瀬をはやみ
6
鈴鹿峠は予想以上の難所となっていた。
前日に平地であれば余裕を持って次の坂下宿へと辿り着けるはずの時間に
一つ手前の土山宿へと到着したセイがそのままの峠越えを主張した。
けれど辰吉が強硬に反対し、結局は土山宿で一泊する事にしたのだが
その判断が正しかった事を、現在セイは身を持って実感している。
雪が深い、というほどに鈴鹿峠は積雪量が多いわけではない。
けれど夏であれば旅人を憩わせ、厳しい陽射しからその旅路を助けてくれるだろう
木立の深さが冬場には敵となる。
重なった枝葉は陽射しを遮り、浅くではあるが積もった雪を凍らせたまま
急峻な峠道で旅人の足元を掬おうとする。
気温の低さと厳しい坂道は体力を奪い、一歩一歩を確かめながら歩む道のりは
果てしなく長く感じてしまう。
邪魔にしか思っていなかった女子の旅装束に必須とされる杖が、こんな場所で
有り難く感じるなどセイには驚き以外の何物でもない。
唯一の利点と言えば街道の峠に付きものである旅人を襲う雲助が、
さすがにこの時期には滅多に出没しない事だろうか。
額に滲む汗を拭い荒い呼吸を整えながら、また一歩、セイは足を前に進めた。
この一歩の分、自分は戻るべき場所に近づくのだと信じて。
「江戸だっ! 江戸が見えたぞっ!」
船のあちこちで上がる叫び声に総司も左舷に足を向け、その手すりに身を預けた。
富士の山が見えるようになってから、この時を待ち続けていた。
五年前に明るい未来だけを胸に抱いて後にした場所だ。
今のこの身はあの頃に比べると力を失っているけれど、それでも幾度と無く
夢の中で思いを馳せた懐かしい故郷が目の前にある。
久々に訪れた浮き立つ感覚に総司の心も開放されていたのかもしれない。
後ろに近づいた気配に満面の笑みで声をかけた。
「ほらっ! 江戸が見えますよっ、神谷さんっ!」
振り返った瞬間に総司の表情が強張った。
そこには不快さを隠しもせずに視線を逸らす土方と、苦笑を浮かべる
近藤の姿があったのだから。
「す、すみません・・・」
一瞬の空白の後、総司が頭を下げた。
その肩を抱くように近藤が遠くに見える江戸の町に視線を投げる。
「神谷君にとっても江戸は故郷だものな。早く彼にもこの風景を見せてあげたいものだ」
すでに土方から事情を聞いている近藤だったが、その願いに偽りは無かった。
あの真っ直ぐで優しい隊士が、一刻でも早くこの町へ、この男の元へと戻る事を祈る。
「本当に・・・」
呟くように総司が答えた。
姉や義兄の顔が甦る。
小さかった甥や会った事の無い姪はどれほど成長しただろうか。
小野路村の小島鹿之助の落ち着いた佇まい、日野の佐藤彦五郎の穏やかな物腰、
井上松五郎の豪快な笑い声。
次々と懐かしい顔が思い出される。
試衛館の近藤周斎は既に他界しているが、きっとおかみさんは相変わらずの
気の強さで家の中を仕切っている事だろう。
近藤の妻であるツネや赤子の時しか記憶に無いたまも元気でいるだろうか。
今の自分では皆に会う事は出来ないけれど、それでも懐かしい人々がいる
この江戸の地に戻れたという事が心に安らぎを与えてくれる。
けれどふわりと温かな思いに満たされた心の中を、ひゅうと冷たい
隙間風が吹き抜けた。
理由など判っている。
一時和みかけた総司の瞳が次の瞬間寂しげに伏せられた。
『江戸ですっ! 沖田先生っ!!』
誰よりも聞きたい声が聞こえない。
誰よりも見たい笑顔が傍にない。
あの人がここにいたならどんなに喜んだだろうか。
市ヶ谷八幡が懐かしいと笑っていた。
江戸から見る富士が大好きだと言っていた。
大坂で負け戦に項垂れた仲間達に向かい「将軍家のお膝元に戻って反撃です!」
と意気軒昂に気勢を上げて活力を与えていた。
『江戸〜〜! 今、帰ったぞぉぉぉ! 負けたままでいないからなぁぁぁ!』
きっとそう叫んで土方あたりに怒鳴られるのだろう。
『うるせぇぞっ! てめえは少しは大人しくできねえのかっ!』
そして京の屯所で散々聞いていた掛け合いが始まるのだろう。
懐かしさと慕わしさが胸を締めつける。
(神谷さん・・・今、何をしてますか?)
