瀬をはやみ



   8



東海道の御油から脇道である姫街道に入った。
この道は東海道の新居の関所の厳しい取調べを嫌う者達が利用する脇道で、
御油から見付までの間を山沿いに通っている。
東の箱根と西の新居は調べの厳しい関所として知られている。
特に新居は女子に対しての改めが厳しいと言われていた。
それだけに途中に峠越えがあり、本来であれば女子が敬遠したがるこの山沿いの道が
姫街道とも呼ばれ、女子が選ぶ道となっていったのである。

セイにしても面倒な調べは御免であったし、何よりも新居宿と舞阪宿の間にある
浜名湖の渡しを避けたかった事情もある。
この先にも川渡しはいくつもあるが、何もできずに船が出るのをただ待つ時間は
出来る限り減らしたい。
それぐらいであるならば多少険しい峠道があろうと、自力で前へ進める方を選ぶ。
セイのその判断に辰吉は黙って従った。


ちらりと辰吉はセイの様子に目を走らせた。
姫街道に入る前から様子がおかしい。
疲労が蓄積されている事は判っているが、それだけではない何か・・・
心を病む者特有の暗い色が瞳の中に巣食っているような気がしてならない。

セイと共に歩いた道程を振り返る。
尾張を抜け、緊張をほどく間もなく知立、岡崎を通り過ぎた。
藤川の手前で野宿した時には物思いに沈む気配はあったが、特にそれまでと
大きく変わらなかったはずだ。

辰吉の記憶の隅に立ち尽くすセイの姿が引っかかった。
あれは、姫街道に入る直前。御油宿での事だ。
東海道沿いを進めば次の宿場にあたる吉田宿同様に飯盛女が売り物の宿場町は、
騒然とした世情からか旅人の数も減り、どこか閑散とした空気を滲ませていた。
その宿場を通り過ぎようとしたとき、辰吉の袂を引く腕があった。

「お兄はん、今日はここで泊まりまへんの?」

柔らかな声音と甘ったるい脂粉の香りを纏わせたその女は京言葉を使っていた。
その瞬間だ。
数歩前を歩んでいたセイが凍りついたように立ちすくんだ。

ほんの呼吸をひとつふたつする程度の間だったが、女を振り払った辰吉が
セイに追いつき先を促すため見やった表情はひどく強張っていた。
そうだ。
あの時からセイの様子はおかしい。

昨夜、姫街道の気賀宿の関所を前に宿に泊まった時にも口数が少なく、
無事に気賀宿を抜けた今も闇を抱えた瞳はそのままだ。
心なしか足取りも重くなっているように感じられる。
このままの状態で旅を続けるのは危険に対する注意力が落ちる気がしてならず、
何か心内に鬱屈したものを抱え込んでいるのなら、少しでも吐き出させようと
辰吉が口を開こうとした。

その時。




「へへっ。これはまた・・・。駄目だぞ、若い女子がこんな時期に旅なんてしたら・・・。
 襲ってくれと言ってるようなものだろう」

「襲ってくれと言ってるんだろうよ。公方様の一大事という時に暢気に旅なんてなぁ」

「おお、そうだな。だったら遠慮無く、公方様のお力となるべき我々の糧と
 させてもらおうじゃないか」


セイは胸の中で小さく舌打ちをした。
新居関の厳しい改めを敬遠して脇街道へと入ってきたが、身にやましい所が
ある者ならば同様にこの道を選ぶに決まっている。
特に今は四面楚歌とも言える幕府兵たちだ。
警備も厳しい表街道を避けてこちらの道を辿るのは当然の事。

重なる緊張感と疲労だけでなく、今は思い出すべきではないと心の底に
沈めておいた記憶に意識を向けていたためか、そんな簡単な事さえ
失念していた自分にも腹が立つ。


「恐れおののいて言葉も出ないか? 心配はいらんぞ。俺達は公方様の
 お傍近くに仕えるさるお旗本の家中のものだ。女子には優しいのだからな」

だらしなく月代も伸び放題となった顔に下卑た笑いが浮かぶ。
この男達が幕臣だったと言うのか。
武士の誇りも捨て、山賊と僅かの変わりも無いこの男達が・・・。

セイの眼裏に公方様のお役に立てないと涙を零した近藤の姿が浮かんでくる。
出自は百姓であろうと魂は確かに誇り高き武士だった。
あの強く優しい局長が、この堕落した・・・いや、腐りきった幕臣たちに
どれほど見下されてきた事か。

きりりっ、とセイの歯が噛み締められた。

女子姿の自分が、腐ったと言えど三人もの武士を相手にして、
斬り倒せるとは思えない。
囲まれればどうにもならないだろう。
かと言って辰吉が戦力とならない事など、考えるまでもない事だ。

悔しい。
悔しい。
悔しい悔しい悔しい!

