瀬をはやみ
四
時折雲間に隠れる月を細く開けた障子の隙間から透かし見る。
今年の正月は戦の影響で、ひどく落ち着かないものだった。
落ち着かないどころか、常の行事など何一つとしてまともに出来はしなかったし、
京の町から幕府方の人間が去った今でも、息を潜めるような時間を過ごしている。
「・・・はぁ・・・」
こんな冷える夜には膝の具合も思わしくない。
淡い恋心を感じたあの男は、今頃江戸への旅路の途中なのだろうか。
また一つ、雪弥は小さく溜息を落とす。
カサリ
確かに人の気配と共に、庭木を揺らす音がした。
すでに木戸も閉じたこの時間、雪弥の私室のある奥庭に
誰かが出入りできるはずもない。
強張った喉を無理に動かして声を上げようとした瞬間。
「雪弥さん・・・」
聞き覚えのある声と共に、雲間から漏れた月光の中に白い面が浮かび上がった。
一瞬だけ、けれど確かに雪弥と視線が合い相手が自分を見とめた事を確認すると
また、ふいと影の中に沈み込む。
「か、神・・・」
「しっ」
名を呼ぼうとした雪弥を鋭く遮って言葉が続けられた。
「こんな夜更けに外を歩く事もできず、ご迷惑を承知で入り込みました。
裏の物置を一晩拝借させてください。万が一後に問われる事がありましたら、
知らぬ間に何者かが入り込んだらしいと仰ってください」
所々風に散るほどの微かな声が雪弥の耳に届く。
「夜明け前には消えますので・・・」
その言葉を最後に遠ざかる気配がした。
ぱしんっ!
力任せに障子を開け放ち雪弥が裸足で庭に下りると、闇の中で背を向けかけたセイが
目を見開いて振り向いた。
「何を阿呆な事言うとるんやっ! こない冷え切った中、物置なんかで
凍えるつもりなんかっ。とっとと中に上がらんかいっ! こんぼけっ!」
セイが絶句して硬直している間に雪弥はその手をぐいぐいと引き、座敷に上がらせる。
「浪路! 浪路っ!!」
大声で側仕えの少年を呼ぶと漱ぎと湯の用意を言いつける。
「あ、あの。ちょ、ちょっと待って・・・」
「ほらっ、そっちのんもとっとと中に入って障子閉めやっ!
いつまでたっても温まらんやないかっ!」
セイに言葉を続けさせず背後に向かった怒声に、辰吉も慌てて室内に入ると
障子を閉めた。
「ああ、もう、こないに冷え切ってもうて・・・」
セイを火鉢の傍に座らせると自分が羽織っていた綿入れを脱いで着せ掛ける。
さらにその手を取って幾度も荒く擦りたてた。
「雪弥さん・・・」
ようやく性急な展開に追いついたセイが小さく声をかけた。
「駄目ですよ。私達は追われる立場なんです。そんな人間を匿ったなどと知れたら、
後々貴方にご迷惑がかかります」
「あんお人は・・・どないしてはる?」
「え?」
「斎藤はんは?」
「ああ、すでに船で江戸に向かっていらっしゃいます。怪我も無くお元気ですよ」
雪弥にとっての最大の心配事なのだろうと、セイが小さく笑みながら答えた。
ほぅ・・・と深い吐息とともに雪弥がセイを見つめる。
「うちは斎藤はんに口に出来んほどの恩があるんや。そんお人が誰より
大切にしてはる神谷はんを守らんと、どないせいゆうん?
