瀬をはやみ



  7



大坂から船で引き揚げ品川に到着した新選組一行は、幕府から屯所とする
場所の指示が下るまでの間、釜屋という旅籠に逗留していた。
その仮宿において一般の隊士達は次の戦に備えての鍛錬に余念が無かったが、
幹部は多忙を極めていた。
京でこそ名を馳せていたし、確かに幕府内でもそれなりに実力は認められていたが、
僅か百名程度では出来る事もたかが知れている。
どこの部隊と組むのか、隊士をどう増やすのか、次に与えられる戦場はどこになるのか。
傷の癒えていない近藤や土方はもちろん、斎藤、永倉、原田なども自分のツテを
最大限に使ってこの先の自分達の方向を見定めようとしていた。



江戸に戻って三日目に、土方はようやく自室と定められたその部屋で
布団に横たわる事ができた。


「副長」

夜も更けた頃、障子の向こうから声がかけられ寝床から土方が身を起こした。

「入れ」

短い返答を聞いて音も立てずに斎藤が室内に入ってきた。

「どうだ?」

行灯に火を入れながら問われた言葉に静かに首を振る。

「そうか・・・」


神谷を大坂で一人行かせた事をひどく気に病んでいた相馬が江戸に船が着いた途端、
何としても探しに行くと言い張った。
このままでは総司に申し訳ないと、この若い隊士は思いつめているらしい事を
斎藤から聞いた土方が一つの命令を出していた。

江戸に帰還する船は自分達の乗ったものだけではない。
知恵が回り聡い神谷の事だ。
他の船に乗って戻る可能性が高い。
けれど江戸に戻れても、新選組の居場所が判らぬでは困るだろう。
故に相馬は港近くで待機し、帰還する船に神谷が乗っていないかを確認せよ、と。

それから三日。
新選組の船の後に出航したものに乗ったなら、もう戻っても良いはずだ。
会津や他の幕臣達の乗った船も、もはやほとんどが到着している。
これ以降、神谷の乗れるような船があるとも思えない。


「陸路か・・・」

ポツリと土方が呟く。

「おそらくは」

斎藤の返答に唇を噛み締め何事か考えていた土方がおもむろに立ち上がり
文机の前に座った。
しばらくサラサラと筆が走る音だけが室内に流れる。
その音が止まると同時に土方の肩が落ちた。

「役に立つとも思えねぇがな・・・」

墨が乾くのを待って畳んだ文を斎藤に渡す。

「夜が明けたら若年寄の永井様に届けてくれ」

「これは?」

「何人か大坂ではぐれた馬鹿共の名前と特徴を書いておいた。その名を告げれば
 箱根の関所を手形無しでも通行できるという若年寄永井様の一筆を添えて
 箱根に届ける。混乱しているにしろ、箱根の関は色々とうるせぇだろう。
 こんなもんでも少しはマシかもしれねぇ」

苦虫を噛み潰したような土方の表情に斎藤の口端が僅かに上がった。

「やはり副長は必ず神谷が戻ってくると信じておられますか」

「生きてるならな」

突き放すような声が鋭く投げられる。

「正直俺は神谷が死のうと構わねぇ。船に乗り遅れたのはヤツの責任だ。
 そんな事まで気にしちゃいられねぇだろう。だがな・・・神谷がいねぇと
 総司の野郎がどうにも・・・」

土方が視線を落とした。


神田和泉橋の西洋医学所で松本良順の元、近藤と共に療養している総司は
忙しい合間を縫って土方が顔を出す度に「忙しいのにすみません」と笑う。
船の上で神谷の身を気遣う言葉を零したのを最後に、神谷の事は一切
口に出そうとしない。

元々他人の感情にひどく敏感な男だった。
神谷に関する話が出るたびに周囲が神経を尖らせる事を察知したのかもしれない。
だからこそ土方が何かを言うまで、自分からは問わぬと決めているようだ。
それでもその瞳の中に、はっきりと問いが浮かんでいる。

なぜ自分の所に来ないのか。
何があったのか。
話して欲しい、会わせて欲しい。

言葉よりも雄弁なその瞳が繰り返し問いかけてくる。
そして何も口にせぬ土方から何かを感じ取っているのか、日に日に総司の影が
薄くなっていくような気がしてならない。

病が発覚して以降、己が身から神谷を遠ざけようとしていても、その気配を
身近に感じていた頃はこれほどに弱々しい気では無かったはずだ。
襖越し障子越しに聞こえる神谷の声に、その気配に、穏やかな笑みを浮かべては
見舞っている土方に 「相変わらずですね、あの人は」 と語りかけてきた。
あの頃はまだ生きるという事に心が向かっていたはずだ。

