数日後の昼過ぎ。
と神谷、沖田に土方の四人は大坂にやって来た。
土方たちは表向きは大坂への査察ということになっていた。
「休みが取れてよかったな」
土方はの横に立って言った。
「はい」
は黒谷での英吉利語の授業が、講師であるハーバーの休暇によって休講になっていたのである。
もともとハーバーは日本国内を旅するのが好きだったため、会津藩からもらった俸禄がたまったので十日ほどどこかへ旅行に出かけると言って、ふらりと消えてしまったのだ。
生徒の面々はそれぞれ今までの復習をしたり、武芸に励んだりして講師の帰りを待っていた。
そこで多少の無理を通してもらって、大坂へ来る時間を得たのである。
四人は良之助が用意してくれた宿に荷を解き、彼の勤める両替商へと向かった。
「おおきに、おおきにな」
両替商の主・龍三郎は丁寧に礼を述べ、店の奥で茶と山ほどの甘味を振舞った。
良之助の心配りであったと思われるが夢中になって飛びついたのは約一名であり、他の三名はその食べっぷりを見て冷たい眼差しを向けていた。
特に生贄まがいの目に遭う女子二人は、一人は諦めたような溜息をつき、一人は未だに恨めしそうな視線を送っていた。
夕方になり、店は仕舞いの時間となった。
龍三郎と良之助、それにたち四人は、連れ立って衣装競べの場へ向かった。
そこは門構えからして大きな料亭だった。
ゆったりと風に翻る暖簾をくぐり、中へと入る。
枯れ山水の配置された玄関の式台もまた大きく、磨きぬかれた床が八間の灯りを受けて黒く光っていた。
これもまた黒く光る太い柱が部屋の入り口ごとに据えられている。
しっかりとした造りの襖の向こうには何の気配もなく、今夜はこの店が貸切であることを窺わせた。
柱も襖も、そして空気もが重たい何かを感じさせる。
土方はここがかなりの高級料亭であり、密談などをするには格好の場所となり得ると密かに思った。
「土方はんと沖田はんはここでお待ちください」
良之助は仲居の先導で土方と沖田と主人を用意してあった部屋へと通した。
部屋にはすでに権左衛門とお供の者数人が来ていた。
「ほな山口はん、神谷はん、こちらへお願いします」
そしてそのままと神谷の二人を別室へと誘導していった。
月明かりのお陰で廊下は明るい。
建物も大きいが庭も大きいようで、は途中で大きな中庭や広い庭に東屋が設えられているのを目の端で捕えた。
散り始めた桜がふわりひらりと舞い、月の光を受けて白く輝いている。
(あれは・・・?)
美しく整えられた植え込みの手前にある小さな建築物に、の目が向いた。
三人で連なってしばらく進んでいくと、今夜の準備を整えるための部屋の前に着いた。
「中にうちの店の女中たちがおりますさかいに、すべて支度は任せてください」
と神谷がその部屋へ入ると、では、と言って良之助は頭を下げて出て行った。
すでに部屋の中にはたくさんの衣服が衣桁に吊り下げられており、後はそれを着る主人たちを待つばかりとなっていた。
「お待ちしておりました」
衣桁の陰からすすっと女たちが出てきた。
「父から今夜の衣装競べについて言付かっております。よろしくお願いします」
その中の一人が前に出てきて徐に畳に膝をつき、ゆっくりと頭を下げた。
「え、父って・・・」
「はい、わたくし、龍三郎の娘でございます」
きりりと襷がけをし、やる気を漲らせて娘が言った。
「父も良之助はんも大変な思いをしてるいうのに、わたくしだけ安穏とはしておられまへん。こっそりとお手伝いに参りました」
とんと胸を叩き、次々と女中たちに指示を出していく姿を見て、と神谷は腹を決めた。
女子だとバレないようにしつつ、最高の人形になってやろうと。
「実はどういうものを着るのか全く知らされてないんですけど、どういった感じになるんですか?」
