神遊びの夜 ―― 秋宵宴 1
神遊びは豊穣の祈り。
一夜限りの尊き神事。
現(うつつ)を異とした、夢の一時。
その夜が明ければ―――――すべては幻。
けれど、それをただの夢と。
本当に忘れられようか―――――?
深夜の隊部屋では、いつものように鼾や歯軋りがあちこちから聞こえてくる。
そんな騒音も耳に入らないまま、総司はただ、セイの寝顔を見つめていた。
昼間の疲れからか、ぐっすりと寝入っているセイは、そんな総司に気づくはずもなく
深い眠りに就いている。
そのあどけない寝顔に、不意にどうしようもない感情に駆られて、総司は奥歯をきつく噛み締めた。
「………っ…」
隊士捕縛の為に赴いた大和の国から戻ったのは、つい半日前の事だ。
当然ながら帰営の遅れについて、土方からさんざんに怒られてしまったが。
背負うほど拾ってきた大粒の栗は、大いに近藤に喜ばれた。
『罰として先生が渋皮まで全部剥いてください』
そう文句を言いながら、セイが作ってくれた栗の甘露煮は、しばらく貴重なお八つになるだろう。
今日も一日、思うまま怒って、屈託なく笑って。
いつだって誰よりも自分の傍にいる『神谷清三郎』という愛弟子。
そこに在るのは、何ら変わる事のない日常。
―――――けれど昨夜。
自分は確かに、この腕にセイを抱いた。
*****
社殿を後にした総司は、アカルの居る山小屋へ行こうと、道なき道を進んでいく。
僅かな月明かりだけが頼りの深い宵闇の中、鳥居の近くにあった小さな篝火から
拝借してきた松明を翳しながら、総司は暗い山の斜面を慎重に歩いていた。
『神降ろしの香を吸った者は皆、神への饗(あえ)として交合せずば呪物は失せず、
いずれは心が壊れましょう』
村長がそう言った通り、祭祀に使われた香はただの媚薬ではなく、
身体を苛む熱に抗おうとするセイをひどく苦しめている。
己に従わぬ存在を呪い、祟るのが神だという。
そんな勝手な神を崇めねば生きられない人間は、なんと無力な生き物なのだろう。
「……ごめ…なさ……せん…せ……」
俵担ぎにしている為、背中に感じるセイの呼吸はいつになく荒く、時折何かを堪えるように、
息を詰めているのが分かる。
「不可抗力ですよ。気にしないでください」
そう応じる総司もまた、少しでも気を抜いたら膝折れてしまいそうだった。
なるべく気を散らそうと努めてはいるものの、身体の芯が熱く疼く。
あの社殿の中では香が尽きるまで、神へ捧げる為の『饗宴』が続くのだろう。
香を抜く術がない以上、自分たちもまた、この地を統べる大和の神が望む通りに、
男女の和合をするしかないのだろうか。
こんな理不尽な理由で、済し崩しに―――――?
ぎりりと歯を食いしばった総司は、ふと視界の端に小屋らしきものを見とめた。
中に入れて貰えるかどうか分からないが、アカルが居る山小屋までの距離を考えれば、
悠長な事も言っていられない。
とにかく早くセイを落ち着かせたいと急いで踵を返し、ずり落ちそうになる
小さな身体を担ぎ直した瞬間、
「……っあ………」
セイの荒い吐息に何処か甘いものが混じり、総司はぞくりとした。
「……おき…た……せん…せ…ぃ……」
羽織ごと強く腕を掴まれて、踏み出していた脚を止める。
名を呼ばれた瞬間に背中を走った痺れが男の『欲』だと気づいて、
総司はそれを振り払うように強く頭を振った。
「神谷さん、もう少し頑張ってくださいよ」
己を叱咤すると平静を装って背中のセイに声をかけ、総司は斜面の上方にある小屋を足早に目指す。
ようやく辿り着いた小屋は無人で、山仕事の休憩に使われている場所らしかった。
囲炉裏の傍らにセイを降ろすと、壁際に詰まれた薪を手にした総司は、
すでに心許無くなっていた松明を移して火を熾す。
薪が爆ぜて冷え切った室内が明るくなると、ようやく総司も肩の力が抜けた。
両腕を振り回して凝り固まった肩をほぐしていると、セイが小さく呻く。
「……んっ…」
いまだ荒い息のまま身を捩るセイの額には、じっとりと汗がにじんでいた。
「…神谷さん……」
ずっと動いていた分、総司への媚薬の効力はさっきより薄れている気がする。
このままセイと適度な距離を置けば、最悪の事態は免れるだろう。
だが、風上で深く香を吸ってしまったらしいセイは、媚薬との相性もあるのか、
先程までと変わらず苦しげに見える。
拝殿で自分とセイを囲んだ、見知らぬ男と契ろうと群がる若い女子たち。
もしかしたら神の媚薬は、女子の性により強く効くものなのか。
だとしたら。
このまま放っておけば、本当にセイの心が壊れるかも知れない。
ならばいっそ―――――と、総司の中で迷いが生じる。
しかしそれは、懸命に努力を重ね、武士として今日まで頑張ってきた
『神谷清三郎』への侮辱に他ならない。
どう、決断するべきなのか。
小さな隊士の並ならぬ労苦を無駄にする事を躊躇う総司の耳に、
「……ん…っは………」
熱を帯びたセイの苦しげな息遣いが聞こえる。
