・・」
 何故かは中には入ろうとせず、廊下に膝をついたまま。
 「どうした?入れよ」
 土方が促す。
 「お客様をお連れしたのですが・・・」
 は口を開いた。
 「客?」
 「はい。ちょっと土方さんにも会っていただきたくて・・・」
 珍しく歯切れの悪いに、土方は首を傾げた。
 「まあいい。どこにいる?」
 彼女の頼みなら会ってやらないこともない。土方は腰を上げた。



 通した部屋に、その男は座っていた。
 土方が両手を袖に突っ込んで入ってくると、畳に突っ伏して頭を下げた。

 土方は男の前にゆっくりとした動作で座った。その隣のやや後方にも座る。

 「ま、まさか会津藩御預の方とは知らず、失礼しました」
 男は這いつくばって挨拶をした。
 「そんなことはどうでもいい。用件を言え」
 土方は背を伸ばして、いささか鷹揚な態度で言った。
 「は、はい、実は・・・」
 ちらりとの方を見て、男は話し始めた。


 男は大坂の両替商の番頭で、名を良之助と言った。
 幼い頃から丁稚奉公で勤めており、真面目に働いてきた。
 金銭の取り扱いも間違いがなく、客あしらいも巧みで、他の奉公人にも好かれている。
 店の主人の一人娘の婿にと望まれ、近々婚姻の手はずが整えられていた。

 何事もなく商いを続けていたある日、店にひとりの客がやって来た。
 「主人はおるか」
 どっかりと店の式台に腰を下ろし、懐から派手な模様の扇子を取り出して客は言った。
 「はい、どちらさまで」
 良之助は愛想笑いを浮かべて客に聞いた。
 「権左衛門と言えばわかる」
 年は四十代後半から五十代前半と言ったところだろうか。
 ちらりと見た扇子は芯に繊細な彫刻が施されており、描かれている絵も凝っている。
 身に付けている着物も見事な黒羽二重で、いかにも金持ちらしい様子だ。
 良之助は自分の主人と同じぐらいの年に見えるその客の名前を主人に告げに奥へと入っていった。

 主人はその名を聞くと、咥えていた煙管を放り投げて店へ出てきた。
 「権左!」
 「おお、龍三郎。久しぶりやな」
 権左衛門と名乗った客は、主人が現れると扇子で自分を扇ぐ手を止めて振り向いた。
 「お前、今までどこにおったんや、探したんやで」
 主人である龍三郎は権左衛門の隣に座った。
 「お前との跡目争いに負けてから、江戸におったんや」
 ふんと鼻を鳴らし、権左衛門は横目で龍三郎は言った。
 「争いて・・・そんなん大げさや」
 溜息をつきながら龍三郎は権左衛門の肩に手を置いた。

 権左衛門はその手を即座に払った。
 「権左?」
 「今日はお前に勝負を挑みにはるばるやって来たんや!嫌とは言わせへんで」
 「勝負?」
 驚く龍三郎に指を突きつけ、権左衛門は言い放った。

 「あんたはん、何やの大声出して」
 奥から龍三郎の妻が顔を出した。
 「か、香はん」
 彼女の顔を見て権左衛門がうろたえた。
 「・・・権さん?権さんなん?」
 妻は権左衛門の顔を見ると、思い出したように声を上げた。
 「元気やった?どないしたん?心配してたんやで、急に姿消して」
 店の奥の暖簾を掻き分けて、妻は店へと出てきた。

 「お久しぶりでんな。今日はご挨拶に参りましたんや」
 襟を正すと権左衛門は龍三郎に向き直った。
 「そういう訳で、勝負やで龍三郎」
 「・・・そういう訳ってどないわけやねん」
 まだ何も説明されてないと龍三郎は首を傾げた。

 「あの、旦那はん・・・こちらどなたはんで・・・」
 状況が飲み込めない良之助はそっと龍三郎に聞いた。
 「良之助、ちょうどいい、お前も一緒に話聞いとけ」
 店先では何だからと、龍三郎は奥の部屋に権左衛門と良之助を伴って入っていった。


 「・・・で?」
 長過ぎる前置きに土方は溜息をついた。
 「は、はい」
 良之助がまとめて語ったのは次のような話だった。


 龍三郎と権左衛門は両替商で共に奉公しており、才覚も同じくらいで、娘しかいない両替商の主にはどちらかを婿に取るつもりだった。
 どちらも娘に惚れており、そういった面でも二人は好敵手であった。
 悩んだ挙句、主が選んだのは龍三郎の方だった。
 権左衛門は気位が高すぎて、客への態度が少々高圧的だったのが最後に引っかかったのだ。
 必ず自分が選ばれると思っていた権左衛門は店を継ぐ権利も好いた女子と結ばれる権利も無くして失意のうちに店を去り、 江戸へと流れて質屋に奉公する事となった。

 努力の果てにその質屋の主に納まることに成功した権左衛門は、ある日蔵へと入った。
 蔵の中には預かっている質草と、今までの質流れ品がたくさんしまわれていた。
 帳面と品物をつき合せて、確実に管理されているか見て回る。

