瀬をはやみ
5
東海道に足を踏み入れたセイは、予想していたとはいえ重なる困難に
度々唇を噛み締める事となった。
冬の短い日の下ではただでさえ一日のうちで歩ける距離は限られてしまう。
日が沈めば宿場と宿場を繋ぐ街道は完全な闇に沈む。
長い旅程を考えればそうそう提灯などを使って夜中に歩く無謀は出来ず、
ましてやこの混乱の世情の中、弱々しく見える男女の旅人など襲ってくれと
言っているようなものでもある。
そして何より自分の身を守るはずの女子姿が、セイにとって最も苛立つ要因ともなった。
慣れぬ着物は歩みを遅らせる。
歩幅一つ取っても男姿の袴に比べて極端に狭められるのだ。
なまじ脚力に関しては隊の巡察で鍛えられていた分、思うように動けない事が
焦りを募らせ苛立ちを増幅させる。
本来であれば強行軍で行って水口に泊まる予定だったものを、その手前の
石部に辿り着いた時にはすでに日暮れも間近となっていた。
たとえ途中で野宿となろうとセイは先へ進もうとしたが辰吉が強く押し止めた。
「鈴鹿の峠を越えるまでは無理はしたらあかん。この時期の峠は雪が積もって
凍り付いているはずや。今夜は石部、明日は土山。そして峠越えや。
峠を越えたら幾らでも無理に付き合うたる。先が長い事を忘れんとき」
確かに武士の姿であれば多少厳しい峠越えだろうと、無理を重ねた身でも出来るだろう。
けれど今の自分に不自由が多い事は自分が一番理解している。
新選組という生死の極限で過ごした時間が、セイに客観的な観察力と
冷静な分析力をつけさせていた。
「とにかく、今夜は石部泊まりや。ええな」
セイがこくりと頷くのを確認して辰吉は少し安堵した。
少なくとも冷静さは失っていないようだ。
京からの道中、幾度もその乱暴な身のこなしや裾裁きにハラハラさせられた。
日頃の着衣との差異に苛立つ空気を感じ、さもありなん、と思いながらも
その仕草一つ一つが道行く者達の目を引くのを警戒したのだ。
ただでさえセイは目立つ。
本人は意識していないようだが、大きな瞳、赤く熟れた唇、すっと通った鼻筋に
柔らかそうな白い肌、すれ違う男達がかなりの意識をセイに向けていた。
その前での女子らしからぬ立ち居振る舞いは妙な好奇心を湧かせかねない。
今日は少しでも早く宿を取って、それに関して話をしようと思っていたのだから。
けれどこの様子なら注意するまでも無いかもしれない。
確かに夕刻に近づくにつれ、苛立ちは変わらぬものの乱暴な裾裁きは
目に見えて減っていた。
本人も何か感じるところがあったのかもしれない。
セイが石部泊まりを嫌がったのは別の理由もあった。
石部は膳所藩の領内だ。
膳所の本多家は元々幕府の譜代大名であったが鳥羽伏見の戦では
薩長に与して敵方に回った。
宿場でも幕府の敗残兵に対する調べは厳しいだろうと警戒したのだ。
けれど無理に石部を後にしても次の宿場である水口もまた同じだ。
水口藩は幕府を見限り戦の最中に敵に回った藩なのだ。
結局はどこに行こうと敵の只中である事に変わりは無い。
ならば先々を考えて極力無理を避けることが必要だとセイは腹を括った。
夜も更け、月が中天を過ぎる頃に突然宿の前が騒がしくなった。
男の怒鳴り声と大きな足音が入り混じり、僅かばかりの後に宿の戸板が
激しく叩かれた。
セイも辰吉も警戒を解かぬまま、浅い眠りの淵を漂っていただけに
一瞬で覚醒し布団の中で身構えた。
程も無く店の主の謝罪の声と共に一部屋ずつ障子が開けられ、
人の気配が近づいてきた。
パシンッ!
