瀬をはやみ



   11



「お久しぶりです」

部屋で待たされていた総司が笑みを浮かべた。
それを眩しそうに見ながら小花は禿や仲居を下がらせた。

「お呼びたてして、すんまへん」

小さく頭を下げた小花に総司が首を振る。

「いいえ。そんな事は構いません・・・神谷さんの事でお話があると
 文にありましたが、何か?」

小首を傾げて問う総司から視線を反らした小花が口を開いた。

「・・・・・・神谷はんの秘密、うち知ってますんえ」

総司の表情が一瞬固まった。

「隊の上の方が知らはったら困るんやないやろか・・・」

「何の事です?」

惚けようとした総司に小花は逃げ道を与えようとはしなかった。

「先に沖田センセがうちを身請けしよう言うた時、神谷はんここに来はったんえ。
 きっとどこかで話を聞かはったんやろなぁ。店の前まで来て泣きながら帰らはった。
 好いた男はんが他の女子を囲うやて辛かったやろなぁ・・・」

総司は言葉無く小花の唇を見つめていた。
セイが自分に恋情を持っているなど考えた事も無かったのだから。

「明里姐はんに以前聞いてた神谷はんの月に三日の居続けも、女子だったら
 すぐに思い当たる事どす」

「・・・・・・・・・・・・」

言葉を忘れたような総司に小花が笑いかけた。

「うち、沖田センセにお願いが・・・」




切々と自分に対する恋情を訴えられ、セイの秘密を忘れる代わりに一度で良いから
抱いて欲しいと乞うその言葉に総司は首を振り続けた。
セイを好いているから出来ないというのか、と責める小花の言葉には
笑って違うと言い切った。
自分は一生女子に触れない。
自分の誠を貫く為に生涯不犯の誓いを立てているのだ、と。

話の途中で幾度も咳き込む小花の様子から総司は気づいていた。
その身に巣食った伝屍の病に。

とにかくセイの事はひとまず脇に置いて、小花を身請けし療養をさせる事として
休息所を用意した総司は小花を引き取った。



非番の度に小花の元を訪れる総司にセイは何も言わなかった。
ただじっと屯所を出て行く男の後姿を見つめるだけで。
背中にセイの視線を感じながら総司はどうしたら良いのか判らずにいた。

セイは愛しい。
小花に言われるまでも無く自分の気持ちは認めていたのだから。
ただ自分の気持ちを自覚していようとも、その想いを表に出すつもりは全く無かった。
自分にとって守るべき物は近藤以外に持つつもりは無かったからだ。

けれどセイが自分を男として慕っているというなら、応える事のできない
自分の傍に置いておく事はあまりに哀れだと思うのだ。
だからといってあの娘が素直に隊を出るとも思えない。
どうしたら良いのかと総司の心は思い惑っていた。



そして冬のある日、いつものように訪れた時に小花の言葉に愕然とした。

「沖田せんせ。そないに監視せんかて、神谷はんの事は誰にも言いまへん。
 そやから、もう来んといておくれやす」

痩せて透き通るように白い肌の女子が切なそうに自分に告げた言葉に
総司は目を見開いた。

「そ、そんなつもりでは・・・」

そうか?
自分の中の自分が問うてくる。
小花を囲って療養させる事で今までの恩を返し、少しでも穏やかに暮らさせる。
確かにそう考えていた。
その自分の気持ちは嘘ではない。
けれど同時に周囲の全てから切り離し、セイの秘密が漏れないようにと
どこかで考えていなかったか?

