瀬をはやみ



   12



波間を漂う木の葉のように眠りの淵を行きつ戻りつしていた総司が
久々に確かな現実世界で覚醒した。
ぱちりぱちりと瞬く瞼の向こうでは見慣れた無表情が自分を見下ろしている。

「さ・・・いとう・・・さん?」

ぼんやりと問う総司に斎藤が微かに頷いた。

「今、何刻・・・でしょう?」

「日が沈んだばかりだ」

その言葉に総司がのろのろと起き上がった。
新選組の沖田がこれほどに弱っていると外部に知られるのは望ましくない。
けれど宵闇の中であれば自分が外に出たとしても、見咎められる心配は薄いだろう。
そう考えた総司が口を開いた。

「あの・・・お願いがあるんですが・・・」













「神谷はん?」


見付宿の手前で武士の成れの果てともいえる男達を斬り捨てた後、気の休まる事こそ
無かったが、大きな問題もおこらずに旅程を進んできていた。
明日は箱根の峠だと少し早めに宿を取り、布団に横たわっていくらもたたないうちに
セイが突然うなされ出して辰吉は慌ててその肩を揺すった。

はっはっ・・・と、喉元を押さえてセイが瞼を押し開ける。
紅潮した頬が切迫した呼吸の様子を物語り、うつろな瞳には影が広がる。

「神谷はんっ!」

再び呼びかけながら辰吉が軽く頬を叩くとようやくセイの瞳に光が戻ってきた。
けれど自分がどこにいるのか認識できないように、忙しなく眼球だけで
周囲を確認しようとしている。

「ここは三島の宿や。箱根の手前や。わかるか?」

ゆっくりとセイに理解させるように辰吉が言葉を紡いだ。

「あ、ああ・・・そうでした。すみません・・・」

いかにも重たげに半身を起こしたセイが深い深い溜息を吐いた。
その様子を気遣わしげに見守りながら問いを投げる。

「悪い夢でも見たんか?」

口数の少ないこの男が自分をとても心配してくれている事は、旅の間に
セイも感じていた。
命がけの綱渡りのような旅路を文句ひとつ言わずに共に歩んでくれている。
どれほど感謝してもしたりない恩を受けているとわかっている。
けれどそれでも口にしたくない事はあるのだ。
セイは心の中で辰吉に幾度も詫びの言葉を連ねた。

苦い笑みを浮かべただけで答えようとしないセイに、辰吉はそれ以上
問い質そうとはしなかった。


「少し、外の空気を吸ってきますね」

庭に続いている障子を開けると小さな背中が静かに部屋を出て行った。




夢の中で懐かしい男の姿を見た。
周囲を取り巻くのは質量さえ感じさせる絶望。
指先ひとつ動かせず、それでもセイは懸命に男の名を呼んだ。
今にもその暗渠に目の前の男が飲まれていきそうで、必死にその名を呼んだ。
けれどちらりとも振り向く様子のないその背中は頑なで。

名を呼ぶために繰り返し開いた口からセイの中にも絶望が押し入ってくる。
大坂で消えてゆく船影を見送ってから、すでに半月が経っている。
このまま二度と会えないのではないか。
最早かの男に残された時間は潰えているのではないか。
不安に押し潰されるかと思った瞬間、辰吉に揺り起こされたのだ。

目覚めたセイの瞳に焼きついていた男の背中。
真っ暗な空間にぽつりと佇むその背中には見覚えがあった。




屯所の片隅。
総司の病間と定められた部屋の前には背の低い前栽が植えられていた。

夜毎その前に立って風に身を晒していた男の背中を思い出す。
体が冷えるから室内に戻って欲しいと懇願しようと「少しだけ」と言っては
空に浮かぶ月を見上げていた。
けして縁に座すセイに顔を見せることは無く、ただ静かな背中だけが
セイの視野に入っていた。