無意識なのだろう、きつく胸元を掻き毟る指先が血の気を失って白い。
『この夜の事は神の庭での遊びなれば、後に何ら障りともなりませぬ』
村長の言葉が総司の脳裡に響く。
今までこの子を見守り、育ててきたのは、見知らぬ神へ捧げる為などではない。
共に明日を生きていく為だ。
だからこそ、己の恋情をも押し殺した。
大事な大事なこの愛しい存在を。
―――――こんな所で喪う訳にはいかない。
そう決意すると、セイの隣に腰を下ろした総司は、汗で貼りつく素直な前髪を指先で軽く梳いた。
だが己を蝕む熱と戦っているセイは、何の反応も示さない。
「神谷さん、聞こえますか?」
意識を向けさせる為に触れたセイの手は、ひどく熱かった。
「せ…んせ……」
眉根を寄せたまま視線を上げたセイの顔を、囲炉裏の炎が映し出す。
上気して婀娜めいたその貌は、神降ろしの香で呼び起こされた、
総司の中の男の本能をざわつかせた。
有無を問わず抱いてしまえと、頭の隅で誰かが唆す。
こんなにも愛しい女子に触れないなんて、どうかしていると。
そんな邪念を振り払いながら、総司は荒い息を吐くセイの手を強く握った。
何を引き換えにしようとも。
ただ、生き延びる事を望んで欲しい―――――と願いながら。
「今ここで、選んでください」
「………………」
「この地の神に抗って、あくまで武士で在り続けるか。それとも今、私を相手に『神事』を行うか」
決めるのは貴女自身の意思で、と総司は告げる。
「今宵の神事を拒んだ事で、いずれ神の怒りに触れたとしても。私も最期まで貴女につきあいましょう。
―――――天国でも、地獄でも」
いつものように微笑って見せると、セイが何度か目を瞬かせた。
「……せんせい………」
おまえは卑怯者だと、総司は己をなじる。
こんな言い方をすれば、セイが選べる道は一つしかない。
優しいこの子は己の意思よりも、尊師である自分の無事を願うだろう。
女子である事を否定するこの子に、自分は無体を強いている。
きっともう、先生だなんて思って貰えないのかも知れない。
内心ではそう自嘲しながら、総司はセイの貌を見つめる。
戸惑いを浮かべて自分を見上げる、蠱惑的なその貌。
初めて出会った二年前、まだまだ幼かった『童』は、いつのまにこんなに美しく成長したのだろう。
いや、浅葱色の振袖姿を見た時から、自分はそれに気づいていた。
いつも傍にいる小さな隊士が、誰よりも綺麗な女子だという事実を。
識っていて―――――あえて目を逸らせていた。
セイを手放したくなくて、知らぬふりを決め込んだのだ。
「……神谷さん………?」
山南の小姓だった昔から、セイに言い寄っていた伊東を思い出す。
衆道を嫌う土方が、しつこく自分達の仲を危ぶむのも、今なら分かる気がした。
今までの騒動をいろいろと思い出しながら、総司はセイの額の汗を自分の手拭いで拭ってやる。
ややあってから、セイは震える手を伸ばして総司の腕に縋りついた。
それに気づいて起き上がるのを手伝うと、セイの小さくて華奢な身体が倒れ込むようにして
総司の腕にそのまま収まる。
「……抱いて…くだ…さ……沖田…せん……」
耳元に囁いたセイの手が、誘うように総司の背を撫でた。
「………神谷さん……」
その決意をするまで、どれだけの葛藤があったのだろう。
ほんの一瞬だけ視線を交わしたセイは、両手で抱き寄せた総司の胸板に預けた顔を仰のかせたまま、
静かに目を伏せた。
熱い吐息が総司の喉元にかかる。
力なく縋る小さな手。
長い睫毛に縁取られた目と、うっすらと開かれた赤い唇。
それはまるで、接吻をねだっているようで。
いつも見慣れているセイの貌が、いつになく艶かしく映った。
「………本当に、いいんですね」
重ねて問う総司に、セイは小さく頷いた。
「……ご迷惑、…を…」
「もう黙って」
指先で優しくその唇に触れ、総司はセイの謝罪を封じる。
「でも、これだけは知っていてください」
そう告げると、総司はそっとセイの頬を撫でて、その顔を間近に覗き込む。
「……んっ…」
何もかも過敏になっているセイは、その指にさえびくりと身体を震わせ、甘い反応を垣間見せた。
「私が貴女を抱くのは、決して神降ろしの香に惑わされたからじゃない。
神谷さんを好いているからです」
その告白をセイがどう受け取ったのか、総司には分からない。
ただ、目を開けたセイはふわりと微笑って、
「……嘘でも…嬉…し……」
瞼にくちづけを落とす総司の背に、遠慮がちに両腕を回した。
*****
けれどそれは『神事』の一夜。
夜が明ければ、ただの夢。
『忘れなさい。貴女は何も、恥じる事はないんです』
武士である貴女の気高き志は、こんな事で穢されはしないのだと。
そう彼女に告げたのは、他ならぬ自分自身だ。
けれど―――――。
飽きずにセイの寝顔を見つめながら、総司は心の中で問いかける。
仕方のない成り行きとはいえ、私にその身を委ねた事を。
女子の貴女を、私に奪われた事を。
―――――貴女は、後悔していませんか?