神谷は衣桁に掛けられた着物を眺めながら聞いた。
「あら、そうなんどすか。山口はんの方はあちらで、神谷はんの方はあちらどすねん」
娘がそれぞれを指差して言った。
「これで何を表現するおつもりです?」
も自分の衣装の前に立って、その布をつまみながら聞いた。
「・・・ですわ」
こそっと娘は耳打ちした。
とその瞬間、の頭に浮かんだものがあった。
「あの、さっき見かけたんですけど、あれは使えないんでしょうか」
「え?」
女たちの内緒話が始まった。
一方、男たちは随分と長い間待たされていた。
競い合う者たちと一緒の部屋で待たされ、ピリピリとした空気がますます時間の経過をのろいものにさせる。
「装うというんは時間がかかるもんですわ」
良之助は土方の盃に酒を注ぎながら言った。
この部屋に来てから土方はほとんど口を利いていない。
がどういった格好をさせられるのかが気になって仕方が無いからだ。
「土方さん、眉間に皺寄りすぎですよ」
沖田は甘いものを与えられてほこほことご機嫌である。
は女装させられて女子だとバレないかヒヤヒヤものだし、神谷も何をさせられるのかを知ったときにはとても嫌がっていた。
結局イイ思いをするのはコイツだけじゃねえかと、土方は冷え切った目で沖田を睨み付けた。
「悪いようにはいたしまへんから。いえ、むしろあの衣装とお二人ならきっと・・・」
と主人の龍三郎が言えば、
「そうでんな、あの衣装とお二人ならきっと・・・」
と良之助も後を追う。
そうなんですかと沖田も話に加わって笑みを浮かべた。
土方もよくよく考えてみたら興味がないわけでもない。
何せがこの時代にやってきてから、女子の身でありながら女子らしい格好をしているのを見たことが無かった。
女子のように装いたいと一言も言った事が無い。
男の格好とて、彼女に選ばせた服の色も黒だの紺だの茶だのと地味なものばかりだった。
目立たないという観点からは正解かも知れないが、ちょっと気の利いた格好だとか洒落っ気が全く無い。
それを思えばここで半ば不可抗力のような状態でも女子らしい様相を呈するのを見るのは価値がある。
そこだけ取り出せば悪い話ではなかった。女子だとバレないように細心の注意さえ払っておけばの話だが。
もう乗りかかった船である。土方はようやく口元に笑みを浮かべ、沖田にうるせえなと言いながらちょっかいを出し始めた。
「両方とも、お支度が整いましてございます」
料亭の女将が恭しく手をついて挨拶した。
その後ろには優劣を決める三人の芸妓が同じく手をついて控えていた。
「本日は面白い集いをいたすそうでございますな。どうぞ、ごゆるりと」
いかにも商売といった風の化粧を施した女将は袂を探り、二本の紙縒りを出した。
「どちらが先にお見せするのか、くじでお決めなさりませ」
衣装競べをするのはすでに通達済みのようであり、全ての手はずが整っていた。
権左衛門と龍三郎は、先端を握り締めた女将の手からそれぞれくじを引いた。
まずは権左衛門からだった。
「ほな、あちらへ」
権左衛門は立ち上がると先頭に立って廊下を歩き、別の部屋へと皆を案内した。
しんと静まり返り、広い部屋の中には何もなかった。
権左衛門、お供の者たち、龍三郎、良之助、土方、沖田、そして審査をする芸妓たちが用意されていた座布団に座った。
ぱん、と権左衛門が手を叩くと、目の前の襖がすっと左右に開いた。
襖の向こうには、眩しい世界。
白に金色に赤に輝く美しい着物が、袖に通された紐に吊られて幾重にも部屋一杯に飾られていた。
まずは細かな文様が一面に施された小袖。
染め分けによって地のあちこちに色をつけ、その上から木の枝やそこから生き生きと咲く花、雲の合間を飛ぶ鳥などが細かい刺繍で描かれている。
その巧みさに、技術的なことは何もわからない沖田からも溜息が出た。