 ふと、蔵の一番奥にある箱に目が止まった。
 よくよく見ると、帳面に記載のない箱だった。

 権左衛門は埃をよけて蓋を開き中を改めてみた。
 すると中にはたとう紙に包まれて、豪華絢爛な小袖が何枚も収められていた。

 一体いつ誰がこんな品物を納めたのかは店の誰に聞いても分からなかった。
 もしかすると、自分で4代目となるこの質屋の主人のうちの誰かが道楽で買い求めたものかもしれない。

 色取り取りの小袖を手にとって眺めているうちに、権左衛門の脳裏にある考えが浮かび上がってきた。
 そうだ、これを使って―――――

 「お前に勝負を挑みに江戸からやって来たんや」
 と権左衛門は真剣な眼差しで龍三郎を見据えた。



 「衣装競べ、というものをご存知で?」
 良之助は居住まいを正して言った。
 「衣装くらべ?」
 土方は眉を寄せた。

 衣装競べとは、時代が進むにつれて衣服に贅を尽くすようになる過程で行われた遊びのひとつである。

 江戸時代初期は一般庶民の身に付ける衣服の素材は麻や木綿(ゆう、と読み、もめんよりもっと目の粗いもの)、苧(お)という植物の繊維から作った糸を 使って織り上げた、粗末で着心地もそれほどよくないものが主流であった。
 一方で上流の武家の女性達は絹や上質の麻を用いたものを着用しており、地が見えなくなるほどの刺繍を施した「地無し」や「慶長小袖」、鹿の子絞りや 刺繍を多用して大きな図柄を一面に描いた「寛文小袖」などを所有していた。

 絢爛な衣装を持つ女性達が、それを張り合わないわけがない。
 当然のようにどちらの衣装が綺麗だの、豪華だの、重厚だのと比べ合いがはじまる。
 時には花見の際に細かい刺繍をした小袖に紐を通して幕のように張って見せびらかしたり、時には邸内でお互いにファッションショーのように見せ合いをしたり。
 そんな遊びが一部の富裕層で行われていたのである。
 元禄のころになると、成功した商人が着物に金をつぎ込んで富と粋の象徴とするようになり、そのあまりの贅沢さに 時の五代将軍・徳川綱吉が奢侈禁止令を出したほどであった。


 権左衛門は蔵から持ち出した衣装でもって、衣装競べを持ちかけたのであった。
 「あの衣装ならお前に絶対勝てる!一度はお前を負かさな気がすまんのや!」
 目を吊り上げて権左衛門は大声を上げた。
 彼にしてみれば、継ぐつもりだった店も縁付くつもりだった娘も取り上げられ、悔しい思いでいっぱいだったのだろう。

 「権左、いいかげんにせんか。今更そないなことしたって」
 「もしお前が負けたら、この店うちがもらうからな!」
 「え?」
 止めようとした龍三郎は、権左衛門の言葉に目を見張った。
 「お前、そんなくだらないことにこの店賭けられるか!」
 思わず龍三郎も怒鳴り返す。
 「自信ないんやな。わかった、ほなこの辺りから東海道抜けて江戸までいいふらしたるわ。大坂の龍三郎言う両替商はまともな着物ひとつも持たん上に臆病者やて」
 つんと権左衛門は横を向いた。
 「な、何やと」
 龍三郎はかっとなった。
 「くだらないとはわかっているが、そこまで言われて引き下がれるか。よし、この勝負受けたるわ!」
 売り言葉に買い言葉、ざっと立ち上がって龍三郎は勝負を引き受けてしまった。

 「だ、旦那はん」
 勝負の日時と場所を言い渡すと、権左衛門は高く笑いながら店を出て行った。
 その後には龍三郎と、おろおろする良之助が残された。
 「・・・良之助」
 底冷えするような声で龍三郎は良之助を呼んだ。
 「は、はい」
 「一緒に蔵に来い」
 着物の裾を翻すと、龍三郎は良之助を連れて自分の家の蔵へと入っていった。
 蔵の奥の奥に、家紋の入った塗りの衣装箱が鎮座していた。
 「ええな、この中の着物をよう目に焼きつけや」
 龍三郎は袂から鍵束を取り出すと、かちりと衣装箱の鍵を開けた。
 「ほんでお前、この着物に合う人を探して来い、わかったな」
 「え、ええ?うちがでっか?」
 主人の言いつけに、良之助は目を丸くした。



 「しかしながら大坂ではなかなかいいお人が見つからず、京まで足を伸ばしてみましたんや」
 そこまで言うと、良之助はちらりとを見た。
 「店で使う筆がもうそろそろ駄目になるのを思い出して、たまたまあの文具屋に入ったんやけど、それが幸いしましたわ」
 ずずいっと土方の元へといざり寄ると、を指差しながら早口でまくし立てた。
 「あのお人、あの着物の雰囲気にぴったりなんですわ!どうかお願いします、衣装競べに出しておくんなはれ!」
 「は?」
 良之助は真剣な目つきで土方に頭を下げる。
 「何故そこで俺に頼む?」
 「このお人が、“土方さんがいいと言ったら出てもいい”と言うたんですわ」
 それを聞いて土方は視線をに向けた。
 は困ったような目で土方に視線を返した。
 大方この男に押し切られて自分では断りきれなくなったのだろう。
 そんなことは彼女にしては珍しいが、それだけ良之助がしつこく頼んで来たに違いない。