『…愛してる、セイ……!』
熱を交わす中で一度だけ囁いた睦言に、嘘はないけれど。
貴女の耳には、どう届いただろうか。
「………ん……」
不意にセイが身動ぎして、総司は息を飲む。
もぞもぞと寝返りを打ったセイは、総司の目の前で、幸せそうに呟いた。
「……おき…たせん………」
不意に、総司の胸に愛しさが溢れた。
まだこの子は、自分を慕ってくれている。
私はまだ、この子の『先生』でいていいのだと。
「………ありがとう、神谷さん………」
小さく小さく、総司は呟く。
胸が締めつけられる程の歓喜を覚えながら、ようやく安堵を得て。
総司は自分の布団に潜り込むと、その中で身体を丸める。
―――――明日になればまた、いつも通りにセイと笑いあえるだろう。
本当に何もなかったように。
今までと変わらず繰り返される日常を、これから先もずっと。
気づけばいつも傍らにいるセイと、共に過ごせるだろう。
そう思うと、夜が明けるのが待ち遠しい。
幸せな気分のまま、総司も静かに目を閉じた。
**********
数日後。
それまで静寂に包まれていた真夜中の屯所は、俄かに騒がしくなった。
「神谷、起きてくれ」
そろりと障子を開けた隊士の小声に、深い眠りを貪っていた筈の一番隊は、
それでも皆が皆、むくりと起き上がる。
「何事ですか」
代表して問うた総司へ、今夜の門衛は慌しく口を開いた。
捕り物で火を放たれて隊士が大勢巻き込まれました。今から負傷者がどんどん運び込まれてきます。
それで神谷の手を」
今夜の捕り物は、大物浪士が密かに上京し、会合が開かれる為に潜伏中の浪士が集まる
という情報で、三隊が臨んでいた。
だが、踏み込んで間もなく火を放たれて、瞬く間に燃え広がった炎に現場となった揚屋は焼け落ち、
逃げ遅れた不逞浪士もろとも新選組隊士も大勢巻き込まれた。
近隣の家は今も燃えていて、無事だった隊士が鎮火に当たっているという門衛の言葉に、
全員が息を飲む。
「すぐに着替えて行きます!」
荷物置き場になっている襖の奥に隠れて慌しく着替え、渡り廊下を駆けるセイが見たのは、
血に塗れ、また、羽織や袴を黒焦げにして帰営した仲間たちの姿だった。
「…ひどい……」
急いで襷をかけるセイは、寝間着のまま物見高く眺めている隊士たちを堂宇の廊下に見つけ、
容赦なく怒鳴りつける。
「そこらに突っ立ってないで、暇な人はお湯を沸かしてください!」
鍋釜ありったけ全部使って! という声に、怯んだ何人かが厨へ走り去った。
「私たちも手伝いますよ、神谷さん」
総司を筆頭に揃って出てきた一番隊が、助力を申し出てくれたのに、セイはにこりと笑んでみせる。
「皆さん、朝から巡察なのに」
「こんなに騒がしくちゃ、どっちにしろ寝てられないさ」
「あの人数を神谷にばかり任せてられないしな」
概算的に医務室には入りきらないだろうという先触れの判断に、庭先に筵を敷いていると、
火傷を負った隊士達が戸板に乗せられて次々と運び込まれてくる。
運び手である隊士も皆、無傷な者は皆無だった。
医務室では小者たちが晒や古布を積み上げ、屯所内から集めてきた灯りを並べて準備を進めていく。
患部を診る為に煤を取り除いて傷口を洗い清めるように頼むと、セイは薬棚を開けて、
塗り薬の調合を始める。
「布が火傷に貼りついているかも知れません。着物は無理に脱がせないで、そっと!」
あいにくと松本は登城して不在だったが、半刻後には南部や馴染みの町医者も駕籠で駆けつけ、
適切な指示や処置をしてくれたので、太陽が昇る頃には、出動隊士全員がどうにか事なきを得た。
しばらくの間、毎日の往診を約束してくれた町医者から、
「量を誤ると毒になる薬もありますから、管理は神谷さんにお願いしたいのですが」
そう言われて薬を託り、細かな注意を受けたセイはしばらくの間、『特別任務』として
医務室に詰める事になった。
医務室預かりの重傷者は数少なくても、対処が必要な人数がとにかく多い。
患部を確認し、問診表を作成しながらの膏薬の貼り換え。
痛みを訴える者へは頓服薬の調合。
傷口が膿んで高熱を出した隊士の看病。
軽症の者は巡察や稽古の合間を縫って、隊部屋から診察に通ってくる。
専任で手伝う小者がいても、細かい指示はすべて、隊内で唯一医学の知識があるセイが
行わなくてはならない。
「ここに来るのは診察の時間外ですし、急患がいなければ暢気なものですから、
どうぞお気遣いなく」
松本とも懇意で、新選組の理解者である若い町医者は、気さくにそう言って
患者の着替えの手伝いまでしてくれる。
だが、開業医として町の人々から頼りにされている蘭方医の手をそうそう煩わせる訳にもゆかず、
勢いセイは忙しくなる。