病がうつる事を恐れた男は、その時だけセイが近くにある事を許した。

がんとした背の向こうで、どんな表情を浮かべていたのかセイには判らない。
誰の前でも平静を保っていようとも、死病に冒された事実に苦しんでいない
はずはなかっただろう。
夜毎に月を見上げながら、荒れ狂う感情を宥めていたのだろうか。
そして今も、ひとり月を見上げているのだろうか。

それを思うと一刻も早く、総司の元に戻りたいと気が狂いそうになる。
たとえ何も出来ずとも、その背を見ることしか出来ずとも、自分が傍にいる事で
ひとりぼっちにする事だけは無いのだから。
あの真っ暗な絶望を、少しでも薄れさせる事ができるかもしれないのに。
ただ傍にいる、そんな些細な事さえも出来ない今の自分が歯痒くて苦しい。

―――沖田先生、沖田先生・・・

月を見上げてセイが呟く。
思いの欠片だけでも、どうか届けて欲しいと。
蒼く降り注ぐ月光の中、細く儚い呟きは長い間途切れる事は無かった。













「ねぇ、斎藤さん」

「なんだ」


墨を撒いたような漆黒の中にうすらとした灯りを燈して浮かび上がる鳥越神社の
社に向かい、地に膝をつき一心に祈りを捧げていた総司が顔をあげた。
春が近いとはいえ一月末の夜気は骨の髄まで冷えを伝えて来る。
病身の総司にはさぞかし堪えるだろうと斎藤は眉根を寄せていた。


療養している西洋医学所から、総司は抜け出していた。
夜明けにはまだ幾ばくかの間がある時刻。
町はシンと静まり返り、光よりも闇の領域を多く残した時間だ。

京でのように自由に身体は動かない。
けれどじっとしていられない気持ちから斎藤に無理を言って
連れ出して貰ったのだ。

おぼろげな星明りの中で、総司が困ったように笑いながら話しかける。

「私はこの病をうつしたくなかったから、江戸に戻ったらあの人を
 手放すつもりでいたんですよね」

医学所からこの神社まではそれほど遠いわけではない。
にも拘わらず社に辿り着いた時には総司の息は乱れていた。
病ばかりではない、心にも巣食った虚無の影がその身を確実に
衰弱させているのだろう。
それを気遣い斎藤は境内にある石を視線で差して総司を座らせた。

「はは、すみません。・・・きっとあの人は随分と抵抗して、絶対に私から
 離れないって言うんじゃないかとか、そうしたらどうやって説得しようかとか
 本当に色々と考えていたんです」

斎藤もそれは感じていた。
時代が大きく動いているのを何処よりも肌で感じ取れる京の地で、
たとえその身は床に伏していようとも、この男の事だ、きっと世の動きを
鋭く察知していたのだろう。
新選組の未来が安定するまで、それまではセイを手元に置くつもりだと見えた。
甲斐甲斐しく世話を焼こうとするセイを時に冷たく、時には強引に己の身から
遠ざけようとしていても。
新選組と係わりを持っていたセイにとって、死病に感染する恐れよりも
外の世界の方が危険だと判断していたのだろう。

けれど江戸の地に戻れば危険はぐんと減少する。
新選組の名は知られていても女子に戻りさえすれば、新選組隊士の神谷清三郎と
セイを繋げて見る者もいないと思えた。

だから江戸に戻ったなら、きっとこの男は神谷を手放すのだろうと思っていた。


「でもね・・・今更なんですが、神谷さんの居ない毎日を過ごしていると、
 つくづく思うんですよ。私にあの人と離れる事なんてできるのかなぁ、って」

照れくさそうに、けれど困ったように総司が笑う。

「今頃気づいたのか」

そっけなく斎藤が答えた。

「ええ、本当に今更ですよねぇ」

そう時を待たぬうちに闇の外套を脱ぎ捨てようとするだろう空に、
ポツリと残った一つ星を見上げて総司が溜息をついた。

「今もね、出来る事なら走って迎えに行きたいって思うんですよ。不思議ですよねぇ。
 京にいた頃は、私の前に現れないで欲しいとまで思っていたのに」

怖かったのだ。
身近にセイがいる事で、いつ病がうつるのかと。
この子だけは健やかに明るい日差しの中を歩んで欲しいと願っていたから。
血に塗れた道に引き込んだのは己であるが、それでも決して歪まぬ娘を
この身に変えても守りたいと思っていたから。