それでも今は逃げるしか無いのだ。
自分の身を案じているだろう、あの武士の元に戻る為に。


セイは脳内でここまでの道筋を思い返した。
一か八かではあるが、策を組み立てる。
これなら最悪でも辰吉だけは逃がす事ができるだろう。
思考が整理できると同時に辰吉に囁きかけた。


「合図をしたら関所に向かって全力で走ってください。けして振り向かないで。
 そして関所近くになったら“関所破りがいる!”と叫んで身を隠してください。
 いいですね!」

反論を許さぬ強さをたたえた早口でセイが言葉を放った。

男達が一歩セイに向かって足を踏み出した。

「行って!」

鋭い声に背を押されたように辰吉がくるりと身を翻して走り出した。
気賀の関所から一里も歩いてはいない。
全力で走ればそう時間をかけずに関所まで戻れるだろう。
辰吉にも今のセイが男達と斬り合えるとは思えなかった。
そうであるならば、応援を呼ぶ事が唯一自分にできる事なのだと必死に走る。

その背を追ってセイも走っていた。
女子姿で走ったところでたかが知れているが、せめて一町男達に捕まらなければ
勝算があった。

「待てっ!」

「逃げられるとでも思ってやがるのかっ!」

「ウサギ狩りだぜっ! ははははっ!」

僅かずつ男達の声が近づいてくる。
大きく足を踏み出せないセイは小走りに近く、男達がそんな姿を嬲るかの如く
追い詰めようとしている事が知れた。
木々の間を縫って走る事で男達の速度を殺し、右に左に走り回りながら
目的の場所へと少しずつ近づいてゆく。

ザザッ!!

木立を抜けたセイの目の前に草深い山間であるにも関わらず、
小さな田圃がいくつか現れる。
冬のこの時期は当然本来の務めは休みとなり、水が抜かれて
乾いた土壌をさらしている場所だ。

そこにセイは飛び込んだ。


バシャンッ!!


二日前の大雨のせいでその田には水が残り泥田となっていた。
真白い息を荒く吐き出しながら、身を凍らせる泥水に全身を浸したセイの姿を
追ってきた男達が呆然と見つめている。

金も女も欲しい腐りきったやつらと言えど、この寒空に泥田へと飛び込む
度胸があるとも思えない。
それがセイの狙いだった。

案の定、男達は仲間に向かって「お前が行け」と押し付け合いを始めた。
セイの予想通りに事が進んでいく。
それでもようやく話がついたのか、一人の男が草履を脱ぎ、袴の裾を持ち上げようとした。


「いたぞっ! 関所破りだっ!!」

襷掛けの関所役人と思しき男達が数人、駆け寄ってくる姿が遠目に見えた。
背後から必死に着いて来ようとしているのは辰吉のようだ。
頭から全身泥に塗れた中で、セイの唇がゆっくりと吊り上がった。

これで狩られる対象は逆転したのだ。












「副長!」

医学所の近藤の下へと今後の指針を詰める為にやってきていた土方が、
打ち合わせを終えて近藤の病間を出た所で足を止めた。
かけられた声の方向を見やったその眉間に皺が寄る。

「いい加減にしねぇか、相馬。何度言えば判りやがる。ただでさえ少ない戦力を
 たった一人の隊士を探す為なんぞに西に向かわせる事ぁできねぇんだよ」

苦々しげに語りながら足を止めずに屋敷奥へと向かう土方の背に相馬が続いた。

「せめて箱根まででも」

「しつけぇぞ」

にべもなく切り捨てるその言葉にも相馬は諦めようとしない。
諦められない理由が相馬にはあったのだから。



新選組に入隊した自分は剣の腕を認められたのか一番隊へと配属された。
局長の親衛隊とも言われる一番隊は、隊内でも屈指の剣客達が揃っている。
どれほど気の荒い者達の集まりなのかと内心不安を覚えながらいた自分は、
その仲間達の気の良さと大らかさに唖然としてしまった。

