会津漫遊妄想全開ツアー報告
2日目
海辻は5時前に起きてしまいました・・・。
前夜寝たのは12時半頃。その前の晩は寝てなかったし、もっと睡眠が必要だろうと
再び寝ようとしても眠れず。
皆様とても安らかにくーくー寝てるし。
起床は7時って決めてあったし。
困った。暇だ。う〜〜〜ん。
暫し悩んだ挙句、ゴソゴソと着替えて・・・脱走(爆)
本当は体力自慢の奈鳩さんを起こしちゃおうかなぁ、とも思ったのですが
せっかく安眠しているのにねぇ。
(可愛いんですよ、寝顔が♪)
で、明け方のまだ眠っている町を車で走り夜明けの会津を満喫しつつ、
スケジュール的にキツイという事で予定から外れていた如来堂(斎藤以下
新選組激戦の地)へ向かいました。
会津若松の西の外れ。広〜い畑の中の農道のような一本道の中にあります。
周囲はこんもりと鎮守の森のような木立ちに囲まれたとても静かな場所で
小さなお社とお地蔵様、慰霊碑のようなものがありました。
土の匂いと緑の香り、遠くで鳴く鳥の声、少しずつ強くなる陽の光。
純朴な昔日の会津の気配を感じ。
お線香を持ってこなかった事を後悔しつつ静かに手を合わせました。
再び車に乗り込み、宿に戻る途中にある阿弥陀寺へ。
駅前にあるので日中は車を停めるのが難しそうだなぁ、と思いながら
境内に足を踏み入れ本堂にお参り。
そして目的の場所へ。
藤田五郎氏のお墓があります。はい、斎藤兄上のです。
すぐにわかる場所だったのですが何だか感慨深くて、暫しぼんやりと佇んでしまいました。
新選組という最前線の戦場にずっと身を置いて、会津の落城を見て、北の地に行き、
後に新政府軍の一員として働き・・・何を思って逝ったのかなぁ、と。
彼の目には時代の潮流がどう見えていたのでしょうか。
永倉氏と違い何も語らずに逝った彼だからこそ、とても複雑な想いがあった気がします。
境内の一角に会津戦争で亡くなった会津藩士他、東軍武士を埋葬した場所があります。
15m四方・・・う〜ん20mぐらいだったでしょうか。
かなり広い範囲で石組みがあり、その上に柵があって中に入る事は出来ません。
柵の中には慰霊碑と思われるものが2つ立っており、ここには千三百柱の東軍武士が
眠っていると書かれていました。
会津藩が降伏したのが明治1年の9月22日。
その後官軍は一切の東軍武士の埋葬を許さず、触れる事さえ禁忌としたそうです。
度重なる会津市民の嘆願でようやくこの阿弥陀寺と長命寺の二か所に埋葬する許可を出したのが、
翌明治2年の2月26日。5ヶ月後です。
石組みの中全体が彼らの墓所だそうです。
路傍に放置されていた1300人の埋葬場所なのですから、ここは巨大なお墓です。
学生時代の歴史の授業で 「明治維新とは比較的穏やかに流血も少なく行われた
世界でも珍しい画期的な革命だった」 と学びました。
会津の事を知るまで私はそれを信じてました。
・・・・・・ふざけんじゃねぇぞ、間違った教育してんじゃねぇっ!!!!
胸の内で私が叫んだとて当然だと思われませんか?
