瀬をはやみ
10
「気がついたか?」
聞きなれた声に総司が瞼を無理矢理押し上げた。
小さく絞られた行灯の灯りが脇に座る男の影をゆらゆらと壁に映し出している。
深夜に近いのだろうか、外からは微かな物音さえも聞こえては来ない。
全身が酷く重い。
少し体を動かそうとするだけで節々が悲鳴を上げている。
「私・・・は?」
自分の声がひどく掠れている事にも驚きながら、布団から起き上がろうとした
総司の身を斎藤が押し止めた。
「アンタは高熱を出して丸一昼夜、生死を彷徨っていたんだ」
そっけない言葉を口にしながら、それでも気になったのだろう土方が
止める相馬を振り切って総司の病間に踏み込み、血まみれの布団に
倒れ伏すその身を見つけた。
とっさに自害したのかと思い、慌てて抱き起こした体は高熱を発していた。
松本法眼の診察で風邪から来る高熱だと聞いて安堵したが、
弱った総司の身にそれは命取りとなりかねない事は確かでもあり、
熱が下がるまで誰もが生きた心地がしなかったのだ。
「情けないですね・・・」
苦々しい声音で総司が呟いた。
「全くだな」
容赦の欠片も無く斎藤が言い放つ。
「愛弟子が必死に戦っているだろう時に、師匠であるアンタが
そんな情けない事でどうする」
「斎藤さん?」
「何も出来ないと拗ねて自分を痛めつけて、それで何かが変わるとでもいうのか?」
「いえ・・・何も、変わりません・・・」
総司が静かに瞼を閉じた。
その表情から熱を出す前までの尖りきった気が失せている事を感じて、
斎藤が怪訝そうに問う。
「何かあったのか? 随分落ち着いたようだが・・・」
目を閉じたままで総司が薄く苦笑を浮かべた。
「自分でもどう解釈したら良いのかわからないんですけどね・・・。
夢を見たんですよ。神谷さんに会う夢を」
総司が高熱を出している間中、相馬がずっと看病をしていた。
熱に浮かされて意識が無いはずの総司がふと目を見開き「神谷さんは、無事です」
と、ただ一言告げたのだと言う。
それはまるで神託のような響きを持っていたと相馬が語った事を思い出す。
「たぶん何かはあったんだと思います。生死の境に足を踏み込むような事が」
ぽつりぽつりと続けられる総司の言葉に耳を傾けた。
「でも芹沢先生や山崎さん、それに祐馬さんが此岸に押し戻してくれてました」
くすくすと笑う総司の耳に、懐かしい鉄扇が風を切る音が響く。
あの音を聞いたのはどれほどぶりだろうか。
「だから大丈夫。あの人の事は皆が守ってくれています」
黙って話を聞いていた斎藤が小さく溜息をついた。
「そうか・・・。だったら尚更アンタの出番は無いな。それに、アンタが迎えに
行った所で神谷は喜ばんぞ。どうして大人しく療養していないのか。
どうして自分を信用しないのかと怒られるのがオチだ」
総司がようやく目を開いて斎藤を見つめる。
「山崎さんだって最後まで信じていたぞ。副長が言った言葉をな」
「土方さんが何て?」
「神谷は命ある限り必ず沖田さんの下に戻ってくるとな。
・・・火に惹かれる虫の如く・・・と例えたか」
「土方さんらしい例えだけど・・・ひどいですねぇ。それじゃ神谷さんは
私に焼かれちゃうじゃないですか」
くくくっ、と喉の奥で総司が小さく笑い声を漏らした。
セイの現状を知ってからの己を責め追い込むが如き緊張感はなりを潜めていたが、
頬に貼り付けた笑みは淡雪のように儚い。
その消えてしまいそうな存在感に内心で眉根を寄せながら斎藤は言葉を重ねる。
「それにな、山崎さんが副長に約束して逝ったそうだ。神谷が彼岸に近づく事があれば、
自分が必ず此岸へ押し戻す、とな。あの人は約束を守ったんだろう」
真摯な斎藤の眼差しに総司がコクリと頷いた。
「あんたは神谷を信じて動かない事だ。それでこそ神谷は戻る事ができる。
新選組の沖田総司を目指して真っ直ぐに、必ず駆け戻って来るさ」
呟いた斎藤の言葉は確信に染まっていた。
けれど総司の瞳の中には暗い影が広がっている。
真っ直ぐに自分を目指してセイは戻ってくるだろう。
その身にいくつもの傷を負い、心をすり減らしながら。
そんな少女に自分は何もしてあげる事は出来ないのだ。
ただこの守られた場所で伏して待つだけ。
無為の存在としか思えぬ我が身を改めて実感した時、総司の中の
生きようとする意思は静かに、そして緩やかに蝕まれはじめていった。
市野宿で高熱を出したセイだったが、翌朝にはすっかり熱は引いていた。
まるで誰かが病を肩代わりしたかのように。
けれど高熱の後遺症が残っていないはずもなく、辰吉がもう一晩
ここで休む事を勧めるとセイは素直に頷いた。
一刻も早く出立したいと言い張る事を予想して、どう説得しようかと
頭を悩ませていた辰吉も、これには一瞬気を抜かれた。
セイには思うところがあったのだ。