ちょうど件の捕り物で逃がした浪士が見つかった事もあり、今度こそは一網打尽にするべく、
屯所内も何かと騒がしく忙しない日々が続いていた。
てんやわんやで数日が経ち、軽傷だった隊士が続々と完治していく一方で。
過信から診察を怠った為に悪化したり、連日のようにある捕り物でしくじり、
新たに医務室送りになる隊士も現れる。
期間限定で医務室の責任者となっているセイは、医学書を読んだり町医者に教えを請いながら、
途切れる事のない傷病人へ手厚い看護を施していく。
さすがに患者の着替えや掃除洗濯、食事の世話などは小者に任せていたが、
それでも雑多な用事はいくらでもあった。
足りなくなった薬を検めて、信用の置ける薬種問屋で調達し。
煙でやられた喉の火傷がいまだに痛み、食が細いままの隊士の為に、
滋養のある特別食を自ら作る事もある。
生来の世話焼きも相まって休む間もなく看護に勤しむセイに、業を煮やしたのは
当然ながら総司だった。
セイが看護役に抜擢されるのは、適材適所だし喜ばしいとも思う。
だが、さすがにセイ独りだけに頼り過ぎだと直訴した総司に、
「おまえはあいつを甘やかし過ぎだ」
隊で一番忙しい男は、怜悧な顔を不快そうに歪めた。
「それに忙しいのは神谷ばかりじゃねえぞ。そんな事を考えてる余裕はないだろう、
一番隊組長さんよ?」
それでも総司は黙って引き下がる訳にはいかない。
何しろ同じ屯所内にいながら、下手をすれば丸一日、小さくても目立つセイの姿を
まったく見る事がないのだ。
夜だって総司の右隣には、畳の見える空間がぽっかりと空いたままの日が続く。
一度など、深夜に帰営して急ぎの報告ついでに医務室を覗いたら、
セイは文机に突っ伏して眠っていた。
ちょうど昼の捕り物で、逃走者が倒した木材などで負傷した隊士が新たに出ていて、
医務室内は満室状態だった。
―――――これでは、この人が隊部屋に戻る訳もない。
風呂の見張りを頼まれる事もなく、総司自身も余計に割り振られた己の仕事に追われ、
セイの無理を窘める暇もない。
いつも傍にいたからこそ、その不在は総司を落ち着かなくさせる。
セイの責任感の強さは知っているが、いくらなんでも行き過ぎだろう。
「隊士の管理も土方さんの仕事の一つでしょう? あの人の性格を知っているなら、
許容量をとっくに超えているのも分かっている筈です!」
再度食い下がる総司に、土方はただ、ふん、と鼻を鳴らす。
「そんなに神谷の行動ばかり目に付いて仕方ないのは、おまえがあいつを観察しているからだ。
他の組下を引き連れて少し遠出しろ。要人警護の要請が来てる」
平然と言い放つと、鬼副長は新たな任務を弟分に課した。
「土方さん!」
「情勢を弁えろ、沖田。俺らの想像以上に薩長は狡猾に動いてやがる」
副長として命令を出されれば、総司も従うしかない。
与えられた仕事をこなしながらも総司の不満は日に日に募り、無意識に不機嫌になっていく組長に、
一番隊の隊士もそろそろ身の危険を感じ始めていた。
そんなある日。
総司は少しだけ時間が空いたのを幸いと、近藤から貰った極上の干菓子を口実にセイの姿を探した。
―――――だって、神谷さんが淹れてくれるお茶が飲みたいんです。
セイが一緒じゃないと、せっかくの干菓子も美味しくないのだ。
そろそろ傷病人も落ち着いた頃だし、少しくらい席を外す余裕もあるだろう。
それにセイにも、持ち場を離れて休養する時間は必要なはずだ。
そんな言い訳を自分にしながら医務室を目指す総司は、無自覚のまま少しだけ
心を浮き立たせていた。
角を曲がった時、ちょうど幹部棟の廊下を歩く愛弟子の後ろ姿を見つけ、
「かみ……」
その名を呼びかけた総司は、だが、その足取りが何処か覚束ないのを見て顔を強張らせると、
足音荒くセイに近づく。
その音にようやく気づいて振り返ったセイは、上司の姿を認めると顔を綻ばせた。
「沖田先生」
目の下に隈を作ってもなお、笑顔を向けるセイの腕を掴んだ総司は、
「貴女が倒れたら本末転倒でしょう! 少しは寝みなさい!」
容赦なく怒鳴りつけると、その小さな身体を引き摺るように攫っていく。
「あのっ、せんせいっ!?」
戸惑う声に構わず隊部屋まで連行すると、総司は何事かと驚く隊士に、押入れの一番下にある
セイの布団を引っ張り出すように指示をする。
「貴女も袴くらいは脱いでいらっしゃい」
「でも沖田先生」
仕事が、と言いかけたセイを、総司は射抜くような視線で黙らせた。
「神谷さん。これは直属上司としての『命令』です。とにかく今は何も考えないで、ただ眠りなさい」
昼間なのも構わず強引に布団に押し込むと、すぐ傍に端座して憮然と見張っている総司に、
セイは苦笑いをして見せた。