もはや総司の眼には近づいてくる江戸の町は映っていなかった。
並んで遠い景色を見やる師弟から数歩音も無く離れた土方が、後ろに控えた相馬を
視線だけで呼びつけた。
船に乗ってからセイの代わりをするかのように、総司の視界に入らないけれど
何かあればすぐに駆け寄れる場所から動こうとしないその男は不機嫌そうに
土方の後ろに立った。
「江戸についたら先に来ている隊の連中が迎えに出ているはずだ」
恐らくそれは間違い無いだろう。
原田、永倉、斎藤らの幹部は傷の程度の軽い隊士達を連れ、一足先に別の船で
江戸に到着している。
この先の指針を立てるのが土方である事など、誰に聞こうと判りきった事だ。
そうである以上、土方の到着をひたすらに待っているのは間違いない。
「斎藤を探して、後で来るように言え」
「後で・・・ですか?」
「そうだ」
探すまでも無く先行していた隊の幹部達は土方を出迎えに来るはずだ。
斎藤も当然その中に入っているだろう。
だというのに、自分を使ってわざわざ呼びつけるという事は・・・。
―――神谷の事を話しておけと言う事か
神谷が斎藤を亡き兄の親友として慕っている事を知らぬ者はいない。
その斎藤に事情を説明するのは当然で、説明するからには神谷に対する
何らかの救済を土方が考えているような気がしてくる。
たとえそれが自分の罪悪感を薄れさせたい願いだとしても。
相馬の中に僅かばかりの希望が芽生えた。
「どけどけっっっ!」
髪を振り乱し、目を血走らせた男達が道行く者を突き飛ばしていった。
どう見ても幕府方の敗走兵と見えるその男を、幾人かの捕り方らしき武士が追っていく。
「やっぱり道々聞いた話は、ほんまやったんか・・・」
辰吉がセイだけに聞こえる声で呟いた。
鈴鹿を越えて昨夜宿を取った亀山宿は亀山藩の城下町だった。
本来であれば城下町などという敗軍の人間にとって危険な場所に宿を取るのは
躊躇われるが、峠ですれ違った行商人が幕府兵を厳しく捕縛する様子も無く
比較的静穏だったと語っていた事を信じたのだ。
その言葉通りに亀山宿では膳所のように深夜の騒ぎが起こる事も無く、
翌朝の旅立ちを迎えられた。
亀山を出れば次に目指すのは桑名だ。
会津藩主松平容保の実弟が藩主を勤め、京都所司代でもあった桑名藩は
幕兵にとっての庇護者となっているだろう。
現藩主松平定敬は将軍慶喜と共に大坂から落ち延びて江戸にいるはずだが、
先に控える尾張領内を通過する前に一息つく程度の余地はあると考えていた。
徳川御三家であるはずの尾張はすでに敵方だ。
朝廷に帰順するというよりも、薩長に同心している事は間違いない。
江戸へ戻る上で最も高い壁が尾張だという事はセイも辰吉も承知していた。
だからこそ桑名で英気を養い、先の緊張に備えようとしていたのだが
道々辰吉が聞き拾った話がセイの胸に暗雲を広げていた。
「桑名の今の殿様はご養子だから、天朝様に逆らったその方を廃して
先の殿様のご実子を殿様にしようって話があるらしいですよ」
桑名が近づくにつれ、その囁きは大きくなっていく。
京にいた頃にも幾度か耳にした話ではあった。
先代桑名藩主が死去した時その実子は未だ三歳にしかならず、藩主として
国を統治する事は難しかった。
だから娘婿として定敬を迎えたが、常に幕府寄りの政策を取る定敬と
先代藩主の母に当たる順祥院は事ある毎に対立し、藩内での水面下の抗争が
絶えないのだと。
溜息交じりにそれも仕方が無いと土方が言っていた事がある。
順祥院は薩摩藩主の娘であり、骨の髄まで反幕府の気風が染み込んでいるのだろうと。
その順祥院は既に六年前に江戸表で死去しているが、その意を汲んだ藩士達が
定敬を廃そうと動いている事は間違い無いだろう。
前藩主の実子は十一歳に過ぎないが藩主不在の城中では重臣達の意向で
藩論が左右されるのは当然の事でもあるのだ。
それでも一抹の期待を持って桑名に足を踏み入れた途端の捕縛劇である。