会津・長岡・二本松。女子供や町民などの非戦闘員さえ血まみれで戦った歴史を
無かった事にして欲しくないです。
蛇足ですが、お城に近いお寺に西軍墓地といわれる場所があります。
会津戦争の時、戦死した西軍兵士を会津の人々が “戦時中に” 埋葬した場所です。
少しずつ町が動き出す気配に背を押され、阿弥陀寺を後にして宿に戻りました。
そろそろ皆起きてるかなぁ? と思いつつ、そ〜っと部屋に入ってみると
・・・まだ寝てるし(笑)
時刻は6時50分くらいです。
う〜〜〜ん、どうしようかなぁ。と思っていると奈鳩さんがゴソゴソと起床。
「おはようございます♪」とお互い爽やかに挨拶をして、海辻が脱走した話などを
ぼそぼそとしていると藤枝さん達も起床。
大部屋素泊まりの宿だったので、さくさく準備をして出発です。
朝食は近くのガストで朝の和定食。
皆食欲もりもりでした〜。朝から元気です(笑)
また一日酷暑の中を動き回るのですから、そうでなくてはいけません。
もちろんどこにいても常に萌え話も忘れません。う〜〜〜ん、幸せだ〜♪
さて本日最初の観光場所は会津藩の象徴、鶴ヶ城です。
駐車場に車を入れる途中に、日新館スイミングスクールという建物を見かけ、
藤枝さんが萌え全開でキャーキャー喜んでいたり、 「鶴ヶ城キターッ!!」 と
例の如くの合唱が繰り広げられたりと朝から賑やかな一団は炎天下、
お城へ向かって足を踏み出しました。
会津戦争の時に鶴ヶ城は官軍の大砲の格好の標的とされ、落城時は目を背けたくなるほどの
有様となっていました。写真でも残っているので会津藩の事を少しでも調べた事のある方なら
どこかで目にした事があると思います。
そのお城は明治7年に取り壊され、現在の物は昭和になって再建されたものです。
それでもその威容は息を呑むほどのものでした。
天守閣は入ってすぐの地下部分が塩蔵となっていて、大量の塩が貯蔵されていたそうです。
海の無い会津にとって、非常時のために塩を蓄えておく事はとても重要な事だったのだと思います。
その上、地上部分は六層になっており各階層事に会津を治めた各大名家の事や会津の産業の説明、
戊辰戦争に関しての資料、四季の行事の紹介などがわかりやすく展示してありました。
ここで私の目を惹いたのは会津の産業に関してです。
会津塗りと絵蝋燭は有名ですし、以前会津に来た時にも目にしていたのですが
会津焼きというものは知りませんでした。
1800年から作られだした磁器だそうですが、白磁に青い染付けがされた美麗なものでした。
あまり豊かではない東北の地で、少しでも藩の財政を潤そうと工芸品に力を入れた人々の
思いが伝わりました。
ちなみに、会津焼きというお煎餅もあるそうです。
これを書くためにネットで調べていたら見つけました。生醤油味で美味しいらしいですよ〜(笑)
もうひとつ面白い話として、展示品の中に江戸期の酒屋がありまして、壁に30cm四方ぐらいの
穴が開いているのです。当時の会津武士にとって酒を買いに行くなどいう事は
恥ずべき事であったそうで、それでも酒を購入したい武士のために
顔を見られずに買うことの出来る窓口としてあったそうです。
商魂逞しいと言えばいいのか、寒冷地故に酒を欲する武士が多かったからと思えばいいのか、
どちらにしても何だか可愛いシステムだなぁ、と笑ってしまいました。
五層目は窓が四角く切られ城下が見渡せるようになっており、六層目は四方に開いた出入り口から
建物をぐるりと取り巻くベランダ状になっている外部に出られました。
美亜さんは「高い所は苦手だ〜」とベンチに座り込んだまま動かず、代わりに奈鳩さんが
城下の写真を撮ってあげていましたよ。
確かに結構な高さだと思いますし、苦手な人にはつらかったかも。
私が覚えている限りでは、容保公はほとんど会津に戻っていなかったはずで、
もしかしたら落ち着いて天守閣から自分の治める会津城下を眺めたのは
会津戦争直前に国許に戻った時だったかもしれません。
国境で戦端が開かれてから城攻めまでの4ヶ月、この風景をどんな思いで見つめていたのかなぁ、
と考えてしまいました。
城攻めが始まってからは砲弾が飛んでくるために、きっと昇る事は出来なかったでしょうから、
彼の方が城下を眺めたのは本当に短い間だったと思います。
この後場内のお土産物屋さんをちらり(?)と見てお城を出ました。
駐車場に戻る途中で石垣に残る弾痕を見つけたり、結構な樹齢の大木は
きっと当時の凄惨な風景を見ていたのだろうと思いを馳せました。
奈鳩さんと石組みの見事さに感心したり、桜の木の多さに 「きっと春には桜が綺麗なんだろうねぇ」
と溜息をついたり。
桜の中の鶴ヶ城。見てみたいですね〜♪
これでお城とはお別れをして次の目的地へ向かう事になったのですが、
ここで本来予定に無かった阿弥陀寺を海辻が強力にプッシュしました。