うちはそないな情無しとちゃうで?」
真摯な雪弥の瞳にセイは飲まれそうになる。
けれど情だけで済ませる事が出来るほど、今の世情は甘くないのだ。
「お気持ちは大変ありがたい事です。けれど事は雪弥さんだけではなく、
雪弥さんを大切になさっている周囲の方々にまで及びます。ですから・・・」
「黙っとったらわからんわ! 薩長の田舎侍なんぞに京の町家の内情なんぞ
調べようもあらへん。ぐたぐた言わんと、とっとと湯で温まってきぃ!」
パタパタと軽い足音と共に湯の用意が出来た事を告げにきた浪路に向かって
セイの背中を押し出した。
「ちょっと、ええか?」
「はい、どうぞ」
セイの返事と同時に障子が開き、湯呑を乗せた盆を抱えて雪弥が入ってきた。
「何しとるん?」
セイの前に柔らかな茶の香が立ち上る盆を置きながら尋ねた雪弥が、
その手元を覗き込んだ。
湯を出たセイに針道具を貸して欲しいと言われて用意をしたが、
まさかこんな事をしているとは・・・。
「この先、何があるか判らないですから」
小さく絞った行灯の灯りの中でセイは着物の襟をほどき、中に小判を縫い付けていた。
今やっているのは辰吉の着物らしい。
膝脇にもう一枚の男物の着物とセイが着ていた女物の着物が畳まれている。
全ての仕事を終えるのは明け方近くになるのではないだろうか。
呆れたような息を零して雪弥が手を差し出した。
「そっちのんを貸しや。手伝うし」
「え? できるんですか?」
セイが雪弥に視線を向けて眼を瞬いた。
「馬鹿にするんやないわ。こんなもん・・・」
心配そうなセイの目の前で受け取った着物の襟をほどき、針を走らせ始める。
どうにも拙い動きだが、取り合えず任せてみようとセイも自分の手元に意識を向けた。
しばらく無言のまま、互いの手元だけに集中していた。
「あのな・・・」
幾度か口を開きかけては閉じる事を繰り返していた雪弥がようやく声を出した。
「江戸へ戻る、言うんはさっき辰吉に聞いたんや」
セイが湯を使っている間に、事のあらましは辰吉から聞きだしていた。
船に乗り遅れた事も、女姿でいる理由も、この先無謀とも思える江戸への道中を
歩んでゆく事も。
全てセイらしいと感じられたが、それでもどうしても気になる事があった。
「沖田はん。病いうんは、ほんまなん?」
それまで僅かの乱れも無く針を滑らせていたセイの手元が一瞬止まった。
けれどそれは本当に一瞬の事で、すぐに何も無かったように針が動き出す。
「ええ。本当です」
静かな声音が雪弥に返される。
「労咳や、聞いたで? かなり悪いて・・・」
その言葉にセイは苦笑するしかない。
京雀のおしゃべりはどんな時でも健在で、まして悪鬼の如く嫌われている
新選組の沖田総司の話だ。
病だなどと聞いたら、それは楽しげに話題に上らせているのだろう。
本当の総司がどんな男かなど、町衆は知りもしないのだから。
「ええ・・・」
昨年の冬の半ばから総司の異状には気づいていた。
けれどまさかと思い、信じたくないと目を逸らそうとした。
それでも自分は医師の娘だったのだ。
いつまでも続く微熱、軽い咳、食欲不振、夜間の寝汗と不自然な呼吸音。
個々は些細な事でも総合すれば一つの病の兆候と捉えられた。
不安を放置する事などできず、幾度も総司を松本法眼に診せようとしたが
総司本人が頑なにそれを拒絶した。
今思えば総司には罹患する何らかの心当たりがあったのかもしれない。
焦燥の中で春が去り、初夏の気配と同時に総司が喀血した。
労咳は死の病。
治る見込みとて無い、伝屍の病だ。
狼狽しきった近藤に乞われてすぐに松本が総司を診察したが、
セイにはその結果を聞かずとも判っていた。
喀血した以上、治癒は不可能。
そんな病人は父の診療所でいくらも見てきた。
特効薬も奇跡もありはしないのだ。
松本に取りすがるようにして何かの間違いではないのかと繰り返し問う土方の姿も、
唇を噛み締め涙を堪える近藤の姿も、現実味の無い夢の事のように映っていた。
嘆きも憤りも、感情の全てが凍りつき、ただ「やはり」とそれだけを
心の中で繰り返していた。
そんな中でふと視線の先に総司が入り込んだ。
布団に起き上がり、困ったように静かに微笑んでいる姿は
その覚悟の強さを物語っていた。
たとえ命の期限を決められようと、決して無様な生き様は晒さないと
その姿は言っていた。
だから貴女も取り乱すなと、セイに向かって唇の端を上げた。
あの瞬間に大きく波立ち逆巻いていたセイの心の泉が凪いだのだ。