乱暴に開けられた障子の向こうには手に持った灯りに照らされ、
案内の為か宿の主人と番頭らしき男を従えた数人の武士の姿があった。
その中の一人が緊張感に顔を青ざめさせ布団に身を起こしたセイを一瞥すると、
入り口近くに寝ていた辰吉の布団を引き剥がし顔を確認する。
「な、何をしよるっ!」
その乱暴さに思わず声を上げた辰吉に向かって布団を投げつけ、その男達は
布団と僅かばかりの荷しか置いていない部屋を確認するように見渡して
そのまま部屋を出ていった。
「申し訳ございません」
後に残った番頭が部屋に入り頭を下げた。
「何が・・・あったのですか?」
怯えたような風情を取り繕ったセイが尋ねると、言い訳をする糸口を
見つけたように番頭が口を開いた。
「何でも天朝様に逆らった逆賊徳川の敗残兵がこの宿場に紛れ込んだとかで、
お城からお役人がおいでになって宿を改めていらっしゃるんですよ」
「それは・・・」
恐らく自分同様に東に向かう敗残兵はいくらでもいるはずだ。
その全てをいちいち捕縛するほど膳所藩に力があっただろうかと
セイは内心で首を捻った。
「そやけど敗残兵全部を捕まえるなんて無理と違うか?」
セイと同様の疑問を持ったようで、辰吉が問いかける。
「はい。京を我が物顔でのし歩いてた、なんとかいう隊の者らしいですわ。
私共には関係ありませんが・・・迷惑な事ですねぇ」
番頭の手元の灯りだけではセイの顔から血の気が引いた事は判らなかったらしい。
もう一言二言おざなりな詫びの言葉を残すと、さっさと次の部屋へと
謝罪に向かっていった。
「・・・神谷はん?」
人の気配がすっかり遠のいてから辰吉がセイに声をかけた。
「大丈夫です。私ではありません・・・。彼らは男を捜していました。
私を捕縛の対象としているなら、女子姿だからといって
見逃しはしないはずです」
布団の下に隠すように抱いていた大刀をぎゅっと握り締め、セイは呟く。
相変わらず宿のどこかで乱暴な足音と障子の開け閉めの音が響いてくる。
今この時も味方だったはずの誰かが追い立てられ逃げ惑っているのだと思うと
もはや眠る気にもなれない。
それでも先に続く長い旅の事を考えれば少しでも身体を休める事は必要なのだ。
「とにかく休みましょう」
辰吉にも寝る事を勧めるとセイは布団に横たわった。
気を張り詰めさせたままで、セイは固く目を瞑る。
瞼の裏に浮かぶのは、ただ自分が求める男の姿。
(先生・・・今、何をしておいでですか? ちゃんと眠ってますか?
局長に心配をかけて副長に叱られていませんか? 先生・・・)
胸の中で囁くように呼びかける。
届くはずも無いその声が、今頃は夢の中にいるだろう男の元へ
寄り添えれば良いと願いながら。
『そんなにガチガチに緊張していたら、いざという時に力が発揮できませんよ?』
ふいにセイの耳元で懐かしく慕わしい声が響いた。
今は遠い彼の男が、まだ入隊したばかりで巡察に出るたびに緊張感に
押し潰されそうになっていたセイを笑った言葉だ。
人を斬る事も知らず、武士に、目の前の風のような男に、憧れるばかりだった自分を
そうと見せずに守ってくれていた頃。
『緊張感は必要ですが、張り詰めすぎては無意味です。貴女はそれを学ぶべきだ』
(はい、そうですね。張り詰めるのと精神を研ぎ澄ますのは別物だと、
先生が教えてくださいましたよね)
知らず深く呼吸をすると、強張った身体から力が抜けていた。
握り締めたままだった大刀から指を離すとじんわりとした痺れが伝わってくる。
血の気が通わぬほどに力を込めていたのかと自分でも呆れた。
宿の中を改め終わったのだろう。
幾人かの足音が道を遠ざかっていく音がはっきりと聞こえる。
辰吉も眠りについたようで、落ち着いた寝息が部屋を流れてゆく。
気を緩める事は許されない。
けれど張り詰めすぎても必ずどこかで無理が来る。
(わかっています、先生。心配なさらないでください・・・)
脳裏の総司が良く出来ました、とばかりに笑みを浮かべた。
それに返すようにセイも闇の中で微笑むと再び浅い眠りに落ちていった。
そろそろ横浜に着くだろうという船の上で、吹きさらしの甲板に腰を下ろし