横になっただけで、泥のような疲れを自覚してしまう。
思えば隊部屋に戻るのでさえ、何日ぶりだろう。
「……申し訳ありま…せ…ん…」
そう呟いたきり、極限まで疲れていたセイは、あっさりと眠りに落ちた。
ちょうど体力の限界だったのかも知れない。
それを見届けて静かに立ち上がった総司は、そのまま副長部屋へ足を向ける。
「土方副長っ!」
直後、怒りに燃える一番隊組長の再度の談判で、もはや呆れ顔の副長により、
セイは医務室詰めの任から解かれた。
もっとも、発端である火傷の負傷者がそろそろ床を上げられるまで回復した事も考慮して、
土方も頃合いかと考えてはいたらしい。
誰でも看病が出来る傷病人だけならば、精鋭隊士であるセイでなくても小者を宛がえば
いいというのは、土方流の合理的な考え方だ。
そしてもう一つ。
土方がここ最近の総司を観察していて思った事。
―――――やはり神谷を傍に置いておかないと、総司の言動が何処かおかしい。
今まで何に対しても淡々としていた総司が、組織の範に逆らってまで、
神谷清三郎に執着しているのは明らかだ。
どんなに口では否定していても、総司の心の中で、もはや神谷の存在はどうしたって特別なのだろう。
あの小さな隊士と二人で過ごす時の総司の笑顔は、心なしかいつもとは異なって、
安らいでいるようにさえ見えるのだ。
その表情は、まるで幼子の母への思慕にも似ていて。
二人を引き離すのは、いっそ酷にも思えてくる。
弟分が衆道に走るのは断固として許せないが。
精神安定の特効薬だと思えば、神谷一人を宛がうくらい、安いものか―――――。
そんな複雑な兄心と人心掌握術も、密かな理由となっていた。
事実、ようやく一番隊に復帰したセイのおかげで、総司の荒稽古もなくなって、
一番隊の隊士にも平穏が訪れた。
そうして、半月以上に及んだセイの『特別任務』は終わったのだ。
「心配させた罰ですから、文句を言わずにつきあってください」
晴れて一番隊に復帰した翌日の午後。
そんな台詞で甘味処に連れ出されたセイは、目の前で次々とぜんざいの椀を
積み上げていく総司に、胸焼けを覚える事となる。
「あの……沖田先生、そろそろ………」
控えめに終了を希ったセイに、総司は邪気なく笑った。
「だって、神谷さんが一緒だと美味しくて」
貴女がいない間は必然的に甘味断ちさせられちゃいましたよ、と口を尖らせる総司に、
セイは喜ぶべき事なのか、しばらく悩まされた。
**********
セイが通常隊務に戻って数日、薩長対策でいつでも出動出来るよう待機命令下ではあるが、
新選組は束の間の平穏にあった。
長い医務室詰めで鈍っていたセイの身体も、日常の中で徐々に戻りつつある。
余暇は総司と一緒に洗濯をしたり。
買い物ついでに壬生寺まで足を延ばして、樹上から短い夕暮れを眺めてみたり。
他愛ない話をしながら、陽だまりに並んで刀の手入れもする。
厳しい稽古も危険な夜の巡察も、総司の傍にいられるのが嬉しい。
一番隊に在る喜びを改めて噛み締めていたセイは、その日、朝餉のすぐ後で局長室に呼ばれ、
いきなり近藤から拝まれた。
「実は神谷くんに、孝から何か頼み事があるらしいんだ。
今日一日、トシには内緒でお願い出来ないだろうか」
私の文使いで出た事にするからと請われては、セイは頷くしかない。
何事かと赴いた妾宅で、セイは笑顔で待ち受けていたお孝に頭を下げられ、
「わざわざご足労いただいて申し訳ありません。でも神谷様の他に、こんな事を
お願い出来るお方を孝は知らなくて」
思いがけず、栗の甘露煮の作り方を教えてくれるよう、せがまれた。
訊けばなんでも、過日の栗の甘露煮を近藤がえらく褒めるものだから、
自分でも作りたいと思い立ち、その師匠としてセイが選ばれたらしい。
彼女が姉の深雪から縁を切られたばかりの頃、同じ天涯孤独の身だと思うと、ついセイも
必要以上に親身になってしまい、もともと『綺麗な殿方』にほのかな好意を寄せていたお孝は、
すっかりセイを信頼してしまっていた。
もっとも、自ら望んで近藤の妾となった今、その好意が行き過ぎる心配はない。
ただ美しいものを愛でたいというのは、老若男女共通の願望なのかも知れなかった。
「食事はすべて新選組の炊き出しのお世話になっているんですもの。
甘味くらいは孝が旦那様に拵えて差し上げたいんです」
姉の深雪は跡取り娘である為、良妻賢母を目指すべく、厳しかった母親に
徹底的に家事教育を受けていたが、お孝にまでその手は及ばなかったらしい。
娘に甘かった父親が、嫁入り相手が決まってから覚えればいい、と言ってくれたのを幸いと、
暢気にしているうちに両親を喪い、遊里に入ってしまったという。
確かにこんな私的な『任務』を土方に知られれば、お孝が怒鳴られるかも知れない。