「何だかね・・・思い出すのが泣き顔ばかりで。あの人の本当の笑顔を見たのは
 いつが最後だったのかなぁ・・・。無理して浮かべる笑みではなくて、
 心から笑っている顔が見たいと思うんですよね」

セイの本当の笑顔が見られなくなったのは、自分の病が発覚してからだったと思う。
小花を休息所で囲っていた間でさえ、隊の中では変わらず笑っていたセイだ。
死病を抱えたこの身を気遣うがゆえに笑わなくなったのかと。

けれど実は違うのではないかと最近思うようになった。
病に気づいてからの自分はいつもいつもセイから顔を背け、近づくな、部屋に入るな、
出て行け、そんな言葉ばかりを凍った声で投げつけていた気がする。
自分を慕うあの素直で柔らかな心に、どれほどの傷を負わせていたのだろうか。
それを思うたび、もう一度セイに会いたいと祈るのだ。


「この鳥越神社の名前の由来をご存知ですか?」

総司の問いかけに斎藤が小さく首を振った。

「ずっと昔に朝廷から奥州征伐を命じられた源頼義・義家公がこの武蔵の地で
 大河を渡れず難儀していた時に、一羽の白鳥が飛来して道を示してくれた
 のだそうです。その時から鳥越神社という名になったのだと松本法眼が
 教えてくださいました。できればあの人の事も・・・」

道を示し、ここへと導いて欲しいのだ、と。
飲み込んだ総司の言葉を察する事のできない斎藤ではない。

「ああ、そうだな」

ぽつりと返された斎藤の気遣いに微かな笑みを浮かべながら
総司は明けゆく空を見上げた。


今頃あの子はどうしているのだろうか。
きっと江戸に向かっている。
自分の元へと帰ろうとしている。
それに関して一切疑う気持ちは無い。
あの子の命が潰えたなら、自分にわからぬはずがない。
どのような形であれ、自分の元に飛び来る事に間違いない。

そんな気配をチラとも感じた事はないのだ。
だからあの子は生きている。
必ず無事で自分を目指して歩んでいる。

けれど混乱した道中を、官軍ひしめくその中を、どれほどの苦労をしながら
歩を進めているのだろうか。
困っていないか、怪我をしていないか、また厄介事に巻き込まれているんじゃ
ないだろうか。
繰り返し繰り返し同じ事を憂い、考える程に不安は募る。

できる事なら今すぐに駆けつけて、この腕に抱えて守ってやりたい。
皆が待っているから、一緒に帰ろうと声をかけてあげたい。

けれどそれが出来ないから。
周りに迷惑をかけるのを承知で、信心深いなどとは言えもしない自分が
こうして神頼みをするより他ないのだ。
自分の命で贖えるのならば、どうかあの子の身を守って欲しいと。
そのためならば、動かぬこの身でお百度だって踏むものを。


「会いたいなぁ・・・」

心からの呟きがほの暗い境内にポツリと落ちた。












はぁはぁ、はぁはぁ・・・。

自分の呼吸の音が嫌に耳につく。
辰吉の自分を気遣う視線が背に突き刺さってくる。

けれど足を止める事などできるはずもない。

箱根の関所は無事に越えた。
そこに到るまでに幾つも越えてきた関所や川渡しのように幾ばくの金子を
袖の下として求められ、その上厳しい改めが待ち受けるものと思っていたが、
手形の名を改めるだけでさらりと通された。
余りの容易さに怪訝な表情を浮かべた自分に気づき、関所役人が
手元の書類箱から一枚の文を見せてくれた。
そこには江戸にいるはずの男の見慣れた文字が連ねられていた。

幾人かの隊士の名と特徴、その中でも特にセイに関しては行を使い
「大事の務めを任せられし者故、構えて無用の改め等せず即時の通行を
 許可されたし」と添え書きされていた。