そして演出の為に、琴の音が辺りに響き渡る。
右からひらりと細身の女が出てきて、蝶のようにひらひらと舞いながら滑らかな手付きで紐ごと小袖を巻き取って左へと消えていった。その後ろから
次の小袖が現れた。
次は流れたる滝の意匠を模した着物である。
右肩から左の裾へと、崖から滝が落ちてくる様子を様々な柄の布で表現している。
その着物の左側には裾に谷底を表した裾模様の小袖が配されており、滝から流れる水を受けるような絵を完成させていた。
特に裾模様の小袖の、下から這い上がってくるような靄の表現が絶妙で、おそらく友禅染でありその中でもかなり芸当が細かいものであろうと龍三郎は思った。
この後にも、総鹿の子絞りの手の混んだものや、多彩で複雑な刺繍を生かした重厚なものが次々と現れ、見ているものの目を奪った。
合間に姿を見せて着物を効果的に巻き取っていく女子も常ならぬ美しさで、流し目で男たちの前をふっと通り抜けていった。
新しい着物が現れるたびに変わる琴の音楽も雅で、小袖から受ける印象をより深いものへとしていくのも効果的であった。
「次はお前はんのところやで」
権左衛門が満足そうに笑って言った。
古い意匠が多かったが、価値のあるものばかりだった。
これだけの枚数、これだけの派手さを凌ぐことはそうは出来まい。
権左衛門は内心勝ったつもりで居た。
「良之助」
龍三郎が声低く言った。
「はい」
良之助は立ち上がり手燭を持つと、自分たちの設えた部屋へと先導した。
すっと襖を開くとそこには何もなく、真っ暗だった。
「な、これは・・・」
良之助は驚いた。一体どうしたと言うのだ。
「場所を変えさせていただきました。わたくしがご案内いたします」
部屋の真ん中には龍三郎の娘が一人、正座していた。
「お、お嬢さん・・・!」
それに気付いた良之助が再び驚きの声を上げる。
「こちらでございます、どうぞ」
良之助に笑顔を送ると流れるような動作で娘は立ち上がり、廊下へと出た。
幾つかの廊下を曲がり、横に広く襖が立つ部屋へと全員が入っていった。
「ではご覧くださいませ」
と娘が言い、庭に面した障子を開いた。
そこには舞台が現れた。
屋根の代わりに上には桜の枝を抱き、四方を無地の小袖で覆われている。
観客の目がそちらに向いた瞬間、幕代わりの小袖がはらりと地に落ちた。
蝋燭と提灯の灯りと月の明かりがその中央を照らした。
草や花の模様が描かれた着物を立体的に敷き詰め、ところどころに本物の花や枝を配している。そのどこかに隠されている香炉からふわりと香りが立ち上る。
そして色彩と香りの海の真ん中に、二人は静かに座っていた。
誰もが目を奪われた。
金糸の混ざった桃色の衣を纏う神谷の美しさに。
桃色に染められた絹地は一色かと思われた。が、実は小さな牡丹の意匠が全体に白上げされているのと、金の糸を織り込んであるが為に、
照明の光を反射して複雑な色合いを醸し出していた。白上げとは、生地を染める際に糊で文様を描き、糊を置いた部分を染めずに白く残す手法である。
その小袖の下には薄い小袖が重ねられており、桃色から紅梅色、長春色とだんだん濃い色を繋いで茜色、一番下は消炭色の小袖へと落ち着いていった。
まるで十二単のような使い方である。
頭には小袖の桃色よりももう少し薄い桜色で染めた、極細の麻糸で織られた上布の小袖を被っている。その小袖には桜の花の刺繍が細かく点在しており、
通常は夏に着用するはずの上布に春の文様を施したところがまた道楽を物語っていた。
透ける布の下からは神谷の愛らしい顔が見え、どことなく憂いを秘めた表情を面に現していた。
「“かぐや姫”を題材にいたしました。姫が月に帰らなあかん場面です」
良之助が解説した。
