狭間
< 3.誰そ彼 >
「ここは・・・」
総司が周囲を見回して呟いた。
健脚である二人といえどかなりの距離を歩いた今、すでに月は高く
深更に近い時刻となっている。
ざわざわと風に煽られた竹林のざわめきが夜の深さを伝えてくる。
「嵯峨野・・・どういう事ですか?」
黙りこくったままで歩き続けている斎藤の背に総司が問いかけた。
東の鳥辺野と西の化野は古来から京の二大埋葬地であり
化野の入り口にあたる嵯峨野は幾多の寺院と共に小さな僧尼の庵が
点在するだけのひどく寂しい土地である。
周囲には灯りも見えず、ただ闇に沈む竹林が広がるばかりだ。
そんな場所にセイの行方に関する手がかりがあるというのか。
「斎藤さん?!」
焦れたように総司の声が大きくなった。
それに反応したのか前を歩んでいた男の足が止まる。
「・・・・・・・・・?」
斎藤の足元には小さな石の塊があった。
形としては墓石に近いか。
だが表面には何も彫られておらず、ただずんぐりとその場に蹲っている。
「これに見覚えは無いか?」
「え?」
ようやく半月程度の月明かりでははっきりと見分ける事はできないが、
総司の記憶の中にそんな石の事は残っていなかった。
まして嵯峨野などそうそう来るような場所ではない。
だが・・・。
つい先日隊務で訪れたばかりだった事を思い出し、
その時の事を脳内で一つ一つ検証する。
「あっ、神谷さんが何かに躓いて!」
浪士達の捕縛に訪れたその帰路だった。
セイが小さな石碑に躓いて転びかけた時に手を出して支えた事を思い出した。
総司へ礼を言うのもそこそこに、たいそう熱心に石碑に手を合わせて
祈りを捧げていた姿が記憶の底から浮かび上がってきた。
それがこの石だったかもしれないと周囲を見回しながら総司は内心で頷いた。
けれどそれがどうだというのか。
「アンタ、平家物語を知っているか?」
「は、はぁ・・・。冒頭と“敦盛”程度は幼い頃江戸で、周斎先生のお供で
聞かされた覚えがありますが」
突然の斎藤の問いに困惑しながら総司が答える。
浄瑠璃の“敦盛”は悲哀漂う美談として時代を問わず語られてきた。
試衛館の道場主だった周斎も教養の一端という名目で総司を連れ出しては
自分が楽しんでいたと思われる。
「『横笛』は?」
重ねての問いに総司が眉間に皺を寄せた。
元々平家物語のような叙情的なものを好む性質ではなく、記憶の引き出しの
どこに入っているかさえ怪しいものなのだから。
それに先程からどことなく斎藤の様子がおかしい。
「・・・親と女子のどちらも選べず出家した武士とそれを追った女子の悲恋だ」
「あ、ああ。思い出しました。それも周斎先生が・・・。捨てられた女子が
横笛という名でしたよね」
うんうんと頷く総司を見ようともせず、斎藤の視線は足元の石碑に留まっている。
「平家の総領である小松内府重盛の家臣だった斎藤時頼は御所の滝口武者を
勤めていた。平家の推挙があっての栄職だ。そこで帝の女御に仕える横笛と
出会い恋に落ちたが横笛は取るに足らない家の出で水仕女(みずしめ)だった。
まあ、最下級の使用人だな。時頼の父は当然猛反対だ。せっかく滝口に
勤められた息子だ、当時の常として名家の女を妻とさせて、婚家の力を背景に
今以上の栄達をさせたいと願っていたのだからな」
「斎藤さん?」
日頃口数少ない男とも思えない様子に総司が怪訝な視線を向ける。
感じていた違和感が益々強くなり、我知らず右手が束近くに上がってゆく。
そんなものなど気にするつもりもないと斎藤が言葉を続けた。
「けれど横笛以外の女を妻にする気などないと時頼は突っぱねた。結局は親と
女の板ばさみで出家した時頼は滝口入道と呼ばれるようになる」
「あの、斎藤さん?」
困惑した総司が再び声をかけるが斎藤は視線を向けようともしない。
「滝口入道が庵を結んだのがこの嵯峨野だ。ひと目会いたいと追ってきた横笛は
修行の妨げになると会っても貰えず追い返された。その帰りに哀しみの言葉を
己の血で路傍の石に書きつけたという」
初めて斎藤が総司を振り返った。
「それがこの石だ」
「・・・・・・・・・・・・」
一瞬、斎藤の瞳が赤く光ったような気がした。
