瀬をはやみ



    9



「神谷はん! しっかりせなあかんっ!」

声をかけた所でどうなるわけでもないと承知していながらも、
辰吉は呼びかけずにいられなかった。


気賀関を過ぎた所で幕臣だったと思われる無頼の輩に襲われかけ、
その場はセイの機転でどうにか切り抜ける事ができた。
けれど泥田に全身を浸したセイは、駆けつけた宿場役人達に宿場まで戻る事を
勧められたが、それをやんわりと断り近くの凍りつく小川でその身を清めた。
何かと詮索されては面倒な事になる身ではあるが、真冬の行水が
体に応えぬはずはない。
さっぱりと泥を落し、男姿に戻ったセイではあったが、その頬は完全に
血の気を失い唇は青く震えていた。

次の市野の宿場で泥に汚れた女子の着物を売り払った時には
既に発熱していたのかもしれない。
この先にある天竜川の川渡しが先日の雨で川止めになっていた事を幸いと
辰吉が宿を取る事を勧め、セイも自分の体調を自覚していたのだろう、
そのまま市野に泊まる事となった。

昼過ぎに入った宿で布団に倒れこむように横たわったセイは、夕刻に近づくにつれて
熱が上がり、見かねた辰吉が呼んだ医者にも、重なった疲労と心労のせいで体力の
落ちきった体ゆえ、これ以上熱が上がるようであれば命にも関わると告げられた。



布団に横たわるセイの顔は熱で紅潮し、苦しげな呼吸を繰り返している。
触れた額は燃えるように熱いのに熱の上がり続ける体は寒さを感じているのか
小刻みに震え続けていた。

「・・・はっ・・・お・・・たせん・・・」

うわ言のように呟き続けるのは江戸で待っている男の名で、辰吉は無力な己に
歯噛みしながらセイの額に乗せる濡れた布を代える事しかできない。

「しっかりするんやで。こんなところで倒れている暇なんて無いやろ。
 早よ江戸に戻らんとあかんのやろ?」

江戸、という言葉に反応したようにセイの手が空を彷徨った。
意識ははっきりしていないものの、確かに何かを探している。
彷徨う手を辰吉が握ろうとしても、違うとばかりに払われて困惑したまま周囲を見回した。

ふとセイが野宿の間中抱え込んでいた大刀が目に止まり、もしやと思いながら
それをセイの手に握らせてみる。

その途端、溺れた者が船べりにしがみつくようにその剣をぎゅうと握り締めた。

「・・・おきた・・・せんせぃ・・・」

溜息のような声が零れた。
気のせいか苦しげだった表情が微かに緩んだような気がする。
小さく震える身体は相変わらずではあるが、それでも縋る物のある事が
心を安らがせるのだろうか。
このまま熱が下がれば良いと辰吉はセイの首筋の汗を拭った。








「随分厳しく言ったそうですな」

夜半に土方の部屋を訪れた斎藤が隊士の動静を報告した後に口を開いた。

「・・・・・・総司の事か?」

「他にありますまい」

感情を見せない斎藤の言葉に土方が苦笑する。

「なんで知ってやがる・・・相馬か?」


相変わらず総司の近くから離れようとしない相馬が、前夜の土方との遣り取りを
聞いていたのだろうと察しをつけた。
何も答えない斎藤の様子に自分の予想が正しい事を悟り、大きな溜息と共に
言葉を続けた。

「仕方がねぇだろう。総司が旅なんぞ出来ねぇ事は確かなんだ。
 止めるしかないなら、事実を突きつけるしかねぇんだ」

「そうですな」

責めるでもないその言葉が、けれど逆に自分を非難するように感じる。
土方は不快そうに眉根を吊り上げた。

「総司の野郎はどうしてやがる?」

相馬に話を聞いたなら医学所へ足を運んだのだろうと尋ねてみた。

「食事もせずに部屋に篭ったままだそうです」

淡々と斎藤が答えた。

「大人しくしてるなら、それでいい」

幾分ほっとしたように土方が返したが、斎藤の胸の内は複雑だった。
確かに部屋で大人しくしている総司だったが、誰にも入室を許さずに暖の無い部屋の中、
壁に寄りかかったままぼんやり中空を眺めているだけだという。
あのままでは体に障ると相馬に泣きつかれたのだ。
けれど斎藤が声をかけても総司は何の反応も示さず、ただ虚ろな瞳のままだった。
ただ唯一反応を示したのは斎藤が室内に入ろうとした時だけで。