そう、朝の抜け駆け観光で感動しまくったあのお寺です。
ど〜〜〜〜してもあそこを見てもらいたくて、無理矢理連れて行きました(笑)
ここでは寺内に駐車できないので、駅前だというのに路肩に車を停めるしかなく、
海辻は車で待機していたので他の方が何を思い何を話したかは知りません。
でも戻ってきた奈鳩さんが 「じーんときた」 と眼を潤ませていたので、
たぶん強引にでもお連れして正解だったのでしょう。・・・と思わせてください。
次の目的地は天寧寺。
近藤勇のお墓と言われる場所です。
相変わらず途中で迷子になりながらもどうにか到着し、細い山道をゼイゼイ言いながら
局長のお墓まで歩きました。
「京から首を運んできたっていう話だけど、本当だと思う?」
「いやいや、実際問題無理でしょう。官軍ひしめく中を、どうやったって不可能だと思うし」
「って事は、いいとこ遺髪が埋まってるってとこかな?」
「そうだと思うよ〜。何も無いって事は有り得ないだろうしね」
などと会話をしつつお墓の前へ。
新選組の働きや近藤の事を説明した案内板の奥に局長のお墓と副長の戒名の書かれた
供養碑が並んで立っていました。
供養碑は近年作られたものらしいですが、何だか「夫婦揃って、まぁ」とクスリ。
お線香を上げて手を合わせました。
今は木々が茂って見えませんが、かなりの高台にある近藤の墓所からは
当時会津の町やお城が綺麗に望めたと思います。
土方の願いを了承し容保公が許した近藤の墓所は、激動の京で共に戦い続けた
会津という国を見守るようにある気がしました。
そしてその近くには歴代松平家の廟所があるという事が、容保公から近藤の誠に対する
信頼のような気がします。
もうひとつ容保公や会津武士の近藤への心情を推測した理由に、
近藤の墓所に行くまでの途中で見た墓石達の名前がありました。
梶原や手代木他、会津藩の重役に名を連ねる名家と同じ苗字があちこちに見られました。
背後に歴代藩主の廟所がある事を考えれば必然的にこの寺が会津藩にとって、
どんな位置付けだったのかがわかるもので。
そんなわけで、近藤は彼らにとって盟友と思われていたんじゃないかな、
などと勝手な推測をしていたのです。
また今回は時間と体力の関係で行けませんでしたが、この寺には会津戦争の後、
会津藩の家老として唯一責任を取る形で切腹した萱野権兵衛の墓もあります。
ひいこら言いながら辿り着いたお墓から、またもやひぃこら言いながら車へ戻り、
次は会津松平家廟所です。
天寧寺とは隣接するような場所なのですが、一度道路に出てぐるりと回り
廟所入り口で車を停めて私は待機。
以前来た時にかなり上まで階段を登って行った事をしっかり記憶してまして、
とてもじゃないけれどこの酷暑の中、上までなど行っていられないと早々にリタイア宣言です。
藤枝さんと美亜さんは途中まで行って来ると言い、奈鳩さんは 「上まで行って
最奥部にある容保公の墓所にお参りしてくる!」 と意気揚々と出て行きました。
大丈夫かな、あの二人・・・と心配していると戻ってきた美亜さんがヨレヨレ。
「途中まで頑張ったけど、足が動かなくなった」 と半泣き。
・・・・・・だから無理はするなと言ったのに(苦笑)
藤枝さんは無理せずに入り口を少し入っただけで戻ってきていました。
少したって帰ってきた奈鳩さんは 「階段が苔むしていてちょっと怖かったけど、
そんなに大変でも無かったですよ」 と涼しいお顔。
・・・・・・化け物かい、貴女は(汗)
神式で祀られている歴代藩主の墓石は頭に屋根を戴いた形なのですが、
容保公だけ屋根がありません。
確か遺言で 「全てにおいて簡略にすべし」 と遺された為と記憶しています。
最北の斗南の地で旧藩士達が辛酸を舐めているというのに、自分が好き勝手に
贅沢は出来ないと幾度も言っていた方らしいです。
そろそろ昼もかなり過ぎた時間だったので、すぐそばにある会津武家屋敷の敷地内にある
食事処でお昼をいただく事にしました。
藤枝さんと美亜さんはわっぱ御膳。奈鳩さんと私は会津御膳・・・だったかな。
名前はうろ覚えですが、会津の伝統料理や食材を使ったものでした。
身欠ニシンの酢の物や棒ダラの煮付けや田楽焼き、天麩羅、じゅんさい、
色々ありましたが、海の無い会津の質素な食事が偲ばれました。
でも美味しかったです♪
ただ“じゅんさい”を見た他の方々が 「これは何?」 と首を捻っていたのが面白かったです。
「このヌメヌメはどうやってつけたのかな? 寒天?」 とか 「これってキノコ?」 とか・・・。
「このヌメリをつけたまま沼とか池に自生してるんだよ〜。植物なんだよ〜」
と説明すると 「へぇ〜〜〜」 と目をきょときょとしていたのが可愛かったです♪
みんなの先頭を切ってさくさくと食べ終えた海辻は一足先にお土産物コーナーへ行き、
頼まれ物の会津の地酒と数冊の資料となりそうな本を購入。