かぐや姫は赤ん坊の時に竹林で拾われ、成長したら月に還らなければならない宿命を背負っていた。月から姫を迎えにきた使者はどんな抵抗も
ものともせずにかぐやを牛車に乗せ、月へとつれて帰ってしまうのである。その牛車の中での情景を切り取ったつもりなのだ。
長い間育ててくれた両親と離れ、もう二度と会えないことを嘆きながら月へと還るかぐや姫。
今の神谷の表情はその時のかぐや姫を彷彿とさせるような陰りのあるもので、その双眸には涙まで浮かんでおり、見ている者の心を鷲掴みにするような
雰囲気だった。
神谷が女子だと知っている沖田も、野暮天の身ながらその様子にすっかり見入っている。
だが、観客のうち一人だけそうは思っていない者がいた。
土方だった。
土方は神谷の隣に寄り添っているの姿に釘付けになっていた。
は女子の姿ではなかった。
暖色の女子らしい衣装をつけた神谷とは対照的に、黒い狩衣をその身につけていた。
そう、は月の使者の役割だったのだ。
狩衣は黒ではあったがこちらも細い金糸を交ぜた繻子織で、神谷の桃色の小袖よりは落ち着いてはいるものの、光沢を放っている。
その下には小紋をあしらった白と赤の薄い小袖を重ねて着ており、首元を彩る赤が白い肌に映えていた。
頭には立烏帽子を被り、額には前髪が幾筋か散らされていて、その透かされた合間から伏せ気味の目が覗く。
薄く施された化粧が顔立ちを中性的に見せており、この世の者でない空気を描き出していた。
女子姿ではない。
あくまでも使者を模した格好でしかない。
だが土方はとある思いが胸に沸き起こり、言葉を失った。
(神谷さん)
はこっそりと神谷に耳打ちした。
(な、ぐす、何ですか)
神谷は視線は前に固定したままに返事をした。
(大丈夫ですか、まだ沁みてます?)
(ええ、まだ沁みてますよ、ぐす)
神谷は瞳を潤ませていたが、それは本当に涙ぐんでいたのだった。最初に香炉を焚いた時に失敗し、もうもうと煙が上がってしまったのだ。
香炉は神谷の近くにあり、それをモロに神谷一人が被ってしまったのである。
(もう少しの辛抱ですよ、我慢してください)
は神谷を励ました。
(でも痛いです。早く終わらないかなあもう)
(私も正座してる足が痛いんですけどね。もう少しですから)
早く見世物になる時間が終わって顔を拭いたい。神谷はそう思ってますます眉を寄せた。
それを見たはそっと神谷の肩を抱き寄せた。
(ね、もう少し頑張りましょう)
(は、はい)
僅かに笑みを見せてが言った。
その表情を間近で見た神谷は、男とは思えない柔らかさにどきりとした。
その一連の様子が、周りからは、地上から離れる事を悲しむかぐや姫とそれを慰める使者に見えて。
舞台上の二人の空気が溶けるように馴染んでいく。
はらはらと頭上から桜の花びらが散り、儚さがより一層強調されて。
幻想的なその光景に、一同の唇から溜息が漏れた。
勝負は両替商の龍三郎の勝ちだった。
三人の芸妓が三人とも龍三郎に軍配を上げたのだった。
が提案した外の舞台での演出が功を奏したようであった。
「うちのことは好きにするがええわ、負けたんやからな」
どっかりと腰を下ろし、権左衛門は腕を組んで言った。
「権左、勝ち負けなんぞどうでもええやんか、また昔のように仲良うやっていこうやないか」
龍三郎が権左衛門の肩に手を置いた。
「りゅ、龍三郎」
「な、権左衛門」
古き好敵手であり友でもあった二人はお互いの手を固く握り締め、長きに渡った別離に終止符を打った。
その後は宴会になだれ込み、過去の溝を埋めた龍三郎と権左衛門は羽目を外してどんちゃん騒ぎを繰り広げた。
良之助はよかったと胸を撫で下ろし、と神谷を貸し出してくれた土方たちに何度も頭を下げ、酒を注いだ。そしてひとしきり感謝の言葉を述べてから、
権左衛門のお供の者たちと酒を交わしに席を立った。