けれど・・・。

今日の昼間、近藤との打ち合わせに向かった医学所で総司の病間にも立ち寄った。
廊下に腰を下ろしぼんやりと庭を眺めているその背中に、はっと胸をつかれた。
土方は気配を殺していたわけではない。
だというのに剣豪として名を馳せたこの男が自分の気配に気づきもしない。
その事実が土方に総司の心内を覚らせた。

何もかもを諦めきり、ただ静かにその時が来る事だけを待つ。
いや、待ってなどいない。
すでに全てから心を離してしまっているのだ。
手の中に握りこんだ砂がサラサラと零れ落ちてゆくのを。
波が打ち寄せ去ってゆくのを。
火に投げられた紙が形を無くし崩れてゆくのを。
ただ感情も無いまま眺めているように、そこに在るだけの存在。
路傍の石よりも、尚、無為の存在に成り果てようとしているのだ、この弟分は。

動揺のまま手をついた傍らの障子がカタリと音を立て、ようやく総司が振り返った。
その面に浮かんでいた感情の失せた笑みに、土方は自分の考えが正しい事を確信した。



「まさかな、総司にとって神谷があんなに大きい存在だとは思いもしなかったぜ」

その言葉に斎藤も神谷と離れてからの総司の様子を思った。

「神谷は錨のようなものなのかもしれません」

「いかり?」

「ええ。ふわふわと海の彼方に漂っていこうとする、全てから離れてしまおうとする
 沖田さんを止める錨です」

土方の脳裏に江戸までの海路で幾度も目にした巨大な船の錨が描かれる。

「もはや我々と共に戦う事が困難だという事は沖田さんも理解している。
 剣を握る事ができないという事は、あの人の命を奪うにも等しい。
 けれど神谷がいるから、あれが自分の後を離れずじっとその背を見つめているから、
 沖田さんは全てを諦め気力を失う事を自分に許さずにいた」

しんと静まり返った室内に斎藤の言葉だけが広がっていく。

「何があろうと自分が気力を失わず、前を見つめ続ける姿を神谷に見せる事。
 それがあれをずっと育ててきた沖田さんにとっての最後の支えだったのでしょう」

「それが、消えた・・・」

「ええ」

二人の間に落ちた沈黙はあまりに重かった。











出来る事なら寒風吹きすさぶ真冬に野宿は避けたかったが、少しでも早く岡崎を抜け
幕府領へ入ろうとした矢先、次の藤川宿に辿り着く途中で激しい雨に降られてしまった。
昼前から小雨は降り続いていたが、数歩先さえ白く煙るような豪雨になるとは
予想もできず、無理に先を急いだ事が失敗だったのかもしれない。
仕方無く近くの集落の外れにあった粗末な農作業小屋らしき場所に入り込み、
小さな焚き火だけを頼りに夜を過ごす事になった。


江戸へ向かうのに最も大きな壁だと思っていた尾張藩は、気が抜けるほど平穏に
通り過ぎる事ができた。
領内に入る手前の桑名が厳戒態勢な事で幕兵の流入が少ないと見越したためか、
早い時期から朝廷方に組していた余裕からか、幕臣と思われる人間の事も
見て見ぬ振りという扱いをしていた。

「幕府の仲間を裏切った後ろめたさがあるんと違うか?」

辰吉は冷たく言い放ったが、セイはこれが大藩の余裕というものかもしれないと感じていた。
そして尾張を抜けた刈谷や岡崎の小藩を通過する時に、そのセイの予想が
正しかったと知ったのだ。

刈谷藩の知立宿も岡崎藩の城下町も尾張の鷹揚とも言える態度と正反対に
“敗残兵を狩る”としか表現できない厳しい取り締まりが行われていた。
二本を差し、東へ向かおうとする武士は悉く手形を改められ、それを持たない
幕府方の兵は有無を言わせず牢へと連行されてゆく。

「逆らうものは斬ってかまわん! 朝廷に逆らった逆賊だ!」

捕り方である組頭らしき男の怒鳴り声がいつまでもセイの耳に残っていた。
逆賊はどちらなのか。
つい先日までは確かに同じ徳川の家臣だったのではないのか。
叫びたい思いを血が滲むほどに唇を噛み締めてセイは耐えた。
こんな場所で自分の素性を露呈する事などできないのだから。

