瀬をはやみ
三
夜明けと共に大阪を出て伏見へと向かう三十石舟の中は重い沈黙が支配していた。
戦の最中、激戦の直後の地へと向かうのだ。
乗り合わせた者、誰もが視線を伏せこの後の事に思いを馳せているのかもしれない。
背から荷を降ろした行商人らしい男はおどおどと周囲を見回している。
どこかの大店の番頭だろうか。風呂敷を大切そうに抱えた男は俯いたままだ。
好んで薩長軍が厳戒態勢を敷いている地に行きたいものなどいるはずもない。
けれど人が生きている以上、日々の暮らしは営まれる。
大都市である京の町は外から入ってくる物資がなければ立ち行かない。
ならばこそ、武士が命を張って己が矜持を守るように、商いをするものは
その務めを果たすしかない。
ふ、と小さな吐息を零したセイを辰吉が気遣わしげに見ている。
それに気づくと他に聞こえぬように声を潜めてセイが口を開いた。
「この先、恐らく幾度も薩長に手形を改められ、身元行く先を問われるでしょう。
全て会話は私がしますので、けして口を開かぬようにお願いします。
万が一あなたを指定して問われた時は、女子の一人旅では心もとないからと、
奉公先の主人に江戸まで送れと命じられた。それだけ言ってください」
辰吉は戦の様子など知らない。
薩長の人間がどれほど厳しく人改めをしているのかも想像がつかない。
けれど小さな綻びが即座に命に関わる事態を引き起こすだろう事は、
容易に理解できる。
何よりも船内の誰かが小さく身動ぎするだけで、瞬時にセイの身に走る緊張感が
この先の危難を表しているのだ。
危険に対して自分よりも数段敏感だろうセイの言葉に辰吉が否を唱える事などできない。
ただ小さく頷いた。
「そして・・・真実危険だと判断した時は、躊躇わず逃げてください」
その言葉に辰吉が弾かれたように顔を上げた。
セイは静かに微笑んでいる。
「あなたに預けているそれを」
ちらりと視線だけで指し示したのは、辰吉が布に包み大切に抱えている
大小二本の刀だった。
こんなものを持っていたならより危険度が増すと、幾度諌めてもセイは
持っていくと言い張った。
自分には考えがあるからと、止める辰吉を押し切ったものだ。
「それだけは必ずその場に残し、あなたは逃げてくださいね。いざという時には
私もあなたを守る余裕などありません。私の事は気にせずに、まずはご自分の
身を守る事を最優先にしてください」
セイの目は真摯に辰吉の無事を願っている。
確かにいざという時、自分に何もできない事は承知している。
何もできないどころか、恐らく足手まといにしかならないだろう。
けれど女子姿のセイとて、どれだけの事ができると言うのだろうか。
辰吉は黙って視線を逸らした。
危難の中にセイを置き去りにする事など、了承できるはずもないではないか。
「辰吉さん」
セイの静かな声が呼ぶ。
「山城屋さんのような事は、二度と嫌なんですよ。誰かを巻き込みたくないんです」
その声音の中に今でも残る痛みを感じて辰吉はセイへ視線を戻した。
「お願いします」
短い言葉に逆らう事の出来ない乞いがある。
「ああ・・・」
辰吉は諾の返事以外返すことができなかった。
「おい、待て!」
伏見よりかなり前で船から降ろされた客達がぽつりぽつりと京を目指して歩いていた。
周辺には未だ戦いの名残としかいえない、無残な光景が広がっている。
無意識に唇を噛み締めそうになるのを必死に押し殺し、セイは俯きがちに足を進めた。
京まであと僅か、という頃にはとっぷりと日も暮れ、すでに深更とも
言える時刻となっていた。
ぱらぱらと先を争うように歩んでいた他の客達は途中の民家か知る辺の所で
早目の宿を取ったのか、すでにその姿は見えなくなっている。
闇の中を歩む二人連れというものが、所々で固まりとなり幕兵の反攻を
警戒していた薩長の兵の目を惹いたらしく、だみ声に呼び止められた。
「こんな時間にどこへ行く?」
暖を取る為だろう。
大きく炎を吹き上げる焚き火の中から一本の焼け木を取り出すと
セイの顔の前に突きつける。
闇の中で急に当てられた光にセイが目を閉じた。
白い肌と華奢な姿、品の良い武家娘の風情に男の喉がコクリと鳴る。
「おい!」
セイの顎に手をかけて、その顔をもっとよく見ようと顔を上げさせる。
着衣は目立たぬ地味な物を選び、ここへ来る途中で頬や首筋に泥を塗りつけて
その輝きを抑えようとしていたが、そのようなものでセイの纏う可憐さは
隠しようもなかった。
「京へ・・・知る辺を頼って、参ります・・・」
掻き消えそうな声で答えるその風情も戦の後の血に酔った男の欲を刺激する。
「ほほぉ・・・だがな、こんな時間に戦の只中を通ろうというんだ。
賊軍の間者と思われても仕方がないよなぁ・・・」