否定しきれない自分がいた。

「違う! 違いますっ!」

大きく幾度も首を振る総司を小花は哀れみを込めた視線で見つめた。

「私はっ、小花さんに少しでも、穏やかに暮らして欲しいとっ!」

「せやなぁ。沖田せんせはそういうお方はんどす。けど神谷はんが
 一番大切なんと違いますやろか? 自分を偽ったらあきまへんえ」

全てを許すような儚い笑みが総司の胸に痛みを走らせる。
ぐっと胸元を握り締め苦しげに息を吐くその様子を見ながら小花は言葉を継いだ。

「ただ・・・最後にひとつだけ。おユキの事をどこか良いお人のところへ
 養女に出して欲しい思います。それだけお願いしてもええやろか」

眼を閉じたまま、総司は頷いた。




春の気配が漂う頃、大坂の小さな商家へとおユキが養女として
引き取られる事に決まった。
それを知らせに行った時に止まらぬ総司の咳を聞き、小花が顔色を変えた。

「沖田せんせ・・・まさか・・・」

「あははは、最近咳が多いんですよね。風邪が抜けないみたいで」

総司の言葉にも誤魔化されはしない。
小花とて同じ道を通っていたのだから。

「す・・すぐに、すぐにお医師に見てもらわなあきまへん!」

起き上がる事も苦痛なはずの小花が布団から身を起こし、総司の膝を激しく揺する。
涙を滲ませたその必死な様子に苦く笑った。

「そう・・・ですね」

その表情には全てを承知した上での諦めが滲んでいた。
既に自分の病を自覚して、全てを受け入れている事は明白だった。
小花が額を布団にこすり付けて泣き崩れる。

「堪忍、堪忍え、沖田せんせ・・・堪忍・・・」

涙に震え掠れてゆく声が嘆きの深さを物語る。
痩せ細ったその背を総司はゆるゆると起こし、幾度も撫でた。

「貴女のせいではありません。これは全て私の不徳のせいなんです。
 近藤先生への誠だけに生きるべきなのに、中途半端にあちこちに気を向け、
 己の手には負えない物まで抱え込もうとした。そんな私の傲慢さと愚かさに
 天が罰を与えたのでしょう。だから、貴女が気にする事ではないんですよ」

優しく諭そうとする総司の言葉にも首を振って、小花は「堪忍」と繰り返し続けた。




真実、総司は自分の病を誰の責任とするつもりも無かった。
確かに罹患した事を自覚してからは、唯一の己の誠である『近藤の剣となる』
という願いが果たされなくなる事を、嘆いて悔やんで悲しんだ。
何故自分が。
確かに小花の病床近くにいたけれど、直接的な接触は一切持たなかったものを、
と憤った。

けれど、ふと気づいてしまった。
セイの事、小花の事、己の手には余りあり、まともに対処できようもない物を
抱え込もうとした事への罰なのではないかと。
人の生きるべき道に無責任に干渉し、その道を歪めて想いを傷つけ続けた罰。
それが自分に下ったのだと、すとんと納得できた。
現に自分よりも頻繁に小花の元を訪れ、多くの時を過ごしていた里乃には
病の気配もないのだから。

その考えに至ってから総司の心内で荒れ狂っていた嵐がぴたりと凪いだ。
近藤には土方を始めとした仲間達がいるのだから、自分が動ける間に
精一杯の働きを捧げればその後とて困る事は無いだろう。
自分はとても寂しいけれど。

小花の事は自分が顔を出す事が、あの女子の心を尚更に傷つける事は明白で。
そうである以上、ユキの今後を見守る事が何よりの謝罪となるはずだ。

そしてセイは・・・。
あの娘に対しては最後の最後まで凛とした武士でありたいと思う。
散々振り回した自分が許されるとも思わないが、それでもかの娘が慕い
見つめ続けた武士のまま在り続けたい。
そして一刻も早く隊から離し、優しい女子としての生に立ち戻らせる。
きっと自分が出来る精一杯は、それなのだと心に刻んだ。

何より罪深い自分は誰の傍にもいる資格はないのだと、病という形で
天より知らしめられたのだから。





それから総司が小花の元に足を向ける事は無く、小花の死を知らされたのは
四月も終りに近い頃だった。
ユキが元の夫によって取り返される事を恐れていた小花のために、
沖田の縁者として葬る事に決めていた。
小花が総司の縁者である以上、その連れ子であるユキも総司の縁と認められる。
そうすれば総司を通さずに、ユキに関して好き勝手はできなくなるのだから。

結局想いを向けられていた事を知っても、幸薄い女子の為に何一つ幸せを
与えられなかった自分に出来る事はこんな事でしかないのだ。
隊務の合間に光縁寺へと足を向け、小花の眠っている真新しい墓石に向かって
手を合わせながら総司は唇を噛んだ。


「沖田せんせ?」

背後からかけられた声に振り向くと、墓前に供える花を抱えた里乃が立っていた。

小花と隣の山南の墓に花を供え、里乃が手を合わせる。
しばしの沈黙の後に眼を閉じたままで背後に立つ総司に語りかけてきた。

「小花ちゃん、最後まで謝ってはりました」

総司以外では里乃だけが病床の小花を見舞っていたと聞いている。
きっと全てを聞いているのだろうと視線を反らした。

「小花さんのせいではないんですよ。全て私の責任なんですから・・・」

悲しい思いばかりしていた女子が最後まで悲嘆の中にいたのかと考えると、
改めて自分の愚かさが情けなくなる。

「でも・・・沖田せんせに会えた事は、何よりの幸せやった、そう言ってはったえ。
 小花ちゃん、せんせに優しくしてもらえて、ほんまに嬉しかったて」

里乃の背中を総司は凝視した。
何ひとつあの女子が幸せと思える事など自分はしていない。
むしろ小花の思いを踏みにじり、無神経な言葉と行動で
傷つけ続けただけではないか。
そんな総司の心の内など承知しているとばかりに里乃が振り返り苦笑を浮かべた。

