四つ彩語り
三
近藤の話の途中でセイは身体を震わせ始めた。
もとから色白な顔色は蒼白となり、血の気を失っていく。
瞳から光が消えてゆき、どこかうつろに開かれたままで。
セイの異変に最初に気づいたのは総司だった。
「神谷さん?」
小さく声をかけても返事はかえらない。
セイに視線を向けた近藤も振り返った土方もその異常さに目を見開いた。
「神谷さん!」
総司が再び呼びかけながら腰を浮かしかける。
その時、色の無い唇を噛み締めていたセイが小さな声を落とす。
「蘭医は・・・斬る・・・」
同時に零れだした涙が男達の目に赤く映ったのは錯覚なのだろうか。
沈黙というものに重量があるとしたなら、その瞬間に室内の人間は形も残らぬ程に
押し潰されていた事だろう。
ハッと近藤が口元を押さえても、すでに遅い。
最も近くにいた土方が、小さく舌打ちしながらセイに手を伸ばそうとした。
それより一瞬早くセイが部屋を飛び出して行く。
「神谷さんっ!!」
悲鳴に近い総司の声も、今のセイには届きはしない。
「「総司っ!!」」
兄分達が背を押す声より早く、総司はセイの後を追って走り出していた。
走る、走る、走る。
屯所の門を走りぬけ、無意識のままに駆け続ける。
途中で誰かに声をかけられた気もしたが、すぐにどうでも良くなった。
息の続く限りこのまま走って、少しでもあの場所から離れたい。
今は刀を持つ者達からできる限り遠ざかりたかった。
ずるり。
涙で曇った視界には道の様子も見えてはおらず、段差に足を取られたセイは
そのまま小さな傾斜を滑り落ち、盛大に小川へと突っ込んだ。
ばしゃん、と大きな音と共に全身を水に濡らす。
荒い呼吸は静まる様子も無かったが、深紅の闇は着物に染みる水の冷たさに
徐々に薄れていき、あれほど耳内で響き渡っていた鼓動の音も小さくなっていく。
はぁ。
苦しい呼吸の合間に胸に残っていた闇を吐き出した。
怒りに己が心を侵食されていた間は身体に何かしらの力が生み出されていた気がするが、
それは一過性の麻薬のような物で、醒めてしまえば残るのは空虚なだけの心でしかない。
力なく足を投げ出し胸まで小川に浸かったままのセイが両手で顔を覆う。
わかっていたはずだ。
武士である以上、何より大切なのは己が誠。
それを貫き通すためであれば、何者をも斬り伏す覚悟がいるのだ、と。
例え相手が丸腰のものであろうと。
父と同じ蘭医であろうと。
敵と見なし、誠の障りと判断したのなら一切の容赦は不要なのだ。
けれど・・・朱く染まる父が兄が、その姿が、それを許すなと己を苛む。
近藤の暴挙を認めるなと己に訴える。
生涯をかけて共に在ると決めた男の、誰よりも敬愛するたった一人の主君が
自分にとってどうにも許せぬ相手となるなどと、思った事も無い事だった。
つうっ、とセイの白磁の頬に涙が伝う。
過去の全てがあやふやとなり、自分が何を信じているのかも曖昧になる。
父も兄も愛しい男も霧の彼方に遠ざかる。
ただ、悲しい。
怒りが消滅した心の虚ろに哀しみが滑り込む。
乳白色の霧の中に、たったひとりで佇むような孤独がセイの身を取り巻く。
ぽつりと落ちた一粒の涙が白き霧にじわじわと青みを加え。
それはまるで青磁の如く。
微かに青みを帯びたかの器は、とろりと柔らかな風合いを見せていながらも
それはどこまでも冷たい。
顔を覆っていた手が力なく外れ、そのまま体が水に沈みこむ。
浅い小川の底から見上げた空はゆらゆらと白っぽい水の色をしていた。
深い海の蒼でも無く、鮮やかな夏空の青でも無い。
哀しみに相応しい色はこんな色なのだろう。