「そ、そのようなものでは・・・」
男の手から離れようとセイが身を捩るが男の嗜虐心を煽っただけで、
その身の自由を取り戻す事は出来ない。
「違うっていうなら、一応その身を改めさせてもらわなきゃならんなぁ。
これもお役目なんだ、悪く思うなよ」
ギラギラとした眼でセイを見つめる男は今にも飛び掛ってきそうな気配を漂わせる。
何があろうと自分が合図をするまで下を向いて動くな、とセイに言われていた辰吉だが、
さすがにたまりかねて一歩を踏み出そうとした。
「おはんら、何をやっちょる!」
野太い声が響いた途端、セイを拘束していた男がビクリと震えた。
「た、隊長・・・」
慌てたようにセイから手を離し礼を取る。
闇の中から背の低い、けれど確かに鍛えてある事が伺える体躯の男が現れた。
「こ、こんな時刻に女が歩いているので賊軍の間者ではないかと、改めておりました!」
その兵の緊張具合からこの男がそれなりの地位にいるものだと察しをつけて
セイは腹の中で今一度覚悟を据える。
こんな場所で自分の身元が露見するようならば、この先へ進む事などできようはずもない。
どんな屈辱を舐めようと総司の元に戻るのだ。
強く瞼を閉じて、セイは静かに息を吸った。
「私は間者などではございません」
凛としたセイの声に隊長と呼ばれた男が顔を向けた。
その男に向かってセイが切々と訴える。
「在所は江戸でございますが、私の父は町医者でございました」
「ほぉ、江戸の医者の娘がなんしてこんな場所に居るでごわすか?」
強い薩摩訛りだが、聞き取れなくは無い。
「すでに父は他界し、兄が跡を継ぐために大阪の知る辺の医家で修行を
しておりました。けれど元々体の弱かった兄が先日儚くなったと・・・」
俯いたセイの白い首筋が闇に浮かび上がる。
「僅かな身の回りのものだけでも引き取り、手元で供養したいと私が受け取りに
参りましたところ、思わぬ戦が始まりまして・・・」
澱みないセイの言葉を援護するように辰吉が小さく頷いた。
「本来でしたらかような女子の身で、戦場などを通るのは恐ろしいのですが」
「そうでごわそ。何もこげな時期に無理に通る事も無か」
話に引き込まれたのか男が相槌を打つ。
「はい。ですが江戸には病の母が兄の形見をひたすらに待っているのです。
その母を思うと一刻も早く戻らなくてはと・・・」
最後の言葉が消えるように弱くなった。
「そんが遺品でごわすか?」
数歩歩んで辰吉の手から荷を取り上げ袋を開いた。
武家の娘とは言え、大小の刀を持ち歩くなど不自然極まりない。
けれどその刀は鞘を見ただけで、どちらも脇差としか思えない程に丈が短く
幅も狭い事がわかる。
しかもその束と鞘にはしっかりと紙縒りが巻かれておりその上から
どこかの寺社のお札が貼られていた。
「こんは?」
「体の弱かった兄には普通の刀など重いだけで・・・。けれどこのご時勢、
何があるかわからず、せめて身を守る物をと兄が江戸を立つ時に
母が捜し求めて贈ったものでございます」
男の手から刀を受け取るとセイは愛しそうにその紙縒りを撫でる。
「けれど人の命を救うための医師が刀などで人を傷つけたくないと、兄が自分で
封をしたのだと・・・お世話になっていた所の兄弟子様に伺いました」
「なるほど・・・」
何か考えるようにしていた男は小さく頷くと改めてセイと向かい合った。
「こげな時勢の中、女子の旅は危険極まりないものでごわすが、そんな事情なら
いたし方無か。道中の無事をお祈りもそ」
「ありがとうございます」
静かに頭を下げてセイがその場から離れようとした。
「ああ」
虎口を脱したと息を吐きかけたセイの背中に声がかけられた。
「聞き忘れちょった。江戸での住まいはどちらでごわそ?」
「はい。市ヶ谷八幡の近くに・・・」
「ほぉ、あそこは眼病にご利益があっと聞いて、江戸番の折に参った事がありもす。
確か境内に稲荷社が・・・」
「茶の木稲荷でございますね」
気負いなく返された言葉に男の目が緩やかに細められた。
「失礼致しもした。確かに江戸の方と・・・」
この男は江戸の事を、そして市ヶ谷八幡あたりの事を知っているのだろうとセイは思った。
その上で間者の疑いを捨てていなかったセイに対して、問いを投げたのだ。
幼い頃ではあったが、幾度も連れていってくれた兄に心の中で感謝した。
男はそんなセイの胸の内を知る事もなく懐から出した紙に矢立で何かを
書き付けた後、それをセイに対して差し出した。
「こんを持って行くと良か」
「これは?」
渡された紙をセイが不思議そうに見つめる。
闇の中では文字が識別しずらく、直接聞いた方が早いと思われた。
「長々と足止めをした侘びに、身元改めは済んでいるとの一筆でごわす。
少なくとも京近辺ではこんが役に立ちもそ」