或いは近藤の岡惚れっぷりに、いっそ呆れるだけだろうか。
それでもお孝のいじらしい女心は、セイにも共感出来た。
「では、微力ながらお手伝い致します」
袂から襷を出して腕まくりで厨に立ったセイの笑顔に、
「よろしくお願いします」
お孝もまた、弟子よろしく頭を下げた。
近藤の話に花を咲かせながら、一日かけて二人は甘露煮と栗きんとんを拵え、総司の為に
密かに甘味作りの腕を磨いているセイとしても、満足のいく出来になった。
『絶対に旦那様も喜んでくださいますわ』
完成した甘露煮を大事に押し戴いた孝の言葉通り、翌日の近藤は満面の笑顔で
セイをねぎらってくれた。
嬉しさを隠さない近藤に、お孝との夫婦仲の好さが窺える。
「私でお役に立てる事でしたら、いつでもお申し付けください」
そう言って笑んだセイに、近藤もえくぼを見せた。
「神谷くんからそう言って貰えるとありがたい。実は他にも作りたいものがあるらしくてね。
またお願いしたいと思っていたんだよ」
「はいっ?」
「いやあ、孝も喜ぶよ。さっそく日にちを決めないとな」
自分から言い出した以上、後に引けないセイは頷くしかない。
「神谷くん、三日後はどうかな」
「忙しいところを済まないが、明日も頼むよ」
だが、それが立て続けに四度にも及ぶと、いつまでこの『文使い』が続くのかと、
セイも困惑せざるを得ない。
隊務多忙を理由に今度こそは断ろうと思っても、苦労人である近藤の幸せそうな顔を見ると、
ついセイも切り出せず、妾宅訪問が繰り返されていく。
下拵えが必要な場合もあるが、甘味そのものを作るには半日もあれば充分なので、
セイは近藤から要請がある度、昼餉を済ませてから『文使い』の為に足を運んだ。
その日、贋の届け物である文を預かりに局長室へ顔を出したセイへ、
近頃はさすがに不味いと思い始めた近藤も、苦笑いをして見せる。
「いつも悪いね、神谷くん。京の都には他に知り合いもいなくて、
君と話すのを孝は殊の外楽しみにしているらしいんだ」
今やお孝の目的は、甘味作りというよりも、近藤の過去の話をねだる事にあった。
局長の幸せは総司の幸せでもある、という持論の元、セイは自分が知る限りの
近藤の武勇伝や思い出を語り、お孝を喜ばせているのだが。
一つだけ、近藤にも訊けない疑問があった。
―――――私とお孝さんが二人きりで過ごす時間がこれだけ増えているのに、
局長は浮気を疑ったり、悋気したりしないのかな?
セイを相手では万が一にも有り得ない想定ではあるが。
普通の夫ならば、妾の退屈を凌がせる事よりも、己の留守に他の男を
家に招き入れる事自体を、危惧して当然だとも思う。
お孝を信じているのか、それとも自分を信じてくれているのか。
そんな事を考えながら門衛と挨拶を交わしたセイは、
「待ってください、神谷さん!」
橋を渡った所で、思いがけず背後から総司に呼び止められた。
「沖田先生。どうされました?」
「私もその『使い』に同行する事になりました」
笑顔で隣に立った総司とは反対に、セイは不審そうに眉を寄せる。
「ただの文使いですよ。何故、沖田先生まで……?」
「え〜とですね。神谷さんとお孝さんが不義をしないよう、監視役を任ぜられまして」
土方の命なのだと、総司はあっさり言いのけた。
「そんな事ある訳ないのにねぇ」
からからと笑う総司と歩きながら、セイも土方の危惧に笑ってしまう。
あのお孝と向き合ったら、浮気の可能性なんて欠片も浮かばない筈なのに、と。
「毎回の成果をそのお腹に収めておられる沖田先生なら、お分かりだと思いますが。
心配する必要なんてまったくない事、きちんと副長に報告してくださいね」
お孝と一緒に作った甘味は、いつも少しだけ分けて貰い、夕餉の後に総司と二人で食べていたのだ。
その為、一番隊組長は副長よりも早くから『文使い』の真相を知っていた。
きっと特命を受けたのも、つまみ喰いが目的なのだろう。
「ふふ。神谷さんが作るものは何でも美味しいですから、楽しみですねぇ」
優しい笑顔と共にぽんぽんと月代を撫でられて、セイは思わず頬を染めた。
総司のたった一言で、本当は乗り気ではない『文使い』も、嬉しく思えてしまう。
我ながら現金な乙女心だと思いつつ、セイはいつものように局長妾宅の門戸を叩いた。
「あの。神谷様?」
胡桃蜜入りの団子を作るべく、すり鉢で胡桃を細かく砕いていると、
ふと思い出したようにお孝が口を開いた。
「神谷様はお裁縫も得意なのですってね」
手は休めないまま、お孝はまっすぐにセイを見つめる。
「とんでもない。必要最低限の事が出来る程度です」
動かないよう鉢を押さえながら、セイは何を言われるのかと身構えてしまう。