何も変わらない。
総司も自分も何も変わらないのだ。
この先、近藤のために白刃を振るう事は難しくなるだろう。
日、一日と体は弱りゆくのだろう。
けれど例え何があろうと、この男は武士であり近藤の兵である事をやめる事は無い。
そうである以上、自分も総司の兵である事に変わらない。
いつでも傍にあり、どこまででも共に行く。
すでにそれは決まっている事なのだ。
何を嘆く事があるものか・・・。
セイの瞳に光が戻った事を確認したのか、悪戯が見つかった子供のように
総司は肩を竦めた。
そんな何も変わらぬ総司の仕草にセイもまた困ったように小さく微笑んだ。
それでも・・・やはり感染を恐れたのだろう、それ以降総司はセイが近づくのを
極端に厭うようになり、最低限の世話をするだけの日々が続いた。
時勢が坂道を転がるように戦へ、しかも負け戦へと向かうまで。
「神谷はん?」
怪訝な雪弥の声に物思いから引き戻されたセイがはっと顔を上げた。
「堪忍な。嫌な事を聞いてしもた」
眼を伏せる雪弥にセイが小さく笑う。
「いいえ。気になさらないでください。労咳なのは事実ですし・・・」
穏やかなセイの様子に雪弥が不思議そうに首を傾げた。
「それでも・・・帰るんか? 沖田はんの所へ」
「はい。沖田先生は私のたった一人の主君ですから、何があろうとお傍に。
けして離れる事は許されません、私自身が許しません」
その言葉は誇らしくセイの唇から放たれた。
言霊というものがあるなら、今の言葉ほど強い効力を持つものも無いだろうと
感じられるほどだ。
けれどこれほどの想いを抱えて無事に江戸へと辿り着けたとしても、
セイに待っているのは哀しいだけの時間なのではないか。
それを思うと痛む胸に堪えきれず、雪弥は手の平を握り締めた。
「っっっっっいぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!」
針を持っていた事を忘れて握りこんだ手に、深く突き刺さったそれは
ぷっくりと血の粒を膨れ上がらせる。
「何をしているんですか!」
慌てて雪弥の手を取ったセイが懐から出した手ぬぐいでその血を拭う。
「もうっ。しばらく手ぬぐいの上から傷を押さえておいてくださいね。
少ししたら血も止まるでしょうから」
子供を叱るように眼を吊り上げたセイに、雪弥は頷いた。
「なんや、こんな時間やのに賑やかやなぁ」
サラリと障子が開いて辰吉が入ってきた。
セイが湯から出た後、入れ替わりで湯に入っていたのだ。
綿入れを羽織ったセイの膝元に広げられている縫いかけの着物を見ると、
近くに腰を下ろし雪弥の縫っていた着物を取り上げた。
「確かに多少でも身につけとった方が安心やけどなぁ・・・。
とっとと済ませて少しでも寝んとあかんで」
ひょいひょいと動かす針目は雪弥より余程早く達者だ。
信じられないものを見るようだった雪弥が頬を膨らまして言い募る。
「うちはそないなお針なんぞ、ちゃんと教わった事なんてないんや!」
ぷいっと横を向いた表情が幼げに見えて辰吉が笑った。
「俺かて教わったわけやない。ただうちは魚屋やから、おとんもおかんも
仕事で忙しゅうて、身の回りの事ぐらい自分でせんとあかんかったんや」
幼い頃から色里で育った雪弥は、芸事にかけては厳しく叩き込まれていたが、
縫い物などの身の回りの事は、置屋に専門で雇われている女衆の仕事で
手をつける必要が無かった。
むしろ色を売る稼業である以上、手指を荒らすような仕事は遠ざけられて
いたのだから、縫い物などできなくて当然なのだろう。
それを察したセイも辰吉も雪弥の不器用な針目を笑う事は無い。
未だ膨れ顔の雪弥は気にしない事にしたらしく、辰吉がセイに話しかけた。
「それにしても今日の神谷はんには度肝を抜かれたわ」
何の事だと雪弥が辰吉を見る。
「いやな、伏見の先んとこで薩摩の兵に捕まって身元を質されたんや。
したら神谷はんが堂々と嘘八百を並べて言いくるめよった。
呆れるやらホッとするやらなぁ・・・」
語尾は溜息に消えてゆく。
「あれは・・・全くの嘘じゃありませんから・・・」
セイが小さな声で説明した。
「医者の娘だった事も、兄が亡くなった事も事実です。
もちろん江戸に住んでいた事も・・・。
後は刀と男物の着物を持ち歩いても不自然ではない理由をつけただけの事」
「それにしても、よくあれほどの話を作れたもんや。
いっそ戯作者にでもなったらたんと稼げるんやないか?」