「好いた男はんがいつもどこかで自分の事を気にかけてくれはる。
 それがどないに嬉しい事かせんせにはわからしまへんの?
 せんせかて好いたお人にそうされたなら、嬉しいのと違いますのん?」

セイがいつでも自分を気にかけてくれる・・・無意識に総司はそれを考えた。
そして同時に心のどこかがほこりと温まる自分に気づいた。

「小花ちゃんは幸せやったんえ?」

今度こそ里乃の言葉が総司の心に素直に沁みこんでいった。
この瞬間に総司の内に凝っていた小花への罪悪感が、澄んだ音を立てて
昇華されたのかもしれなかった。







『堪忍、堪忍え。沖田せんせ・・・・・・』

女子の掠れた泣き声が遠ざかってゆく。
夢の中で己を責め苛んでいたその声が小さく小さく消えていった。
同時に新たな泣き声が耳を掠める。

『沖田せんせぇ・・・』

ぽろぽろと童のように大粒の涙を零しながら、置いていかないで欲しいと
自分の袖を握り締めていた愛しい娘の姿が浮かぶ。

「神谷さん・・・泣かないで・・・」

眠りの波に揉まれながら総司は必死にセイへと手を伸ばした。
繰り返しその柔らかな頬を滑り落ちる白珠を拭う為に。
その役目だけは他の誰にも譲りたくないと叫ぶ心に従って。

ようやく触れようとしたその白珠が総司の指先で光を放って消えてゆき、
その姿もいつの間にか失せている。
総司はひとりきりその場に佇んでいた。


出会った時は卵だった。
目の前で雛になり、いつの間にか成長していたあの娘は今どこにいるのだろう。
きっと泣いている。
一人ぼっちで泣いている。

あの幻の逢瀬でセイの身を抱き締めた時に流れ込んできた感情は哀しみ。
そして痛みを伴い凍えるような孤独。
あの寂しがりやの娘が、たったひとりでそんな寂しさに耐えている。


「神谷さんっ!」

総司の足が幻の地面を蹴り、西へ向かって走り出した。











金谷宿と日坂宿の間に小夜の中山と呼ばれる急な下り坂があり、
そこの久延寺の周辺に何軒かの茶店が並んでいた。
それまでの道中、最低限の休息しか取ろうとしなかったセイが辰吉に断って
一軒の店の前に立ち止まり何かを購入している。
扇屋と書かれた看板の脇には「名物あめのもち」「子育飴」と大書きされていた。

板でつくった輪ッパが竹の皮に包まれワラで縛ってあるそれを大事そうに
荷物にしまい込むと、セイは再び歩き出した。

「神谷はん、それは?」

しばらく歩いた所で辰吉が問いかける。

「もち米と麦芽糖で作られたとろりとした飴なんですよ。これで赤子を育てた
 と言う伝説があるほど滋養もあるそうです。だから・・・」

飲み込んだ言葉の先は聞かずとも辰吉にも理解できた。
江戸に居るあの武士に持っていくのだろう。


辰吉の察したとおり、セイは総司へと飴を手に入れたのだった。
すでに食欲も落ち始め、あれほど好きだった甘味さえ重いものだと
食べたがらなくなってしまった。
以前江戸から京へと父や兄と向かった時に、幼いセイにと父が買ってくれた事を
旅の途中で思い出し、これなら総司も口にするだろうと嬉しくなったものだ。

栄養価も高い。
きっと総司の身の糧になってくれる事だろう。
知らずセイの足が速まっていく。


先日の夢とも現実ともつかない幻の逢瀬の時、触れた総司の体から
激しい感情がセイに流れ込んできた。
真っ暗な絶望と強烈な不安。
セイの身を案じるあまりの不安なのだと言葉にせずとも伝わってきた。

優しい男だ。
いつもいつも自分を見守ってくれていた男だ。
どれほど自分の身を思い、その安否に心を痛めている事だろうか。
あの男の傍に一刻も早く戻らなくてはならない。
日を重ねる毎に募る焦燥に、セイは己が身に走る現実の痛みを耐え続けていた。