己を鬼と位置づけ、凍えた血を体内に宿す事を定めと決めた男の小さな情に
セイの目元が微かに熱を持った。


待っている。
きっと皆が自分を待っている。
懐かしい仲間達の顔が浮かび、その中心に慕わしい男の笑みが輝く。

足を止める事は許されない。
泣き言など言うつもりもない。
今にも崩れ落ちそうに全身が重く感じられようとも。


はぁはぁ・・・はぁ・・・っ。

視界が霞み、体が前のめりに傾いでゆく。
痛い、熱い、痛い、熱い。
思考ではない場所で体が叫ぶ声が聞こえる。
ふいに足元が硬さを失いぐにゃりと沈んだ。
声を上げる前に凍りついた土の冷たさが頬に触れ、無意識の溜息が零れる。

辰吉の声が遠くから響く中で、セイの意識が薄れていった。













「まだ起きているのか」

溜息交じりの声が庭先から聞こえて静かに総司が視線を向けた。

「斎藤さん・・・」

「毎晩遅くまで月を見上げて、体に障るとわからん訳ではあるまい」

相馬が途方に暮れたように斎藤に泣きついてきたのだ。
幾度嗜めても冷え切った深夜に障子を開け放ち、廊下の際に敷き延べた
布団の中から月を見上げているのだと。
夜気は体を冷やし、いつまた風邪を引き込むかと気が気では無いらしい。

「月を見ていると落ち着くんですよ・・・」

再び空に視線を投げた総司がポツリと呟いた。



「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」

「沖田さん?」

ふふっ、とセイが置き去りになった事を知ってから、頻繁に浮かべるようになった
儚い笑みを零す。

「以前神谷さんが教えてくれたんです。あれは・・・壬生寺でしたねぇ。
 春の暖かな陽射しの中で舞い散る桜の花弁を手の平に受けながら
 歌うように詠んでくれたんですよ」

その時の光景を思い出しているのだろうか。
総司が静かに瞼を閉じる。

「西行法師の歌なんだって教えてくれたんですけれどね。
 その後に何て言ったと思います?」

瞳は閉じられたまま、ひどく懐かしそうに総司が笑う。

「“春に死のうと秋に死のうとどうでも良いけれど、私だったら『願わくは
 誠の下にて 我死なん』と詠みますね!”って力一杯言ったんですよ」

その言葉に斎藤も言葉を継ぎようがない。
確かにセイの心境としてはそうだったのだろうが、それでは風情も何も
無いではないか。
だからそのまま口にする。

「本当に風情も何も無いヤツだな」

「ええ、全くですね」

総司も同感だとばかりに頷きを返す。

「でもね・・・今は少しわかるかな・・・私にとっての“花”はあの人ですから。
 願わくは、あの人の下で逝きたいと思うんですよね」

潜められた総司の声が闇に溶けてゆく。
如月に間に合うかなぁ、あの人・・・と切なげな声が胸をえぐる。

「愚かしい事を言うな!」

知らず斎藤は声を荒げていた。

「神谷はアンタを看取る為に戻ってくるんじゃぁない。アンタと共に歩むために
 必死に戻ってくるんだっ!!」

斎藤の強い語調に総司が閉じていた目を見開いた。

「神谷の前でそれを言ってみろ。顔の形が変わるほどに殴られるぞ」

ああ、たとえ殴られようとあの娘が側にいてくれるならば、それだけで良い。
春でも秋でも構わない。
誠の下で逝けない自分が最後に望むのは花の下で逝く事だけなのに・・・。

斎藤から目を逸らした総司は闇の中に愛しき娘の微笑を描いた。





静まり返った医学所の廊下を激しい足音が響く。
深夜の静寂を乱すその音が真っ直ぐこちらに向かってくる事に
総司と斎藤が目を見合わせる。

廊下の角を曲がって現れた相馬の表情が泣きそうに歪んでいた。


「沖田先生っ! 神谷がっ!!」

その瞬間、総司の周囲で時が止まった。