自分が万全の状態でなければならない理由が。
そのセイの思惑を、すぐに辰吉も理解する事となった。
天竜川の川越をしてそれほども歩かぬうち、セイ達の目の前に見覚えのある
三人の男が現れた。
相変わらず下卑た笑いを口元に浮かべてはいるが、その目の中には
押さえるつもりもない怒りが滲んでいる。
「ふん。武士の格好をすれば俺達の目を誤魔化せるとでも思ったのかも
しれないが、生憎だったな」
「先日の借りは返させて貰うぞ」
「あの時に大人しく捕まっておけば良かったと、たっぷり後悔させてやるぜ」
使い古された脅しの言葉にセイは内心で侮蔑の笑いを浮かべた。
先日関所役人が手ぶらで戻ってくるのとすれ違った時に、
この状況は予想していたのだ。
京で総司が言っていた事がある。
つまらぬ者ほど己の矜持を傷つけられた事に憤り、その怒りを癒すために
くだらぬ事を考えるのだと。
それは武士の皮を被った愚物も無頼の輩も代わりは無いと。
『だからね、そういう輩は反撃する気が起きないようにしてあげるんですよ』
日頃穏やかなその男が、逆恨みから執拗に土方を付け狙っていた無頼の徒を
凍えた眼差しで切り捨てた後に呟いた言葉だ。
総司の最も近くに居て、その教えが骨身に沁みているセイはそれを覚えていた。
「辰吉さん。木登りはできますか?」
「あ、ああ・・・」
唐突なセイの言葉に一瞬その意味を取れなかった辰吉だったが、すぐに頷いた。
「でしたら後ろの木に登っていてください。すぐに終ります」
サラリと口にしたセイは背後を振り向こうともしない。
けれど自分がセイの足手まといになるのだろうと理解した辰吉は、
すぐにするすると樹上の人となった。
スラリと鞘から刃を抜き放ったセイに目を見開いた男達がどっと笑い出す。
「扱いなれない物を振り回したら危ないぞ」
「そんな細腕に武士の魂は似合わないものを」
口々に投げられる言葉にもセイは全く反応しない。
ただ相手との間合いを計り呼吸を整えているだけだった。
「仕方があるまい。少〜し相手をしてやるか」
「おお、身の程を知らぬ愚かな女には仕置きも必要だろう」
げたげたと笑いながら男達が刃を構える。
それが合図となった。
辰吉は信じられないものを見るような心地でその光景を見下ろしていた。
先頭を切ってセイに斬りかかった男が刀を振り上げた時には既にセイは
その横を通り抜けざまに脇腹を大きく斬りつけていた。
その背後から迫っていた男は予想外の速度で自分の前に現れたセイの姿に
目を大きく見開いた瞬間、その首筋から血を噴き出し音を立てて倒れてゆく。
最も後ろにいた男は目の前で何が起きたのか理解できないとばかりに
反射的に足を止めた。
その正面には息を乱す事も無く小柄な武士が刃を構えている。
カタカタカタ
男の腕から震えが伝わり鍔が小さく音を立てる。
「お、おまえ・・・いったい・・・」
無力な子兎と信じて嬲ろうとしていた相手が、実は獰猛な獣であった事に
ようやく気づいた男の声は掠れている。
セイは口を開こうとしなかった。
こんな者達に名乗る名などありはしない。
セイの殺気が強まった事に気づいた男が奇声を上げて踏み込んできた。
鈍りきった鈍重な男の剣先など避ける事は容易い。
半身を開いて刀の軌跡から身を反らしたままで、男の体が流れてくる場所に
無造作に刃を出した。
踏み込んだ自分の速度でセイの刀に深々と身を貫かれ、言葉を発する事も
出来ぬままに男は絶命した。
キンと冷え切った山間の街道は静寂に包まれた。
唖然としたままの辰吉の視界の中ではセイが懐から出した懐紙で
刀の血を拭っている。
はらり
鮮やかな朱に染まった懐紙が数枚風に舞った。
白と赤の乱舞の中、薄く笑みを浮かべた華奢なセイの姿はこの世のものとも
思えぬほどに凄烈で。
「終りましたよ・・・」
静かに声をかけられて、始めて辰吉は自分が息さえも止めていた事に気づいた。
新選組の阿修羅の姿は凄絶に美しく、そして恐ろしかった。
うつらうつらと覚醒しているのか夢の中なのか理解し難い状態で
総司は布団に横たわっていた。
先日高熱を出してから、気力も体力も無くしてしまったかのように
全身のどこもかしこも力が入ろうとしない。
時折相馬や医学所の人間が現れて食事や薬を取らせようとするが、
それにも形ばかり口をつけるだけで、自分から何かをしようとする気力も
沸いてはこない。
あやふやな意識の中に女子の泣き声が聞こえてきた。
『堪忍、堪忍え、沖田せんせ。堪忍・・・』
喉の奥から搾り出すような小さな小さな泣き声が耳朶に纏わり付く。
ああ、またあの夢か、と総司は内心で溜息を吐いた。
貴女のせいではないと幾度告げても最後まで謝っていたと後に聞いた。
全ては自分の愚かさが招いた事なのだと呟きながら、
総司の意識は夢に引きずり込まれていった。