月明かりに透かしてみれば、男の言った事が読み取れた。
しかも大小二振りに関しても構う必要無しと言葉が添えてある。
「これは・・・」
「必ず効力を持つものでは無か。出来るなら夜は早々に宿を取るが良か」
そっけない言葉ではあるが、その中に若い女子に対する労わりを見出して
セイは静かに頭を下げた。
京の町中への途次、幾度かその書付が役に立った。
セイが名を聞いた事は無かったが、薩摩藩の中でもそれなりの立場にいる男だったらしい。
敵だからといって全てが鬼や蛇の如く憎悪の対象でない事は、才谷こと坂本竜馬を
思い出すまでもなくセイは知っている。
あの薩摩の男も違う出会い方をしていれば、親しみを持ったかもしれない。
けれど・・・敵なのだ。
今は周囲の全てを敵と思わねば、無事に江戸の地に帰りつく事は難しい。
セイは足を速めながら唇を噛み締めた。
敵の真っ只中である京の町中で、この闇の中をどう乗り切ろうかと。
昼日中よりも余程不審に思われ、厳しく誰何される事だろう。
できる事ならどこかで宿を取りたいものだが、新選組の隊士であったセイの正体を
見破るものがいないとも限らない。
日々の巡察は、こちらが相手を知らずとも、幾多の者達に顔を晒していたと
いう事なのだから。
背後に続く辰吉の気配を感じながら、セイは思考に沈んでいった。
ギィ・・・
細心の注意を払って開けた板戸が軋みを上げた。
心中で小さく舌打ちをしながら覗き込んだ土方の視線の先では
青白い頬の男が横たわっている。
狭い船室の一つを借り切って病間としているのは、この男の身を犯している
伝屍の病のせいだ。
昼の間は何かと軽口を叩き、時には甲板に出て冷たい海風に身をさらしているものの、
夕刻には薄れる陽光に同調するように力を失い床に沈む。
小さな灯りの中に浮かび上がるその面は、すでに黄泉路を
歩み出しているかのように力無い。
トサリと小さな音を立てて、総司の枕元に座した土方が昨日の事を思い返す。
出航の合図と共に動き出した船の中を、必死の表情で総司が駆け寄ってきた。
甲板で腕を組み陸の方向を見やっていた土方の袂を掴まんばかりに問いかける。
「神谷さんは? 神谷さんはどこです?」
先に床をしつらえてあったはずの船室から飛び出してきたのだろう。
その僅かな距離でさえすでに息が乱れている様子に、土方は眉根を寄せる。
「神谷は乗ってねぇ」
「えっ?」
息を詰めた総司に畳み掛けるように土方が言葉を続ける。
「あれだ。向こうに船が見えるだろう。幕兵や会津の兵が引き上げる船だ」
少しずつ陸から離れていくのと同時に、近接していたその船とも距離が開いてゆく。
「あっちにゃ医者が足りねぇそうだ。会津に頼まれた。こっちの船の医者を
回してくれろと頼んでも無理だろうから、その道に詳しくいっぱしの役に立つ
神谷を貸して欲しいとな」
総司の視線の先では、遠ざかる船に続々と兵達が乗り込んでゆく。
その中には仲間に支えられ、または戸板に乗せられた傷病者の姿もある。
「この惨状の中だ。使える者は使うしかねぇんだ。お前の我侭で、いつまでも
神谷を遊ばせておけねぇ、わかるな」
土方に言い聞かせられなくとも、もはや動き出した船にセイを取り戻すことなど
不可能な事は総司にも理解できたのだろう。
それでもその中にセイを見つけようというのか、食い入るように小さくなる陸を
見つめたまま、完全に海原以外見えなくなるまで総司はその場に佇んでいた。
船縁を掴んだ手が爪を立て、その細くなった全身が強張っていた事が
土方の脳裏に甦る。
「そんなにじっと見つめないでくださいよ」
小さな声に土方がはっと意識を現在に戻すと、黒々とした瞳が自分を見つめていた。
寝ているとばかり思っていたが、起きていたらしい。
「眠れねぇのか?」
「ええ。船の揺れって特に横になっていると強く感じるんですよね。
幸い私は船酔いをしない性質らしいので良かったですが、
やはり落ち着いて眠るのはちょっと難しいかなぁ」
土方から視線を逸らした総司が遠くを見つめるように眼を細めた。
眠れない理由はそれだけじゃないだろう、と口に出かけた言葉を飲み込む。
言ったところでどうしようもない事なのだ。
むしろ暗黙の了解の中で、触れずにいた方が良い事もある。
「明日の朝、山崎さんを弔うそうですね」
「ああ・・・海軍式の水葬とやらだ。新しもの好きな奴だったから、喜ぶかもしれねぇな」
無理矢理でも明るい雰囲気を取り戻そうという土方の言葉に、総司が小さく笑った。
「私も出ますね。山崎さんには色々とお世話になりましたから」
「ああ。そうしてやれ」
漆黒の海原を裂いて進む船は木の葉のように頼りなく。
その中で男達はそれぞれに胸に抱える言葉を口にする事無く、
ただ夜明けを待つしかなかった。