できれば地元の本屋に寄りたかったのですが今回は時間の関係で諦めてました。
それがこんな場所で思いの他掘り出し物の本に出会えてホクホク。
他の方も言ってましたけど地元の本屋って、その土地の郷土史の本などが
普通に置いてあるから嬉しいのですよね。
基本的に海辻が旅先で本屋に寄る習慣があるのは、それが理由です。
お腹が満足しましたし、これで会津若松とお別れして帰還の途につきました。
でも少〜し回り道をして母成峠の古戦場跡に寄り道です。
相変わらずドライバーの私とナビの藤枝さんはちょっとスットコで、一本道のはずが
古戦場跡という表示を見落とし、かなりの距離を行き過ぎるという偉業を成しましたが・・・
後部座席で爆酔してらした他のお2人は全く気づいてらっしゃいませんでした(笑)
山の中を走っている母成グリーンラインの途中にある広い駐車場に車を停めると、
その敷地内に巨大な供養碑が立っていました。
東軍西軍の司令官達の名と犠牲者数が刻まれたそれの中に、確かに土方歳三の名もあり、
強い風が吹く中で皆が黙って碑を見上げていました。
それまで会津に行ってからずっと強い陽射しが照り付けていたのに、この時だけ何故か黒い雲が
空を覆っていて山の上だからか少しヒヤリとした風が吹いていたのが記憶に強く残ってます。
この峠を落とされたら会津まで遮るものも無くなってしまう。
そんな瀬戸際の中で戦っていた東軍の戦士達は、こんな寂しい山の中で必死に戦ったのでしょう。
その駐車場の外れに背高く茂った雑草に隠れるようにポツリと上に伸びた石段があって
「もしかしたら、あの上が本当の峠で古戦場だったのかもしれないよ〜」 と海辻が言い出し、
皆でああだこうだと推測を並べましたが、美亜さんが石段の下からコソリと見上げて偵察したところ、
「よくわからない」 という事で・・・気になったのは確かだったのですが、もはや誰もが疲れていて
「じゃ、石段を登って見て来る」 と言い出す人も無く、謎は謎のまま。
これでただの管理事務所だったら笑えるね〜と言いつつ、母成峠を後にしました。
この後は疲労もピークの海辻と交代した奈鳩さんがハンドルを握り、ひたすら東北道を
上り方向に走り続け、途中何度か休憩を取りながら浦和で藤枝さんと美亜さんと
名残惜しかったですがお別れしました。
最後まで藤枝さんが 「寂しいなぁ。寂しいよぉ」 と言ってらして、
「じゃ、このまま藤枝さんは私がお持ち帰り、という事で」 と言った私に
美亜さんが 「わかった。あげる」 と笑ってました。
本当に貰って逃走しようかと・・・(笑)
帰りの車の中でもとても楽しい会話が繰り広げられていましたよ。
「風キャラを犬に例えると」 「局長はゴールデンレトリバー」 「うんうん」
「総司はシベリアンハスキー」 「なんで?」 「ソリを与えられるととんでもない地力を発揮するけど、
普段の散歩なんかだとドブに落ちたりするマヌケさが・・・」 「(爆笑)」
「んでセイちゃんはミニチュアダックス。元は猟犬だからね〜、稽古をサボる総司を狩り出すの。
小さいけど賢いんだよ〜」 「(大爆笑)」
その他にも美亜さんと藤枝さん他の方々が作っている風ゲームの体験版をさせていただいたり。
すごいんですよ〜、是非にやってみて欲しいです。
才能っていうのは、こういう事を言うんだ、と改めて実感しました。
2人になってから奈鳩さんとしみじみ話していたのですが、普段これだけ延々と
遠慮無しに萌え話をできる事ってありえない事で、そういう意味で今回の旅は
とてつもなく貴重な時間だったのだと思います。
どんな話であっても前説明が不要というのが何よりすごい事です。
そして旅の間中、 「おぉっ、ネタを思いついたっ!」 「うっ、ネタを拾った!」
「ふふ〜ん、下調べできた〜!」 などなど、誰もが常に自分の作品をどこかで意識して
アンテナを張り巡らせていました。
楽しいな〜、オタクっていいな〜、素敵な人ばかりだな〜、とずっと私はワクワクしっ放しでしたよ。
本当に本当に楽しい時間でした。
お疲れだったでしょうに、ずっとナビをしてくださった藤枝さん。
海辻を気遣って運転を変わってくださった奈鳩さん。
皆が退屈しないように常に楽しい話題を提供し続けてくださった美亜さん。
本当にありがとうございました。心から感謝いたします。
また是非遊んでくださいませ。
そして、ダラダラと長〜い報告書をここまで読んでくださった方々、お疲れ様でした。
こんな素敵な旅が再び出来るかはわかりませんが、今回はご一緒出来なかった方々と、
いつか旅が出来たら嬉しいと思います。
以上で、会津漫遊妄想全開ツアー報告書を終了させていただきます。
2007.08.21. 海辻那由
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