「入らないでください」

感情の消えた言葉を投げられて、それでも心を壊してしまったわけではない様子に
小さく安堵してその場を離れたのだ。


土方が神谷の生死を関わり無いものと思うように、斎藤も総司の事については
心を砕くほどには感じていない。
確かにそれなりに親しい仲間ではあるが、自分から命を捨てようとするなら、
全力で諌めようとまでは思わないのだ。
それは自分と同等の武士だと認めているからかもしれない。

けれど神谷に関しては違う。
愛しいと思った相手でもあり、失われた友の忘れ形見でもある。
その神谷が命を削り必死に戻ってきたその時に、総司の身に何かあったとしたなら・・・。
考えるまでもなく神谷の嘆きと次の行動がわかってしまう。
そしてそれを自分が黙って見ていられない事も。

憎いとも思える恋敵の為であれ、自分が力を貸さなくてはいけないのだろうと
苛立ちと諦めの混じった溜息が唇から零れた。







「沖田先生。少しでも何か召し上がって薬をお飲みください」

もう何度目になるのか、相馬の声が障子越しに聞こえてきた。
けれど総司の耳には風の音のように意味をなさずに通り過ぎるだけだ。


(神谷さん・・・)

土方の言葉は間違ってはいない。
今の自分に何も出来ない事は誰よりも己が承知している。
否、何も出来ないどころか足手まといでしか無いのだ。

けれど苦しい、そして切ない、何より不安で仕方がないのだ。

この医学所には多くの傷病兵が担ぎこまれている。
ほとんどが自分達同様に西からの船で品川に帰着した者達ではあるが、中には
伊豆あたりで船から無理矢理下ろされ、半死半生の体で江戸へ戻ったという者もいた。
東海道はひどい有様だと言っていた。
各藩は入り乱れて今後の状況を見極めようとやっきになっているし、幕府領である場所でさえ
代官達上部の者が我先にと、江戸で指示を仰いでくる、という言い訳を携えて
土地を離れてしまっているらしい。
そんな状況の中では下位の者達も混乱しないはずがなく、ほぼ無法地帯となっている
土地が多いというのだ。

その話を聞いた時には、「随分肝の据わらない代官達ですねぇ。旅人が大変だ」
と笑って聞き流していたが、セイがその只中にいるとなれば笑ってなどいられない。

華奢なあの身で、この真冬の東海道を旅しているのだろうか。
あちこちで川止めされていると聞いた。
幕兵であるだけで逆賊として追われる事もあると聞いた。
昨年隊士募集で江戸へ下向した土方が「何もかも高騰していて、まともな旅なんぞできやしない」
と言っていたではないか。
宿へ泊まれているのか、ちゃんと食べているのか、無茶をして怪我などしてやいないか。

不安が不安を呼び気が狂いそうだ。

暖の置かれていない部屋はひどく寒い。
けれどきっとセイは何倍もの寒い思いをしているのだ。
あの人の凍えた指先を握り締めて幾度暖めてやった事だろう。
冷たい冷たいあの指先は、今は誰も暖めてくれる者もおらずにかじかんだままなのか。


(神谷さん、神谷さん、神谷さん)

総司の精神が研ぎ澄まされてゆく。
どれほど些細でも良い、セイの気配を感じる事が出来ないものかと。



ブンッ!


静寂に満ちた室内に微かな音が響いた。

カタカタカタ


はっとしたように音の元へと視線をやった総司の眼が驚きに開かれる。
枕元の刀掛けに置かれたままの大刀が音を発していた。
這うようにして近づき手に取ったそれは鞘の中で小さな振動を繰り返している。

鞘に収めたままで強く何かに打ち付けた場合に刀身だけがその衝撃で小さく振動し、
このような揺れを起こす場合はある。
けれど今は誰一人として手を触れてなどいない。

手の中の大刀を鞘からスラリと抜き放った。
刀身に振動の気配は無い。
けれど何かが総司に流れ込もうとしている事はわかった。


「・・・神谷、さん・・・?」


刀には魂が宿るというのは遠い昔から語り継がれている事だ。
この大刀が最も剣を交えたのは敵の誰でもなく、日々の鍛錬や神谷流の稽古を重ねた
セイであった事は間違いない。
そうであれば、どこかでセイの大刀と繋がりが生じてもおかしくないのかもしれない。

研ぎ澄まされたその刀身を見つめているうちに激しく咳き込み始めた。
身を捩り喉元から上がってきたものを耐え切れずに吐き出す。
白い布団に大輪の紅の華が広がった。
それは幾重にも重なり地に敷き詰められた紅椿のようにも見えて。
総司の身から力が失せていく。
意識を失い布団につっぷした総司の手に、武士の魂は強く握りこまれたままだった。