すでに彼らがいずれ東征するだろう薩長に下るつもりである事は確かだった。
徳川親藩である岡崎藩まで辿り着けば、それ以東は幕府の勢力圏だと信じていた
セイ達の思惑は大きく裏切られた。
この調子ではどこまで行けば安全な領域に入れるのか予想もつかない。

尾張を抜けるまで、と言って着いて来ていた辰吉が「安全とわかる場所まで」と
強行に言い張って同行を続けているのも無理も無い。



粗末な小屋の屋根を叩く激しい雨音がようやく静かになった。
時折強く吹き込んでくる隙間風は相変わらずではあるが、どうやら雨は上がったらしい。
明日の行程を考えれば早い内に雨が止み、道の泥濘が少しでも緩和される事を願ってしまう。
冬の冷たい雨に濡れ、隙間風に晒されて冷え切った肩を抱くようにセイが体を小さく縮めた。


ひょうぅぅぅぅぅぅぅ・・・・・・


どこからか物寂しげな音が聞こえてくる。
その音はお互いに話す事も無い二人の耳に大きく響いた。

「何の音やろ?」

辰吉が小首を傾げる。
向かいに座っていたセイが焚き火に枯れ枝を放り込みながらポソリと答えた。

「虎落笛ですよ・・・」

「もがりぶえ?」

「ええ。風が木立を吹き抜ける時に出す音の事だそうです。まるで笛の音のようでしょう?」

言われて辰吉は耳を澄ます。


ぴぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ・・・・・・


「ああ、なるほどなぁ。神谷はんは色々と物知りなんやなぁ」

ようやく話の切欠がつかめた事に気を良くしたのか、楽しげに話しかけてくる。

「私も教わったんです・・・」

炎から視線を外さぬままにセイが呟く。
その様子から物思いに沈んでいくのを覚ったように、辰吉は再び口を閉ざした。



(虎落笛かぁ、懐かしいなぁ)

夜中の巡察の時、不意に響いたその音にビクリと肩を揺らしたセイを笑いながら
総司が言ったのだ。

(多摩ではね、よく聞いたんですよ。冬になると木々が葉を落として硬い幹と
 枝だけになるでしょう? そうすると木立の間を吹き抜ける北風が
 鋭さを増すのか・・・笛の音のように響くんですよね)

町中では竹垣の間を強風が一気に駆け抜ける時に音を出すのかもしれない。
遠く近く、鳥の鳴き声のようにも人の嘆きの叫びのようにも聞こえるそれは、
ひどくセイを不安な気持ちにさせたものだ。

(子供の頃はね、夜中にこの音で目を覚ましては何か得体の知れないものが
 襲い掛かってくるような気がしたものです)

深夜という事もあり、声を抑えて囁くように耳元に落とされた声音が甦る。

(でもね、今は懐かしいなぁって思うんですよね。多摩の皆はどうしているかなぁって)


遠い目をしていた彼の人は、今頃多摩に戻っているのだろうか。
幼い一時期しかいなかった、と言っていたけれど、やはり彼にとっての彼の地は
故郷と呼ぶべき場所なのかもしれない。
叶うことならば、その懐かしき土地で心安らかに過ごしている事をただ祈る。


「神谷はん」

炎の中に何かを探すようにじっと動かぬセイに辰吉が声をかけた。

「明日も早よから歩くんやろ? 俺が火の番をするよって、少しでも休んどき」

「ありがとうございます。ですがもう少しこの先の事を考えたいので、
 先に休んでください。適当な所で変わってもらいますから」

セイの言葉に辰吉は何か言いたそうな顔をしたが、そのまま黙って従った。
昨夜もセイがろくに寝ていない事は分かっている。
冷たい床板とて横たわるだけでも随分体の疲れは緩和されるものを、
セイは刀を抱えるように壁に寄りかかったままで朝を迎えているのだ。
足元がどうにか見えるようになると同時に歩き出し、辺りが真っ暗になって
初めて足を止める。
そんな旅を既に二晩続けている。
先は長いというのに、こんな状態では無事に江戸に辿り着けるとも思えない。

けれどそれを言った所で神経を張り詰めきったセイの耳に届くと思えなかった。
だから辰吉は言葉を飲み込む。
せめて少しでも幕府の力が強い領域に入れば、多少なりともセイの心に
余裕が生まれるかもしれないと、それを願った。



ひょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ・・・・・・


虎落笛が響く。
遠き地にてセイを案じる男の呼び声なのか。
それは夜が明けるまで止むことはなかった。