セイも辰吉も表情を強張らせ、脳内でこの後の行動を立て直す。
京での戦に出ていた藩士達のほとんどは定敬を追って江戸へ向かったはずだ。
現在領内にいる藩士の中に新選組の神谷清三郎を知っているものは
ほとんどいないと思えた。
けれどセイが新選組にいた五年近くの間に、京から国許に戻ってきた桑名藩士が
いないとも限らない。
まさか新選組隊士が女子姿をしているとは思わないだろうが、万が一でも
素性が露見すれば逃げ道は無くなるのだ。
目の前にある海上七里と言われる桑名の渡し舟に乗らずには先へと進めない。
そして渡し舟で渡った先の地は尾張領となる。
一瞬も気を抜くことの許されない地に立っている事を、セイは実感していた。
「辰吉さん」
桑名藩の城下町である桑名宿まであと少しという所でセイに呼びかけられた辰吉は、
そちらに視線を向けた。
白い面はここ暫くの睡眠不足と疲労の為に少し青ざめやつれたようにも見える。
「この先は本当に危険です。ここまで同行してくださった事だけでも、もう充分です。
ここで大坂に戻ってくれませんか?」
セイが静かに辰吉を見つめている。
その目の中には死地へと向かう覚悟が見て取れて辰吉は思わず声を荒げた。
「尾張を抜けるまで付き合ったるって言うたやろ。あほな事を言わんとき!」
「でも・・・」
「女子一人の旅がどないに危険か、嫌になるほど感じたんと違うか?」
辰吉の言葉の通りだった。
若い娘の旅ともなれば周囲からの好奇の目と共に、隙あらば奪い攫い乱暴しようと
企む視線を感じ続けていたのだ。
町のゴロツキ程度だったなら女子姿でも容易く思い通りになどなりはしないが、
敗残兵と思しき武士の成れの果てが其処此処の街道沿いにたむろしていた。
表立って騒ぎを起こせば追われる身の自分達に都合の良くない結果に
なりかねないからか、今の所は無理無体に襲われる事は無かったが
これが幕府の勢力が強い場所に辿り着いたら何が起こるかなど予想もできない。
否、予想がついてしまうと言った方が正しいのか。
それを考えると尚の事、早く神谷清三郎に戻れる場所に辿り着きたいと切実に思う。
若衆姿の一人旅も確かに危険は多いはずだが、それでも女子でいるよりは
ずっと安全なはずだ。
「荷かてな、女子が抱えるにはちっと多いと思うで」
後々の為にと男姿の着物一式と刀を辰吉が持っている。
始めはセイが自分で持つと言ったのだが、従者が主人に荷を持たせるなど
不自然極まりないと辰吉に取り上げられたのだ。
確かにまだ先が長いだろう道中を、女子が大きな荷物を抱えて歩くのは目を引くし
何より物取りに狙われやすい事だろう。
「ほら、今日はとにかく桑名泊まりや。神谷はんは面が知れてる事も考えて
宿から動くんやないで。渡船場の事は宿に落ち着いてから俺が聞いてくるわ」
これ以上無駄な会話に費やす暇など無いとばかりに辰吉が先に立って歩き始めた。
危険などとうに承知の事だ。
むしろこの状態でセイを放り出しなどしたら、大坂に戻ってから大和屋に
顔向けできないではないか。
それに勘治に夜毎どやされるのも勘弁だ。
胸の内で苦笑しながら歩む辰吉に追いついたセイが「すみません」と頭を下げた。
その風情が迷子になった子兎のように見える。
寝不足で赤く充血した瞳と白い肌がそう見せるのかもしれない。
きっと親兎も真っ赤な瞳で心配している事だろう。
辰吉は唇を小さく吊り上げて笑った。
桑名の渡しは藩内の混乱の余波を受けて予想通りに時間がかかった。
さっきまでは出ていた船が突然の人改めの影響で次の船が差し止めとなる。
それでも大坂で手に入れた手形のおかげで、セイと辰吉はどうにか
尾張領内へと渡る事ができた。
少しでも早く危険地域を脱しようという互いの一致した意見から、
ここからは宿場無視の強行軍となった。
尾張を抜け、岡崎藩の先は幕府領が続く。
そこまで辿り着ければ危険も段違いに減ることだろう。
それだけを信じて寒空の下、ふたりは足を速めた。
江戸は、まだ遠い。