 もし女装でもさせられて女だとバレてしまったら事だ。それは土方もよく分かっている。
 だから土方に相談すればきっと断ってくれるだろうと踏んで、はそうしたのだ。

 「土方はん、どうかお願いします!このお人、うちに貸してください!」
 良之助は土方にすがりついた。
 「貸してって・・・コイツは物じゃねえぞ貴様」
 むっとして土方は相手を睨み付けた。
 「聞きましたで、あの筆、土方はんがお買い求めのはずだったんですやろ?全部差し上げますから!」
 「馬鹿野郎、筆買う金ぐれえ困ってねえよ」
 「後から百本でも二百本でも届けさせますよって!」
 「だから困ってねえっつってんだろ!」
 「お礼もはずみますさかいに!」
 「断る」
 土方は良之助の腕を振り払ったが、すぐに再び良之助は土方の袖を掴んだ。

 「お願いしますよ、大坂に来たらいろいろお世話しますから!」
 「しつこいぞ」
 「・・・ええお店知ってますよ、お二人に別嬪さん紹介させてもらいますわ」
 「っ、阿呆かテメェ!」
 自分はともかく、に女など世話してどうする。
 相手は知らないとは言え、土方は思わず怒鳴りつけた。


 「失礼します、お茶をお持ちしました」
 障子の外から声が聞こえた。
 「あ、ありがとうございます神谷さん」
 男二人の押し問答の行方を黙って見ていたが障子を開けると、そこには神谷がお盆に茶碗と茶菓子を乗せて座っていた。
 良之助を部屋へ案内して土方の元へと行く時に神谷と顔を合わせ、客の気配に気付いた神谷が茶を持ってくると言ってくれていたのだった。

 「!!」
 良之助は神谷を見るなり、土方の袖を離してものすごい勢いで走り寄った。そしてがしっと神谷の両肩を掴んだ。
 「あ、ああ、ここにも居た!このお人もぴったりや!」
 「ななな、何ですか?」
 見知らぬ男に突然近寄られて、神谷は驚きを隠せない。
 「実はもう一人欲しかったところなんですわ!このお人も一緒にお願いします!」
 「何だと?」
 目を輝かせて神谷をも所望する良之助に土方は眉を吊り上げた。何てずうずうしい野郎だ、と。

 「神谷さあーん」
 その時、廊下の向こうから間延びした声が聞こえてきた。
 「あ、沖田先生」
 神谷が声のする方へと顔を向けた。
 「台所の戸棚に置いてあった干菓子って・・・あ、お客様でしたか」
 良之助に気がついて沖田は言葉を飲み込んだ。
 「沖田先生、助けてください」
 神谷はわけもわからないまま沖田に助けを求めた。
 「どうしたんですか・・・って、あ、その干菓子!後で食べようと思ってとっておいたのに・・・」
 ふと覗き込んだ客間のお盆に乗っていた菓子を見て、沖田は落胆した。
 神谷が茶受けに出した菓子は、どうやら沖田のものだったようだ。
 「す、すみません、先生のだったんですか?」
 神谷は慌てた。

 その時、良之助の目がきらりと光ったのをは見た。
 「そこのお方、甘いものお好きですか?」
 「え、ええ」
 しょぼくれた沖田は顔を上げた。
 「大坂の甘味、味おうたことございますやろか」
 「・・・!」
 良之助の言葉に、今度は沖田が目を煌かせた。
 「京のものとは一味違いまっせ・・・食べてみとうありまへんか?」
 にこやかに笑顔を浮かべてはいるものの、は良之助の背後に何か黒いものを感じずにはいられなかった。
 「いいですねえ、ぜひ味わってみたいものです」
 沖田は口調こそ爽やかだが、顔はだらしなく緩まっている。

 「神谷はん、でしたな。神谷はんと、このお人を一日だけお貸し下さったら、うちが大坂の甘味道楽にお付き合いいたしまっせ」
 極上の営業用の面を被り、良之助は沖田を誘った。

 それはマズイ。
 その場に居た誰もがそう思ったときにはもう遅かった。


 「ええ、おやすい御用ですよ、どうぞどうぞ」
 沖田はまるで空腹の果てに餌を与えられた犬のように、良之助の言葉に飛びついた。


 「おい待て、今のは無しだ。そいつはまったく関係ねえ」
 土方は思わず腰を浮かせた。
 「武士に二言無し、ということでよろしおすな、土方はん」
 良之助はぐるっと首を回して同じように笑顔を向けたが、その目は恐ろしいほどに黒い光を湛えていた。
 両替商の番頭という看板は伊達ではない。
 土方はうっと言葉に詰まってしまった。


 「ところで、何の話なんですか?」
 沖田が横から土方の分の干菓子を摘みながら聞いてきた。
 その瞬間、土方の鉄拳が沖田の鳩尾に見事に決まったのは言うまでもない。