所在無さ気に船べりに寄りかかった総司がいた。
冷たい海風は体に障ると幾度叱っても、狭い船室は息が詰まるようで嫌だと
駄々っ子のように言い募っては外へと姿を現すのだ。
いい加減注意するのを諦めたのか、もはや近藤でさえ中へ入れとは
言わなくなっていた。
「そろそろ、中に戻れ。風邪でも引いたら命取りになるって事ぐらい、
判らねぇはずもないだろうが」
ただ一人、呆れながらも口うるさく注意を続ける男が傍らに歩み寄る。
「土方さん」
生来の好奇心旺盛な性質からか、今後の戦の在り様を学ぶ必要性からか、
船のあちこちで船員を捕まえては船の仕組みや外国の情報を貪欲に取り込もうとして、
土方は忙しく動き回っている。
そんな多忙な男が自分の相手をしてくれる事が嬉しいのだろう、どこか虚ろに
表情を失っていた総司が寒さに赤らんだ頬に嬉しそうな笑みを浮かべた。
隣に座ろうと総司の肩に手を添えた土方の眉間に皺が刻まれる。
かなり長い間ここにいたのだろう。
真冬の海風にさらされたその肩はすっかり冷え切っていた。
「こんなに冷えて・・・凍るつもりか、てめぇは」
苦々しいその声音にくすりと笑い、総司は懐から小さな布包みを取り出した。
「相馬さんがね、これをくれたんですよ」
土方の手に渡った物は総司の体温よりも明らかに温かい。
こんな船の中でよくも用意できたと感心できるそれは温石だった。
「室内にいると私も酔ってしまいそうだから、と言ったらこれをね。
本当に寒くてたまらなくなったら中に戻ります」
土方から戻された温石を懐に戻し、総司は人懐こく笑った。
しばらくぼんやりと船べりに凭れたままで空を見上げていると、ここ暫くの争乱が
嘘のように思えてくる。
少し離れた場所で交わされている船員や兵達の声もどこか遠い世界のものに
思えてきて、自分達だけが異分子のような心許無ささえ感じられた。
どこか頼りないその感覚は土方に風に冷やされた為だけでは無い、
心の震えを走らせた。
そんな時、総司が口を開いた。
「神谷さん、元気ですかねぇ?」
その言葉に土方は空から視線を動かさぬまま答えた。
「あいつの事だ、きっと向こうの船でも走り回ってやがるさ」
「そうですね・・・」
小さく返された総司の言葉に土方が始めて視線を合わせた。
「寂しいか?」
「・・・いえ・・・」
一瞬言葉を躊躇い微かに瞳の中で感情を揺らした男は静かに微笑んだ。
「心配なだけですよ。あの人、すぐに無茶をするし。自分の身を考えないで
ボロボロになっても走り回るから・・・誰かが見ていてあげないと、
危なっかしくて・・・」
臆面も無くセイの身を気遣うこの男こそ、ボロボロになるまで己が病の事を他言せず、
周囲が気づいた時には既に一日一日と命の期限が数えられる所まできていたものを。
ふと土方の脳裏に総司の病を告げられた時のセイの様子が甦った。
白い顔色は常と変わらず、ただ淡々と松本の言葉を聞いていた。
とうに気づいていたのかもしれない。
けれど総司の強い意思を察知して口を閉ざしていたのかもしれない。
入隊からこっち、事ある毎に騒動の種となっていたセイの姿を思い出す。
豆鉄砲のようにあちこちで弾け暴れ真夏の陽射しのように鮮やかに笑っていた。
あの笑みを最後に見たのはいつの事だったのだろう。
思い出せる最近のセイの表情は総司の前で見せる言う事を聞かぬ童を
叱り付ける表情か、能面のような完全に感情を抑えきった表情ばかりだった。
土方の背筋を冷たいものが走りぬける。
神谷の能面のような表情と、さっきまでの総司の無表情がかぶる。
この二人は互いが傍にある事で、心を壊すぎりぎりの場所で
どうにか保っていたのではないか。
万が一神谷が戻らなかった時、すでに命数の見えているこの弟分は
言葉にならぬ孤独の中で絶望だけを抱えて逝く事になるのではないか。
「神谷さん、ちゃんと寝てるかなぁ・・・」
風に吹き散らされるような呟きが総司の唇から零れた。
無意識の内にも切なさを滲ませたその声が土方の耳朶に絡みつく。
土方は初めて大坂で出航を半刻なりと遅らせなかった事を悔いた。