右も左もわからない、霧の中のような場所に立っていた。
なぜこんな場所にいるのか、今まで自分が何をしていたのかが総司には
どうしても思い出せず、不安そうにきょろきょろと周囲を見回す。

どろりとまとわりつく大気の向こうに見慣れた後姿を見つけた。
白い単姿の華奢な背中を見間違える事などありえない。

(また、あの人はあんな姿で・・・風邪でも引いたらどうするんでしょう)

慌てて自分の羽織をかけようと胸元に手をやった時に、自分も単しか
身につけていない事に気づいた。
あっ、と思った時、セイの肩にふわりと羽織が掛けられる。

見覚えの無い男がセイの隣に寄り添い、その肩を抱き締めていた。
その男を見上げるセイの表情はとても嬉しそうで、総司の胸がキリリと痛む。

(その男は誰ですか?)

心を許しきったその表情は自分以外に向けられる事は無かったはずではないのか。
何やら必死に話しかけているセイの元へ行こうとするのだが、
足が何かに掴まれているように動こうとしない。

苛立ちながら再びセイに視線を戻すと、いつの間にやらその周囲に人垣が出来ている。
それらは皆、見慣れた顔ばかりなのに総司の存在に気づかぬようにセイにのみ
笑顔で話しかけている。
その様子を見ていると、総司の内心に不安が沸き起こってゆく。

(藤堂さん、山南さん、井上さん、相田さん? 私に気づかないんですか?)

声をかけようとしても声が出ず、セイを取り巻いた男達が総司から
引き離そうとするかのようにセイを連れて歩み出した。

(神谷さん! 駄目です! 行かないで!!)

理由は判らない。
けれど止めなくてはいけないと何かが強く自分に命じている。

(神谷さんっ!!)

その声が聞こえたのだろうか、セイが振り返った。
けれどやはり自分の姿は見えていないのか、小さく首を傾げている。
大きな男達の背が総司とセイの間に壁の如く立ちはだかろうとした。

ドンッ!!

男達の影にセイの姿が隠れてしまう寸前、仲間達の輪の中から伸ばされた腕が
セイを強く押し、総司の方へと突き飛ばした。
はっと、その腕の主に視線を向ける。

(山崎さん?)

批難じみた視線を山崎に向ける仲間の頭上に鉄扇が振り下ろされる。
中村が、新見が、相田が頭を抱えてその場から離れようとした。

「この、馬鹿者どもがっ!!」

懐かしい怒声が空間を振るわせた。
その一声で呪縛が解けたように総司の足がセイに向かって動き出す。

「神谷さん!!」

腕に抱え込んだ小さな体は燃えるように熱い。
その熱が引き金となったように、総司の中で全ての記憶が繋がってゆく。
この場所がどこなのかなど判らない。
夢の中なのだとしても構わない。
腕の中にいるこの人の存在が確かならば、それだけで良いのだ。

「何か、何かあったんですか?」

熱を発し続けるその体を抱き締めて総司が性急に問いかけても、
セイはただ首を振って総司にしがみつくだけだ。
小さく震えるその体が今にも消えてしまいそうで、総司の腕に力が増してゆく。

「いったい何が・・・」

顔を上げた先では芹沢と山崎が見慣れぬ男を挟んで微笑んでいた。
その少し後ろに深く頭を下げる女子の姿がある。

ああ、セイに何事かがあって、彼らが彼岸へ向かおうとするその魂を
こちら側へと戻してくれたのだと総司は理解した。

困ったような表情を浮かべるその男に斎藤の姿が重なるようで、ようやく総司にも
その男の正体がわかった気がする。

「すみません。芹沢先生、山崎さん、祐馬さん。ありがとうございます」

その言葉にはっとそちらを振り向いたセイが、女子の姿を見止めた途端
それまで総司に縋るようにしていた腕を大きく広げ、総司の体を包むように
抱きついてきた。

「神谷さん?」

総司の体を熱が包み込む。
セイの行動はまるで何かから総司を守ろうかとするようだった。
困惑したまま問いかけようとした総司の瞳が大きく見開かれた。

「神谷さん!!」

セイの輪郭が滲んでゆき、腕の中の感触が薄れてゆく。
身を包んでいた熱も感じられなくなり、空を抱く頼りなさが残るだけだ。

「神谷さん! 貴女は今、どこにいるんですか? 迎えに行きます、
 行きますから教えて、教えてください。今、どこに!」

総司が全てを言い終える前にセイの姿は消え去り、つかの間の幻ともいえる
邂逅の時が終りを告げた事を知る。


「・・・・・・神谷さん・・・」

ぽつりと落した言葉を最後に総司の意識も白い闇に飲み込まれていった。