お孝の無邪気なその目で見つめられると、なんとなく『お願い事』に逆らえない自分に
気づいたのは、何度目の訪問時だったか。
とにかく、嫌な予感がした。
「まあ、ご謙遜を。羽二重の袖の繕い目なんて、旦那様が教えてくださるまで気づかなくて、
孝は感嘆しましたわ」
「はは……。隊が小規模だった昔は一番下っ端でしたから、剣の腕がない分お役に立ちたくて、
必然的に覚えたまでです」
「それに神谷様は、お召し物はすべてご自分で仕立てておられるとも伺いました」
「隊務で着物を汚してしまう事が多いので、切り詰める必要がありまして」
それまでの局長談話とは違う二人の会話を聞きつけ、他にする事もなく
座敷で刀の手入れをしていた総司も、さりげなく戸の陰で聞き耳を立てる。
「実は先日、行李を整理しておりましたら、旦那様の丹前の綿がもう薄くて。
ですから冬になる前に、新しい丹前を作って差し上げたいんです。
………本来ならば衣類を調えるのは、江戸の奥様のお務めなのでしょうけれど」
でも、と俯いたお孝はすりこぎを持つ手を止めた。
「京にいる間、旦那様のお世話が出来るのは孝だけですもの。お願いします、神谷様。
丹前の作り方を教えてくださいませんか」
縋るような目でお孝に見つめられ、
「……でっ、でも! 仕立てでしたら、私なんかより上手な方に……。ねぇ沖田先生?」
困ったセイは思わず総司に助けを求めてしまう。
今までの甘味作りだけでも違和感は否めないが、裁縫までとなると、
完全に花嫁教育の域ではないか。
それを『武士』である自分が女子のお孝に教えているのは、どう考えてもおかしい。
土方が疑いたくなるのも当然、いや必然だ。
このまま自分が『文使い』を続けるより、いっそ近藤に相談して、これから先は
お里にでも頼んだ方がいいかも知れない。
そう考えていたセイだったが。
「あぁ、だったら神谷さん。私の分も近藤先生とお揃いで作ってくださいよ」
思いがけない返答に、思わずセイは己の上司を睨みつける。
「本気ですかっ? 沖田先生っっ」
眦を吊り上げて問うセイに、総司は脳天気な笑顔で応じた。
「いいじゃないですか。目の前で神谷さんが作ってくれればお孝さんも覚えやすいし。
近藤先生も喜んでくださるし、私も嬉しいから一石三鳥です」
「副長になんて言うつもりですかっ」
小声で一番の問題を突きつけると、彼の人の弟分はにっこり笑った。
「大丈夫。土方さんなら、近藤先生の鶴の一声で問題なしですよ」
「―――――っ」
孝の目の前でそう言われてしまっては、もはやセイに断る術はない。
「嬉しい! では今度、生地を選びに参りましょう?」
はしゃぐ孝の笑顔に請われるまま、結局セイは次の約束をさせられてしまったのだ。
「お孝さんの望みは局長の為でもありますし、力になってあげたい気持ちも、
確かにあるんですけど……」
早くなった夕暮れの中、妾宅から帰る道すがら、セイは両手で頭を抱えていた。
「でも、このまま『文使い』が続くのは困ります……」
「これは局長公認の歴とした隊務ですよ。何が困るんですか?」
蜜入り団子の入った風呂敷を手にした総司は、不思議顔でセイを見下ろす。
「今はとにかく時間が足りなくて。巡察に参加出来ないとか、洗濯物が片付かないとか、
皆の布団を干したいとか、挙げればいろいろありますが……。一番の悩みは稽古の時間が
減っている事です。医務室詰めの間だって、竹刀もろくに持てなくて」
ただでさえ皆より劣っているのに、と意気消沈するセイに、
「分かりました。今度の非番は貴女につきあいましょう。
久しぶりに朱雀野で神谷流の練習でもしますか?」
総司は優しい笑みを浮かべて提案する。
「本当ですか?」
「ええ。神谷さんが、うんと美味しいお弁当を作ってくれるなら」
おどけるように応じた総司に、セイは目を輝かせた。
「ありがとうございます、沖田先生!」
本当に嬉しそうに顔を綻ばせたセイは、足を止めて総司へ向き直ると、よろしくお願いします、
と深く頭を下げる。
「どさくさに紛れて私の綿入れもお願いしちゃいましたからね。出来る事は協力しますから、
神谷さんももうしばらく、お孝さんの力になってあげてください」
セイの肩を軽く叩いて帰営を促すと、二人はまた並んで歩き出す。
「はい。お孝さんは喜怒哀楽が豊かで可愛いですよね」
「そうですねぇ。近藤先生がいつも早々に休息所に帰りたがる気持ちも、
彼女を見てるとなんだか分かる気がしますよ」
そう応じた総司に、セイは斜め下から上司の顔を覗き込む。
「おや。沖田先生も休息所を持ちたくなりましたか?」
その上目遣いにどきりとして目を中空へ逸らしながら、総司は無意識に頬を掻く。
「う〜ん? ………女子はやっぱり苦手ですからね。