二、三日経って中でも穏やかな風情を見せる山口にそっと尋ねてみた。

「一番隊というのは、もっと殺伐とした雰囲気かと思っていましたが・・・」

その言葉に軽く笑った山口が部屋の片隅を指差した。

「あの人が組長だからな。殺伐としようったって出来ないだろうさ」

目をやった先では隊内一華奢で女子のように優しげな隊士が洗濯物を畳み、
一番隊の組長がそこに擦り寄るように何事かねだっている。

「ねぇ、いいじゃないですか〜。そんなの帰ってからにして、お団子食べに
 行きましょうよ〜。洗濯物は逃げないんですから〜」

「お団子だって逃げませんよ。でも洗濯物は皺になります。こっちが先です!」

すぱりと言葉を返されて、それでも不満顔で唇を尖らせながら小さな隊士の袖を引く。

「誰かにお願いすれば良いじゃないですかぁ・・・」

「そんなに早く行かれたいのでしたら、先生こそ誰か他の人を
 誘われれば良いじゃありませんか」

迷惑そうに袖を払われ、ますますその頬が膨れていった。

「だって・・・誰も一緒に行ってくれないんですよぅ。神谷さんだけなのに
 ・・・冷たいです・・・」

「行かないとは言ってないじゃないですか。もう少しだから待っていてくださいと
 お願いしているんです。邪魔をなさるとその分だけ出かけるのが遅れますよ?」

いいんですか? と顔を覗き込まれて、しゅんと肩を落した風情は
母親に叱られた幼子にしか見えない。
あれが隊で一番の剣豪だと誰が信じる事だろう。
ぼんやりとその光景を眺めていると背後から笑い声が降ってきた。

「はははっ、相馬はあれを見るのは初めてか?」

いつの間にか相田が背後に立っている。

「沖田先生は神谷にだけは理屈抜きで甘えるんだよ。そしていつも一緒だ。
 斎藤先生が“お神酒徳利”と評したのは大正解だよな」

隣で山口も笑っている。

「優しげな顔をして、神谷も大した剣の腕だし・・・新選組の鬼神と阿修羅だ。
 舐めてかかると痛い目を見るぜ」

ニヤリと笑ったその顔は、確かに筆頭部隊の剣客の凄みを感じさせていた。



その男達も今はいない。
あの銃弾が雨と降る中で相田が高らかに叫んだ。

「沖田先生に恥をかかせるような戦いはするんじゃないぞっ!
 そして命があった奴は必ず沖田先生と神谷を守りきれ! いいなっ!!」

「「「応っっ!!」」」

伏見奉行所前で、鳥羽の堤で、その言葉通りに一番隊は常に先頭に立って
斬りこんで行った。
誰よりもこの場に立ちたかっただろう敬愛する上司と、そこに付き添っている
強く優しい仲間の分までと。

そして彼らは冷たいあの場所に倒れていった。



戦に敗れ大坂へと落ち延びた先で生き残った仲間に「お疲れ様でした」と微笑んだ
沖田と神谷の姿を見た時に、散った彼らに誓ったのだ。
命ある限り、約束を守ると。
武士の誓いは金石の如し。
何があろうと違える事は許されない。
まして相手が泉下に眠るものであるなら尚の事。

御公儀に、将軍家に忠誠を誓うのが新選組だ。
けれど逝った仲間達の切実な願いと祈りを無かった事になど出来るはずも無い。
せめて自分だけは彼らの想いに殉じても良いではないか。




「副長っ!」

「くどいっ!」

怪我人とは違い感染に注意が必要な総司は医学所の奥に病間を与えられている。
その部屋まではあと僅かだ。
総司の耳にこんな会話を入れられるものではないと、土方が足を止めた。