心底感心しているような辰吉の言葉にセイも苦笑するしかない。
「そやけど、よう騙せたなぁ。戦場の真っ只中言うたら、ほんの小さな事でも
疑われたらただじゃ済まんかったやろうに」
雪弥の言葉にセイの眼が細められた。
「隊の・・・監察の方に教わった事があるんです。作り話をする時は全てを嘘で固めては
どこかに不自然さが出て、相手に違和感を持たれると。
偽りの中に一片の真実を混ぜる事で、話し全てに真実味が出るのだそうです」
(そやからな、神谷はん。アンタは正直者で嘘が苦手やろうから教えるんやで。
ほんまに困った事があって、どうにも真実が言えん時は、少しだけ本当を混ぜて
嘘を言ったらええ。この手を使うたら、神谷はんかて立派な嘘つきになれると思うで)
軽い笑い声を上げて自分の月代をポンと叩いたその男に、「神谷さんに変な事を
教えないでくださいよっ!」 と総司が食って掛かっていた事を思い出した。
一瞬後には修羅の刻が待っていたにしろ、未だ穏やかな陽光の中で笑っていた
あの男達は今頃どうしているのだろう
いつでも軽口を叩いては周囲を笑わせ自分を怒らせていた山崎は、
今も船の中で皆を笑わせているのだろうか。
最後に見た血の気の失せた白い面が甦る。
じわりと目元が熱を持ち、あわててセイは目を瞬いてその熱を散らした。
物思いに沈んでいたセイを気遣うように雪弥が見つめている事に気づいて
頬に小さく笑みを浮かべる。
「この先も、その理由を通していきます。適当な場所で“神谷清三郎”に戻る時、
着物と刀は必要ですから・・・それを持ち歩くにも最適な理由付けですしね」
感情を抑えたセイの声を聞きながら雪弥は庭に咲く、覆いをかけられた
寒牡丹を思い浮かべた。
以前のセイは総司や斎藤に守られ、花開く時を待っている
あの牡丹の蕾のようだった。
それがその覆いを失った今は、凍りつく寒風にその身をさらされて
雪をその身に纏わせながらも凛と気高く咲き誇る紅椿のようだ。
墨絵のように色を失った冬景色の中、降り続く白き六花を溶かすほどの鮮やかさ。
「強いな・・・神谷はんは・・・」
知らず唇から零れた雪弥の言葉にセイが儚く笑った。
「強いのではありません。強くあろうと思っているだけです」
―――あの男と共に在るために・・・
セイが飲み込んだ言葉は過たず雪弥の心に届いていた。
だから雪弥も笑う。
セイが必死に心を強く保とうというなら、自分もその助けになろうと。
「まったくなぁ。あ〜んな黒ヒラメのどこがええんやろ。
絶対に斎藤はんの方がええ男やのに」
「ええ、兄上はとっっっても立派な武士です。なんたって私の兄上なんですから」
雪弥の意図を察したようにセイも楽しげに言葉を返す。
小さな笑い声を聞きながら、辰吉は明日からの旅を思っていた。
こんな穏やかに笑える時間はもう無いだろう。
きっと日々神経をすり減らす事ばかりだろうから。
それでも、陽は上る。
明日は来る。
セイ達に悟られないように、小さな溜息を零した。
夜が明ける前に雪弥の元を辞したセイ達は、雪弥がつけてくれた店の者の先導で
町中を無事に抜けた。
京の町筋の事はセイとて熟知していたが、今は見張りと思しき薩長軍の兵達が
思わぬ場所に立っているのだから、数間先を生粋の京の人間に案内して貰った方が
安全でもあった。
町の外れで店の者を帰すと大津へと続く日ノ岡峠の手前で一度セイが振り返った。
ゆるい上り坂を上がってきた高台の眼下には、京の家並みが夜の帳を払い始めた
薄明かりの中に浮かんでいる。
九つの時、父と兄と共にこの千年の皇都へとやってきた。
幼い自分は父と兄に守られて健やかに育ててもらった。
そして父と兄を一度に亡くした後は、誰よりも敬愛し恋い慕う男が
自分を育み守ってくれた。
今、その男の元へ戻るための一歩を踏み出す。
守られる為ではなく、守るために。
共に歩み続けるために。
明けゆく町に向かって深く深く頭を下げる。
この土地に戻る事は二度と無いだろう。
最後にお墓参りもできずにすみません、父上兄上。
里乃さん、まあ坊、八木さん、他にもたくさんの方々、お世話になりました。
ありがとうございました・・・。
辰吉の視線を感じながら頭を上げたとき、セイの表情には僅かの揺らぎも
残ってはいなかった。
「行きましょう」
きっぱり言い切ると、二度と後ろを振り返ろうとはせずに
確かな足取りで東への道を歩み始めた。
まもなく朝焼けに染まるだろう空の下に、帰るべき場所がある。