――― ヒュンッ
総司の腰から白刃の輝きが走った。
それが振り下ろされた場所にいた男が瞬時に飛びのいている。
常人とは思えぬ跳躍力を見せて。
「・・・貴方は、どなたですか?」
総司の眼が細められ、何も無かったように離れた場所に佇む男を見据える。
「斎藤さんの姿をしていますが、斎藤さんではないですね」
最初から何か違和感を感じていたのだ。
理由を問われれば答えようが無いが、本能の部分で感じたとでも言えばよいのか
何かが違うとしきりに自分の中で警告が発されていたような気がする。
「いきなり乱暴よの。さすがは壬生狼と言うべきか」
斎藤の姿をした男が口端を吊り上げた。
もはや纏う空気は冷静な三番隊組長のものではない。
「この身の詮索は無用に願おう。だが今はお前の敵になるつもりは無い。
信じる信じないはそちらの勝手だがな」
ふふっと風の通り抜けるような笑いが零れた。
「明日だ。その石に封じられていた嘆きに共鳴してしまった娘が
現世に存在できるのは明日までだ。明後日の陽が昇ると同時に
中陰の道を歩み出す事になろう」
「中陰?」
「人が死して四十九日目にあの世に辿り着くという事ぐらいは知っておろう。
それまでは七日ずつ七回、魂の清めが行われる。その間の四十九日を
中陰という。そして明後日の朝日があの娘にとって最初の清めという事だ」
「し・・・死してって・・・では、神谷さんはっ!」
総司の面から音を立てて血の気が引いた。
握り締められた手の中で持ち主の震えに呼応してカタカタと鍔が鳴る。
「まだ生きておる。だが一度でも清めを受けてしまえば二度と戻る事はできぬ」
「どこにっ! 神谷さんはどこにいるんですかっ!!」
走り寄ってきた総司が胸倉を掴む前に男が滑るように後退した。
「今はその場所への入り口が閉ざされておる。
開くのは明日の逢魔刻(おうまがとき)。
あの世とこの世の境が最もあやふやになる時分。
異界へと繋がる場所にそこへと辿り着く道が口を開くであろう」
殷々と託宣めいた深い声があたりに響いた。
伸ばした腕の先にいる男の瞳が再び赤く輝く。
「されどあの娘の嘆きは深い。我知らず横笛の悲哀に引き摺られてしまうほどに。
その嘆きを埋め、こちら側に引き戻すのは並大抵の事ではあるまい。
得る為の代償は小さなものでは無いと心得よ。風を内包せし者よ・・・」
最後の言葉は総司の内にある何かに向けて語りかけられたようだったが、
それ以上の言葉はその唇から零れる事は無く、魂が抜けたが如く
その身体は地に崩おれた。
翌日の夕刻、総司は再び一条戻り橋へと来ていた。
昨夜の斎藤の姿をした奇妙な男が告げた言葉を全て信用したわけでは
なかったが、他に手がかりが全く無い以上僅かであろうと動く機会が
あるというなら動かぬはずもないのだ。
――― かさり
懐に納められた小さな塊が総司の苛立ちを宥めようとする。
今夜の巡察を斎藤に代わってもらうと報告に行った時に土方に渡されたものだ。
(俺は神仏なんざ信じやしねぇけどな。お前も神谷も壬生寺にゃ随分通っていた。
特にあそこの本尊は地蔵だ。子供の守護を司る仏なら、人の手に負えない
事態になっても童の神谷ぐれぇは守ってくれるだろうよ)
渡されたのは壬生寺のお守りだった。
隊士に命じて手に入れて来させるような男ではないのだから、
何か適当な理由をつけてわざわざ足を運んだのだろう。
それはセイの姿が消滅した、という非常識な事態など信じないという
立場を取る男が、実は内心で大層心配している事を表していた。
昨夜地に崩れた身体を抱き起こした時、斎藤は何も覚えていなかった。
戻り橋から後の記憶は全く無いと。
総司にしても上手く説明する事ができず、結局互いに黙って屯所まで戻ってきた。
今夜の巡察を代わって欲しいと頼んだ時も、セイの身に何事かが起きているのを
察知しているのだろうが、あえて何も問わずにただ黙って頷いただけだった。
けれどその瞳の中に総司に対する強い念があった事は確かだった。
セイの無事を託す想い。
恐らく彼女に関わる全ての人間が自分に対して向けてくるだろうものを
改めて自覚した気がした。
(必ず連れて戻りますから!)