「東海道は敵地に等しいんですよ? 誰かが助けてやらなくては!」

「全て手前の責任だ。あいつだって餓鬼じゃねぇんだ。自分の始末ぐらい
 自分でつけるだろうよ」

僅かな揺らぎも見せない土方の様子に相馬の頭にカッと血が上った。


「神谷はっ!」

「声がでかい!」

土方の静止の声と同時に床板がキシリと鳴って廊下の角から総司が顔を出した。

「何を騒いでいるんですか?」

「・・・・・・っ!!」

音が聞こえるような勢いで面から血の気を無くした相馬と対照的に、
土方は頬を怒りに染めた。

「何をふらふらと歩いていやがる!」

「嫌だなぁ・・・」

京の頃と変わらずヘラヘラと笑いながら総司がトントンと腰を叩いた。

「ずぅっと寝ていたら腰や背中が痛くなってしまうんですよ。
 少しぐらい部屋の外を歩いたっていいじゃないですか」

いつもと変わりないその風情に相馬の肩から力が抜ける。
この分では先程の会話は聞かれてはいなかったようだ。

「いいから、部屋へ戻れ。この寒さの中だ、風邪でもひいたらどうするつもりだ」

「もう。土方さんってば、心配性なんですからねぇ・・・」

相馬に小さく会釈をして総司は自室へと戻っていった。
土方はその後を歩きながら、硬く握り締められた総司の拳を睨みつけていた。










その夜。
誰もが寝静まった深更に、医学所奥の一部屋からそっと影が滑り出た。



「どこに行くつもりだ、総司」

影が庭に下りた途端、空き部屋のはずの隣室から声がかけられた。

「・・・土方さん、どうしてここに?」

「そんな事はどうでもいい。旅支度をして、お前はどこに行くつもりなんだ?」

音も無く庭に下りてきて総司の行く手を遮るように土方が立った。

「神谷さんを迎えに・・・」

「どこへだ?」

「京ですよ。」

総司の言葉に土方の肩が微かに揺れる。
その表情は雲に月が隠されている闇の中では目にする事はできない。

「神谷さん、船に乗れなかったんでしょう? 大坂に置き去りになったんでしょう?
 あの人が私の前にこんなに現れないなんておかしいんですよ。
 誰が何を言おうと絶対にあの人が私から離れるはずがないんです」

立ったままでは言葉を紡ぎ続ける事さえ苦しげな、その弱った身を
痛ましい思いで土方は見つめる。

「きっと困ってます。こちらに来ようと苦労してます。迎えに行ってあげないと」

そこまで言って息が切れたのか、小さく咳き込み始めた。

「そんな身でか?」

残酷な言葉だと承知していても言わないわけにはいかない。
苦しげに吐きだされた土方の言葉に総司が苦笑する。

「ええ、こんな身ですが。どこかで馬でも手に入れます。
 それなら多分どうにかなると・・・」

突然ぐいと肩を押され、総司は力無くそのまま地に尻餅をついた。

「無理だな。今のお前じゃ江戸を出る前に馬から転がり落ちるのが関の山だ」

冷たく言い放つ土方の言葉に総司が唇を噛む。
厚い黒雲がつかの間裂け、闇夜にただひとつ現れた光を纏う月が
雷光に打たれる様子が瞳を焼く。
まるで総司にとっての唯一の光を打ち砕こうとするように。


「それでもっ。それでも行かなきゃいけないんです。
 あの人を隊に止めたのは私です。 あの人が安全な場所で
 平和に暮らせるようにしてあげる義務が私にはあるんです。
 だからっ・・・」

「だから迎えに行くと言うのか? どこにいるかも判らぬというのに?
 例え万が一運良く出会えたとしてもだ、お前がいる事が足手まといに
 なると思わねぇのか?」

反論する隙も与えずに土方が総司を追い詰めてゆく。

「長い旅路に耐えられるとも思えないお前に何ができるんだ?
 迎えに行って新選組の沖田がここにいるとばれた所で剣の一つも振れやしねぇ。
 なぶり殺しになって、隊の士気を下げるだけだと何故判らねぇ」

「でも・・・待ってる、あの人は私をっ・・・」

地に座り込んだまま、それでも言葉を返そうとする総司の襟首を掴むと
無理矢理立たせた土方は部屋へと引き摺るように連れ戻した。


「放してっ! 放してください! 私をあの人の所へ行かせてください!
 お願いです、土方さんっ! 土方さんっ!!」

咳をこらえて掠れる声で、必死に言い募る言葉を無視した土方が
乱暴に布団の上へと軽くなったその身を叩きつける。

「いい加減にしやがれ! お前に出来る事はここで大人しくしている事だけだ。
 これ以上、近藤さんに心配をかけるつもりかっ!! 我侭も大概にしろ!」

闇に染まった空間に雷鳴の如き怒声が轟いた。

力無く土方を見上げた総司の瞳から、放たれていた熱が失われてゆく。
近藤には言葉に出来無い程の心労をかけている事など百も承知だ。
それを出されればこれ以上何も言えようはずが無い。

肩を落したその様子を一度強く睨みつけて土方が部屋を出て行った。





静寂の戻った部屋の中、総司は両手で顔を覆う。

浮かぶのはセイの笑顔。

『沖田先生、沖田先生』

零れんばかりの光を纏って優しい声音が耳朶に響く。

どうして、どうして、どうして、自分の体は自由にならない。
危地にいるあの愛しい人を助けにいく事が出来ない。

胸の中で怒りと絶望が渦巻く。
涙さえも出てはこない。
そんなに単純な悲しみではないのだ。

神谷さん、神谷さん、神谷さんっ!!



夕刻から空に広がっていた黒雲が雨を降らせ出したらしい。
屋根を叩く雨音が大きく響き出す。
西から流れてきたこの雲は、セイの頭上にも冷たい雨を降らせたのだろうか。
強くなる風と共に総司の胸にも冷たい風が吹き荒れる。



空が泣き、風が叫ぶ。
放てぬ総司の心を映し。
その夜、世界は慟哭した。