神谷さんと甘味を食べ歩く方がよっぽど楽しいです」
「またそんな戯れ言を」
照れ隠しに頬を膨らませるセイの月代を撫でながら、総司はこっそりと胸で呟く。
―――――貴女がその家で待っていてくれると言うなら、考えてもいいですけどね。
何も考えないように努力してみても、自覚してしまったセイへの恋情は、
気づけば日に日に募るばかりだ。
大和の国のあの夜を。
すべて忘れるようにセイに言ったのは、自分なのに。
総司はあの時抱いた、想像以上に細かったセイの肢体を、今も鮮明に思い出す。
甘くしなやかな女子の身体は、男の本能を呼び起こし、強固だと自負していた総司の理性を狂わせた。
縋りつく腕も絡みつく脚も愛しくて。
熱い吐息と共に甘く名前を呼ばれるのが、心地よくて。
初めての身体に無理を強いていると思いながら、本能のままセイを貪り続けた。
いつも隣に在ればそれでいいと偽りながら、心の奥底ではずっと欲しくて仕方のなかった唯一の相手。
凍てついていた心に、真の恋情を教えてくれた女子。
一夜限りだと思えばこそ、離しがたくて。
セイが気を失うまで、何度その身を穿ったのか分からない。
もはや神の呪いも媚薬の効果も関係なく。
ただセイの心と身体に、己を刻み込みたかった。
己のすべてで知った、セイの華奢な身体。
それは総司に、女子であるセイが新選組で戦う事の限界を思い知らせた。
どんなに鍛錬しても、男とは骨格そのものの構造が違う。
これ以上セイに無理をさせたくない。
だからこそ、セイの医務室詰めに当初は反対しなかった。
本来ならば上司として、隊務外だと断るべき丹前の一件も、お孝の元に通う事で、
少しでもセイを戦線から離脱させられたならと思えばこそ。
何故ならば、お孝と二人で厨に立つセイの横顔は、思っていたよりも優しい女子の顔をしていて、
総司の胸を甘く締めつけたから。
―――――彼女を手放す事なんて、おおよそ出来そうにない。
『新選組とは無関係の、何処か血腥くないところへ嫁いで、幸せにおなりなさい』
口癖のように唱えていた綺麗事を、今はもう言えなくなっている。
セイのいない生活なんて、もはや考えられない。
本音を言えば、どんな形でもいい。
ずっとセイに傍にいて欲しい。
彼女の存在が勇気をくれるからこそ。
自分はどんな任務も遂行出来る力を得られるのだと、今の総司は知っていた。
「甘味処を食べ歩くのもいいですが。久々に神谷さんの手作りのぼたちもが食べたいなぁって
思うんですけど?」
本人には言えない言葉の代わりにそう告げると、
「先生。さっき私達が作った芋しるこを三杯も召し上がりませんでした?」
セイは呆れたように口を尖らせて、目で総司を叱った。
*****
次の局長妾宅訪問は、土方からも認められた『護衛隊務』となった。
ひとつは総司の報告で、お孝への疑いが晴れた事。
そして、たかが『局長の妾』の我侭に、親衛隊である一番隊組長まで
つき合わせていられないという理由だ。
だが、数多の薩長藩士が京に潜入し、反幕派の動きが活発な今、
万が一にもお孝に何かあっては困る、と土方は告げた。
「せいぜい近藤さんの為に励んで来い」
そう言って顰め面で送り出されたセイは、鬼副長の照れに気づいて笑みを零す。
その日はかねてから約束していた生地選びの予定で、お孝の意気込みを見る限りは、
かなり時間がかかると推測された。
敬愛する近藤とお揃いならば、どんな柄だろうと総司も文句はあるまい。
「では、さっそく出かけましょうか」
「はい」
お孝が框から立ち上がって背を向けた瞬間、セイはぎくりとした。
ちょうど臀部の辺りに、小さな血の染みが出来ている。
「お孝さん。あの、着物の後ろに………」
はっきりとは言えずに視線を逸らすセイに、自分でそれを確認した孝は、
「えっ、嫌っっ」
そう叫びながら、慌てて部屋に駆け込んだ。
「………申し訳ありません、神谷様。今日は………」
障子の向こうから片目だけ覗かせた孝が言い淀むのに、
「ええ。私はこれでお暇します」
どうぞ気にしないでくださいね、とセイは首を振って微笑う。
毎月の『女子の事情』の大変さは、自分で身に沁みて知っている。
見送りを断って妾宅を出ると、角を曲がったところでセイは溜め息をついた。
「今から屯所に戻ったら、当然理由を問われるよね……」
ずばりお馬だとは言いづらいし、局長になんと報告すればいいのか。
体調不良などと言ったら、余計な心配をさせてしまうだろう。
でも月役の周期は、夫婦なら知っていて当然だろうから………。
そこまで考えたセイは、ふと、ある事に気づく。
瞬時に身体中から血の気が失せた。
「……私………」
最後にお馬が来たのって、いつだったっけ―――――?
2へ続く