黄昏の薄明りの中で足早に家路を辿ろうとしていた人々の姿が
ぴたりと無くなった。
西日も弱々しくなった中で薄く靄がかかったように視界が不鮮明になる。
遠くから聞こえていた町のざわめきも、ねぐらに戻る烏の鳴声さえ
全てが聞こえなくなった時、ふいに橋上の空気が揺らいだ。
総司の眼前でじわじわと床板の中央を侵食するように黒い点が広がり始める。
ちょうど人一人分の大きさに広がった時、その縁は伸縮を繰り返すだけで
それ以上広がろうとはしなくなった。
「開いたぞ」
耳元で聞こえた声に慌てて振り向いた総司の背後には誰もいない。
「え?」
空耳かと眼を瞬いた時、再び声が聞こえた。
「早く行け。閉じるぞ」
その声は苛立ちを乗せ、総司の背中を今にも叩かんとする気配を滲ませていた。
訳が判らないながら総司が穴に歩み寄り片足をそこに踏み込んだ。
そこには一切の躊躇いは無い。
セイを取り戻すのに必要だというのなら、それが何であろうと
躊躇うつもりは無いのだから。
無音の空間というものはこんなに寒々しいものなのだろうか。
感知できる限りの全てに何者の気配も感じられない。
ただ闇が広がり、凍えるばかりの静寂が自分を取り巻いている。
セイは小さく震えて己の肩を抱きかかえた。
まるでこのままこの闇の中に溶けてしまいそうな恐れを感じる。
淋しい・・・。
その感情の揺れに引き寄せられたのか、突然周囲の気が泡立ち始めた。
澱み留まっていたものが一気に渦を巻くようにセイの周りで暴れ出す。
――― カナシイ・クヤシイ・セツナイ・コワイ・サビシイ・さびしい・淋しい
負の感情を集めた暗く悲嘆に満ちた声無き声に四方八方から責め立てられて
セイが悲鳴を上げようと息を吸い込んだ。
『大丈夫』
ふわりとセイの身体を何者かの腕が包み込み、それと同時に
怨嗟の気が遠ざかった。
『貴女はわたくし達と同じ哀しみを知る者。何も恐れる必要は無いのです』
「哀しみ?」
『ええ、魂を引き換えにしようとも構わぬほど愛しい者を得た娘。
けれどその想い故に心縛られてしまった哀れな娘。
愛しい者に受け入れられぬ嘆きを知る娘。けれど何も案ずる事は無い。
この地にて愛しいその方がいつの日か迎えに来てくださる事を待てば良い』
セイが大きく首を振った。
「迎えになど来てはならぬのです! 私の事など捨て置いてくださらなくては!」
『自分の想いを殺す事に慣れてしまった哀れな娘。それが願いならそれも良い。
ゆるりとここで心を癒すが良かろうて・・・』
セイの周囲を白く半透明な幕が覆っていく。
それは同時にセイの意識をその場から遠ざけ始めた。
とろとろとした眠りに落ちる時の感覚に従い意識を手放す直前、
自分の中で何者かが小さく笑ったような声を聞いた。